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自治体FM物語第2巻 › 第9話
第2巻 第9話

雨の日の約束

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苦情の電話が入ったのは、十二月に入って間もない、雨の朝だった。

野村健太は、地域協働課の自席で電話を受けた。

「みなと指定管理施設の入口で転びました。石畳が滑って」

電話の相手は、転倒した女性の家族だった。

野村は手帳を開き、状況を確認した。

転倒したのは六十代の女性。

入口のアプローチで足を取られ、前方へ倒れた。とっさに手をついたため手首を打ったが、骨折はなかった。現時点では軽傷だという。

「転倒した場所を、もう少し詳しく教えていただけますか」

「入口の前です。石が敷いてあるところで」

「当時、雨は降っていましたか」

「降っていました。石が濡れて、かなり滑りやすくなっていました」

「何かにつまずいた可能性はありますか」

「入口に黒いマットが敷いてあるんですが、それがずれていたんです。マットの端が浮いていて、そこに足が引っかかったようです」

野村は手帳へ書いた。

石材が濡れていた。

黒いマットがずれていた。

マットの端が浮いていた。

「以前から滑りやすかったのでしょうか」

「そうだと思います。去年も同じ場所で転んだ人がいると聞きました」

「その時のことは、施設へ伝えられていますか」

「そこまでは分かりません。でも、何年も前からマットを敷いているそうです。滑るから置いているんじゃないですか」

野村は電話を切った後、メモを読み返した。

滑りやすい石材。

滑り止めとして置かれたマット。

以前にも発生していたという転倒。

マットは危険を減らすために置かれたはずだ。

だが今回は、そのマットの端が、新たな転倒原因になっている。

施設へ連絡を入れた後、野村は外套を取り、席を立った。

みなと指定管理施設は、市役所から車で十五分ほどの場所にある。

多目的ホールと複数の会議室を備えた、中規模の地域施設だった。

地域のサークル活動や講演会、展示会などに利用され、指定管理者が日常の運営と管理を担っている。

築十八年。

入口のアプローチには、天然石が敷かれている。

施設のパンフレットには、

「周辺の景観と調和した、デザイン性の高い石材仕上げ」

と記載されていた。

現地に到着すると、雨はまだ降り続いていた。

野村は傘を差したまま、入口の前に立った。

石材の表面は雨に濡れ、薄く光を反射している。

近づいて見ると、表面は細かな凹凸が少なく、滑らかに研磨されていた。

入口の正面には、黒いゴム製のマットが敷かれている。

幅は一メートル半ほど。

ただし、石材が敷かれた範囲全体を覆っているわけではない。

マットの片側はわずかにずれ、角の部分が数センチ浮いていた。

野村は、指定管理者の担当者を呼んだ。

「このマットは、いつから置いてあるんですか」

「私が着任した時には、すでにありました」

「着任はいつですか」

「三年前です」

「それ以前の経緯は分かりますか」

「引継書に記載があります」

担当者は、事務室から引継書を持ってきた。

野村が該当箇所を確認すると、

「降雨時は入口石材が滑りやすいため、滑り止めマットを設置する」

とだけ書かれていた。

「根本的な改修をしなかった理由は、何か聞いていますか」

「いいえ」

担当者は首を振った。

「私が来た時には、すでにマットで対応していました。それが通常の管理方法だと思っていました」

「マットのずれや浮きは、日常的に確認していますか」

「汚れた時の清掃はしています。ただ、位置や端部まで毎日確認しているわけではありません」

「以前にも、ここで転倒があったという話は」

担当者の表情が曇った。

「去年、雨の日に一人転倒したと聞いたことがあります。ただ、怪我がなかったため、正式な事故報告は出していなかったと思います」

「記録はありますか」

「確認します」

野村はしゃがみ込み、石材へ指先を当てた。

乾いていれば、それほど危険には見えない。

だが濡れた表面は、手で触れても滑りやすさが分かる。

本来、滑りやすい石材への対策としてマットが敷かれたはずだった。

しかしマットは石材の一部しか覆っていない。

ずれれば、覆われていない滑りやすい部分が現れる。

端が浮けば、つまずく危険が生じる。

一つの危険を避けるための対策が、別の危険を作っていた。

折原へ電話したのは、施設から市役所へ戻る途中だった。

車は停車させてから、庁内用の携帯電話を取り出した。

「みなと指定管理施設の入口石材について、過去の記録を調べてもらいたいんですが」

「どういった記録ですか」

折原が尋ねた。

野村は、今朝の転倒事故について説明した。

入口の石材が雨で滑りやすくなっていたこと。

滑り止めとして黒いマットが置かれていたこと。

マットの端が浮き、転倒の原因になった可能性があること。

三年以上前から、同じマットで対応していること。

「マットを置くことにした時の判断記録を探す、ということですか」

「はい」

野村は答えた。

「なぜ石材そのものを改修せず、マットで対応することにしたのかを確認したいんです」

「マットが暫定措置だったのか、恒久的な対策だったのかも、分からない?」

「分かりません」

「見直し時期の記録は?」

「引継書にはありませんでした」

「探してみます」

折原は、それだけ言って電話を切った。

翌日、折原から連絡があった。

「四年前の修繕依頼が残っていました」

「内容は?」

「営繕課に対して起票された修繕依頼です。件名は『みなと指定管理施設入口石材の滑り止め対策について』」

「対策の内容は書かれていますか」

「依頼書には、降雨時に石材が滑りやすく、転倒の危険があると書かれています。表面処理か、石材の改修を検討してほしいという内容です」

「では、問題は四年前から認識されていた」

「少なくとも、修繕依頼が起票された時点では」

「その後、どのような対応になったんですか」

「そこが分かりません」

折原は答えた。

「修繕依頼の受付記録はあります。ただ、その後の見積り、査定、工事発注、完了確認の記録へつながっていません」

「途中で記録が切れている?」

「はい」

「工事をしなかった可能性もある?」

「あります。見積りだけ取って見送ったのかもしれません。マットを設置して完了扱いにした可能性もあります。ただ、今の記録だけでは確認できません」

野村は受話器を持ったまま考えた。

「営繕課の当時の担当者を確認できますか」

「調べてみます」

折原が持ってきた情報は、さらに二日後に届いた。

四年前、修繕依頼を担当した営繕課職員は、現在、別の部署へ異動していた。

折原が電話で確認したところ、職員には当時の記憶が残っていた。

石材表面への滑り止め加工と、一部撤去・再施工について業者へ見積りを依頼した。

しかし、想定より高額だった。

その年度の修繕予算では対応できず、本格的な改修は見送った。

職員は、そのように記憶していた。

「見積書は残っていましたか」

野村が尋ねると、折原は首を振った。

「見つかっていません」

「修繕を見送った決裁は?」

「それも見つかりません」

「では、予算不足で見送ったというのは、当時の担当者の記憶だけですか」

「現時点では、そうです」

折原は続けた。

「マットについても確認しましたが、設置を正式に決めた記録はありませんでした」

「誰が置いたのかも?」

「分かりません。営繕課が応急対応として設置したのか、当時の指定管理者が自主的に置いたのか、所管課が依頼したのか。記録からは確認できませんでした」

野村は、机の上のメモを見た。

四年前、施設側が危険を認識し、修繕依頼を起票した。

営繕課が見積りを取った。

本格改修には費用がかかり、予算化できなかった。

その代わりに、誰かがマットを置いた。

おそらく、そのような経緯だったのだろう。

一つひとつの判断には、理由があった。

危険を放置するつもりではなかった。

改修する予算がなかった。

だから、できる範囲の対策としてマットを敷いた。

しかし、その判断は記録されなかった。

マットが本格改修までの暫定措置だったのか。

これで対応を完了したと判断したのか。

いつまで使う予定だったのか。

誰が状態を確認するのか。

ずれや劣化が生じた場合、誰が交換するのか。

何一つ残っていなかった。

暫定措置だったとしても、そのことを知らない担当者にとっては、最初からそこにある通常の設備に見える。

三年。

四年。

担当者が替わるたびに、

「入口には滑り止めマットを置く」

という作業だけが引き継がれた。

なぜ置いているのか。

何が解決していないのか。

いつ見直すべきなのか。

その理由は消えていた。

そしてマットは少しずつずれ、端が浮いた。

本来、転倒を防ぐために置かれたものが、転倒の原因になった。

野村は、引継書の記述を思い出した。

「降雨時は入口石材が滑りやすいため、滑り止めマットを設置する」

書いてあることは、間違っていない。

ただし、足りなかった。

「本格的な滑り止め改修を実施するまでの暫定措置」

「マットの位置、浮き、劣化を日常点検する」

「年度ごとに本格改修の必要性と予算化を再検討する」

そこまで書かれていれば、四年間放置されることはなかったかもしれない。

野村は、折原に尋ねた。

「暫定対応をした場合、どこまで記録すればよかったんでしょう」

折原は、少し考えてから答えた。

「少なくとも、暫定であること」

「はい」

「なぜ恒久対応ができなかったのか」

「予算不足などの理由ですね」

「それから、見直す時期と、見直す人です」

「期限と担当者」

「はい」

折原は言った。

「終了条件も必要だと思います」

「終了条件?」

「本格改修を実施したらマットを撤去する。あるいは、安全性が確認できなければ使用を制限する。暫定措置を、いつ終えるかという条件です」

野村は、手帳へ書いた。

暫定措置の内容。

採用した理由。

残っている危険。

点検方法。

見直し時期。

担当者。

終了条件。

書き終え、手を止めた。

「これだけ残していれば、今回の事故は防げたでしょうか」

「分かりません」

折原は答えた。

「記録があっても、確認しなければ事故は起きます」

「そうですね」

「ただ、今よりは、誰かが問題に気づく機会は増えたと思います」

野村は頷いた。

暫定措置は、問題を解決したことにはならない。

だが、見た目の上では問題を隠す。

マットが敷かれれば、滑りやすい石材は見えにくくなる。

苦情が減れば、修繕依頼も出なくなる。

予算要求からも外れる。

そして、なぜマットを置いたのかを知る人がいなくなる。

問題が解決したのではない。

問題が、見えなくなっただけだった。

野村は、四年前の修繕依頼書を見た。

そこには、はっきりと書かれている。

「降雨時に転倒のおそれがあるため、早急な対策を要する」

早急な対策。

その結果として置かれた可能性のあるマットが、四年後の今日、利用者を転倒させた。

野村は手帳の最後に、一行を書いた。

「暫定措置には、必ず期限を付ける。期限のない暫定措置は、放置と区別できなくなる」

忘れないために

―なぜそう判断したのかを残す物語―

管財課の共有フォルダを確認していた時、野村は一つのフォルダ名に目を留めた。

折原の案内で、みなと指定管理施設に関係する過去の資料を探していた。

フォルダの最上段に、ほかとは少し違う名前があった。

「00_失敗記録(管財課内参考)」

野村は折原に尋ねた。

「このフォルダは何ですか」

折原は、一瞬だけ答えを迷ったように見えた。

「管財課の業務参考資料です。過去の失敗事例と、その後の改善策が記録されています」

「見てもいいものですか」

「閲覧範囲が限定されています。管財課の担当者に確認してください」

野村は、近くにいた片桐望へ声をかけた。

管財課に配属されて二年目の若手職員だ。以前、別の案件で一度だけ話したことがあった。

「このフォルダを参照してもいいですか。みなと施設の入口石材について、過去の対応を調べています」

片桐が、画面のフォルダ名を確認した。

「施設担当の川崎主任に確認します」

川崎翔平は三十代の主任で、管財課の中堅職員だった。

「野村さん、何を調べていますか」

「入口石材の滑り止め対策です。根本改修をせず、マットを置くことになった経緯が残っていなくて」

「暫定措置の記録を探している?」

「はい」

川崎は少し考え、片桐を見た。

「このフォルダ、閲覧記録を残した上で見てもらおう」

「分かりました」

片桐が閲覧者と目的を入力した。

川崎がフォルダを開く。

「若いうちに一度は読んでおいた方がいい資料だよ」

川崎が片桐へ言った。

「長谷課長が若い頃に経験した失敗が入っている」

「知っています。先日、原本の整理と登録を手伝いました」

「そうだったな」

川崎が野村へ画面を向けた。

「個人名や案件名が含まれる原本ではなく、改善事項を整理した共有版です。今回の調査に関係する項目だけ見てください」

みなと施設の石材そのものに関する記録はなかった。

しかし野村は、項目を読み進める途中で手を止めた。

「暫定対応の事後管理の失敗」

と題された記録だった。

ある施設で、本格的な改修費を確保できず、簡易な方法で応急対応を行った事例が書かれていた。

施設名や担当者名は伏せられている。

引継書には「暫定措置」と記載した。

だが、なぜ暫定としたのか、いつまで続けるのか、次にどのような条件が整えば本格対応へ移るのかを書かなかった。

その結果、後任の担当者は、簡易な対応を恒久的な管理方法として引き継いだ。

数年後、応急措置そのものが劣化し、新たな不具合の原因になった。

記録の末尾には、反省点が書かれていた。

「暫定措置を記録する際は、暫定とした理由、残存する危険、見直し期限、次の対応へ移行する条件を必ず記載する。『暫定』という言葉だけでは、次の担当者には何も伝わらない」

野村は、その一文を読み返した。

みなと施設のマットも、同じだった。

本来は、石材そのものへ滑り止め加工を施すか、石材を改修する必要があった。

しかし費用を確保できず、代わりにマットを敷いた。

おそらく、最初は暫定措置だった。

引継書に残っていたのは、

「滑り止めとしてマットを設置する」

という作業だけだった。

なぜマットなのか。

何が未解決なのか。

いつまで続けるのか。

どのような状態になれば本格改修を行うのか。

何も書かれていなかった。

理由が消え、作業だけが残った。

野村は、長谷へ声をかけた。

管財課長の長谷巡と直接話すのは、これが初めてだった。

「長谷課長、少しよろしいですか。みなと指定管理施設の入口石材についてです」

長谷が書類から顔を上げた。

「地域協働課の野村さんか。失敗記録を見ていたな」

「川崎主任に確認していただき、共有版を参照しました」

「何か使えそうなものはあったか」

「暫定対応の事後管理の記録が、今回の件とよく似ていました」

長谷は小さく頷いた。

「入口石材の本格改修は、予算の都合で見送られたんじゃないか」

「当時の担当者は、そう記憶していました。ただ、見積書も見送りの記録も残っていません」

「記録がないか」

「はい。マットを誰が、どのような判断で置いたのかも確認できませんでした」

「そういう案件は多い」

長谷は言った。

「見送った理由は、実施した理由より残りにくい」

「なぜですか」

「書きにくいからだ」

長谷は答えた。

「予算がなかった。ほかの施設を優先した。緊急性が低いと判断した。担当者が失念した。そういう理由は、わざわざ記録に残したくない」

「でも、本格対応ができなかった理由として必要です」

「そうだ」

長谷は頷いた。

「暫定措置には、必ず暫定にした理由がある。その理由が消えると、暫定措置が通常の管理方法に変わる」

野村は手帳へ書き留めた。

暫定にした理由が消えると、暫定が恒久になる。

長谷が、少し間を置いて続けた。

「昔、教わったことがある」

「何をですか」

「地図が正しくても、歩くのは人間だ」

野村は顔を上げた。

「どういう意味でしょうか」

「計画書が正しくても、記録が正確でも、それを読んで動くのは人間だ」

長谷は答えた。

「読んだ人間が意味を理解できなければ、正しい記録も使われない」

「だから、暫定措置とだけ書いても足りない」

「そうだ。次の担当者が、なぜそうしたのかを理解できる言葉で書く。何がまだ危険なのか、次に何をしなければならないのかまで書く」

「専門用語だけではなく」

「普通の言葉でいい」

長谷は言った。

「必要なのは、格好のいい記録じゃない。次の人間が、同じ場所から仕事を続けられる記録だ」

誰から教わった言葉なのか、長谷は話さなかった。

野村も尋ねなかった。

その日の夕方、野村は宮野へ電話をかけた。

みどり地区集会所の事故以来、制度と説明の整理に迷った時は、宮野に意見を聞くようになっていた。

宮野は状況を一通り聞いてから、短く尋ねた。

「その石材の修繕について、誰に説明するんですか」

野村は、少し考えて答えた。

「今回転倒した利用者、施設を使う市民、指定管理者、予算を査定する財政課、それから次の担当者です」

「では、その人たちが読んで、何が起きたか分かる記録を作ってください」

「はい」

「根本改修は、どうしますか」

「来年度予算で要求します。今年度中の施工は難しいです」

「予算が認められなかった場合は?」

野村は答えに詰まった。

「……再度要求します」

「それだけでは、また四年前と同じです」

宮野が言った。

「予算要求が認められなかった場合に、どの時点で使用制限を検討するのか。応急措置を続けられる条件は何か。そこまで決めておいてください」

「分かりました」

「改修までの間、マットはどうしますか」

「ずれないよう、固定方法を改善します」

「マットを固定しても、石材そのものが滑る危険は残ります」

「はい」

「マットの範囲、固定状態、石材の露出部分を確認してください。必要なら雨天時の動線を限定し、注意表示も行う」

野村は手帳へ書いた。

「指定管理者には、開館前に確認してもらいます」

「確認結果も記録に残してください。事故や、転倒に至らなかった事例も報告させること」

「ヒヤリハットもですか」

「はい。怪我がなければ記録しない、では、危険が消えます」

宮野は続けた。

「今回の事故について、転倒した方へのお見舞いには行きましたか」

「まだです」

「先に行ってください」

「説明資料を作ってからではなく?」

「説明より先です」

それだけ言って、電話は切れた。

説明より先に、相手のところへ行く。

宮野らしい順番だった。

転倒した女性の自宅を訪ねたのは、翌日の午前中だった。

電話では六十代と聞いていた。

玄関に出てきた女性の右手首には、薄い湿布が貼られていた。

「わざわざ来てくれたんですね」

「このたびは、申し訳ありませんでした」

野村は頭を下げた。

「以前から危険が指摘されていたにもかかわらず、十分な対応ができていませんでした」

「もう痛みは、ほとんどありません」

女性は、野村を居間へ案内した。

「大事にならなくてよかったです」

「状況を改めて確認させてください。以前にも、同じ場所で転倒した方がいると伺いました」

女性は少し黙った。

「それ、私なんです」

「え?」

「去年も、同じ場所で転びました」

野村は手帳を開いた。

「去年もですか」

「はい。その時は怪我もなかったので、施設には言いませんでした」

「その前にも、危ないと感じたことはありますか」

「一昨年も、雨の日に滑りかけました。転びはしませんでしたが」

同じ利用者が、三年間で二度転び、一度滑りかけていた。

行政にも指定管理者にも、その全体像は記録されていなかった。

「なぜ、去年は知らせなかったんですか」

野村が尋ねると、女性は少し考えてから答えた。

「言っても変わらないと思ったからです」

「変わらない?」

「施設のことは、市役所や管理する会社が決めることでしょう。私たちが言っても仕方がないと思っていました」

野村は返す言葉を失った。

四年前、修繕依頼は出ていた。

本格改修は、予算の都合で見送られた可能性がある。

マットが敷かれ、それ以上の対応は進まなかった。

実際に、何年も状況は変わっていない。

「でも、あの施設は好きなんです」

女性が言った。

「二十年以上通っています。友達もいます。行くのを毎週楽しみにしています」

「これからも使っていただけますか」

「入口を安全にしてもらえるなら」

「来年度の本格改修を予算要求します」

野村は答えた。

「それまでの間は、マットの固定と範囲を見直します。雨天時は職員が開館前に状態を確認し、必要に応じて安全な通路へ誘導します」

「今度は変わりますか」

野村は、すぐには「変わります」と言えなかった。

予算が認められる保証はない。

工事が予定どおり実施できる保証もない。

「少なくとも、今回のことを記録から消しません」

野村は言った。

「改修が終わるまで、未解決の問題として引き継ぎます」

女性が野村を見た。

「では、書いておいてください」

「何をでしょう」

「去年も転んだこと。一昨年も滑りかけたこと。雨の日は前から危ないと思っていたこと」

女性は言った。

「次の担当者にも伝わるように」

野村は手帳を開いた。

「記録します」

「私の名前も必要ですか」

「事故記録には、必要な範囲で記載します。引継書には、個人が特定されない形で、複数年にわたり転倒とヒヤリハットが発生していたことを残します」

「それならお願いします」

野村は、女性の話を一つずつ確認しながら書き留めた。

引継書を作成したのは、その週の金曜日だった。

野村は草稿を折原へ見せた。

折原が読み、一か所で手を止めた。

「『暫定措置としてマットを設置している』とあります」

「はい」

「なぜ暫定なのか、いつまでなのか、次の対応へ移る条件が、まだ明確ではありません」

野村は、自分で書いた文章を読み返した。

「書き直します」

折原と確認しながら、記述を改めた。

「入口アプローチの天然石は、降雨時に滑りやすくなるため、ゴム製マットを設置している。これは、石材への恒久的な滑り止め加工または改修を実施するまでの暫定措置である」

「四年前に営繕課へ修繕依頼が提出されている。当時の担当者への聞き取りでは、改修費が年度予算を超えたため見送られたとのことである。ただし、見積書および見送り決定の記録は確認できていない」

「今回の転倒者から、前年にも同じ場所で転倒し、その前年にも滑りかけたとの申告があった。これらは当時報告されておらず、今回初めて把握した」

「次年度予算で恒久改修を要求する。予算措置が得られなかった場合も、翌年度へ自動的に先送りせず、事故発生状況、マットによる対策の有効性、使用制限の必要性を改めて判断する」

「恒久改修が完了するまで、指定管理者は雨天時の開館前に、マットのずれ、浮き、劣化、固定状態および石材露出部の状態を確認する」

「転倒事故および転倒に至らない滑り・つまずきについても、所管課へ報告する」

「マットで安全を確保できない場合は、雨天時の動線変更、職員による誘導または入口の一時的な使用制限を行う」

「恒久改修の完了をもって暫定措置を終了し、マットの継続使用の要否を再評価する」

折原が、修正後の文章を読んだ。

「これなら、次の担当者は状況を判断できます」

「暫定の理由、見直し時期、次の条件が書かれている?」

「はい。それに、現時点で確認できていないことも分けて書かれています」

「長谷課長の失敗記録から教わりました」

「残っていた失敗が、今回の判断に使われたということですね」

引継書を施設ファイルへ登録した後、野村は折原に尋ねた。

「これが判断記録というものですか」

「引継書であり、判断記録でもあります」

折原は答えた。

「何をしたかだけでなく、なぜその対応を選んだのか、何が未解決なのか、次に何を判断すべきかが書かれているからです」

野村は画面の記録を見た。

四年前、同じような記録が作られていれば。

マットが暫定措置だと明記されていれば。

予算を要求し直す時期が決められていれば。

事故やヒヤリハットを報告する仕組みがあれば。

今回の転倒は、防げたかもしれない。

だが、過去を責めても記録は増えない。

今日から変えるしかない。

倉持議員から問い合わせが入ったのは、その翌週だった。

周辺住民から転倒事故の話を聞いたらしく、地域協働課長へ説明を求めてきた。

課長に呼ばれた野村は、事故記録、改訂した引継書、今後の対応方針を持って説明した。

課長は、引継書を読み終えて言った。

「確認できた事実と、聞き取りによる情報が分けてあるな」

「はい」

「暫定措置を続ける条件と、使用制限を判断する条件も書かれている」

「折原さんと確認しました」

「これなら、議員にも説明できる」

倉持議員への回答は、課長が行った。

石材の危険性が四年前から認識されていたこと。

本格改修が見送られた経緯について、正式な記録が残っていないこと。

マットが暫定措置として置かれたと考えられるが、その判断記録もないこと。

今回、過去の転倒とヒヤリハットを新たに把握したこと。

次年度に恒久改修を予算要求すること。

それまでの点検、動線管理、事故報告の方法を改めたこと。

倉持議員は、しばらく説明を聞いた後、

「分かった。予算要求の結果も報告してくれ」

と言ったという。

追及が終わったわけではない。

改修が終わったわけでもない。

ただ、問題は再び見える場所へ戻った。

期限のない暫定措置は、放置と区別できない。

見直す時期を記録しても、その時に実際に見直されなければ、暫定措置を止めることはできない。

── 了 ──

この話のFM豆知識

(豆知識は準備中)

つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら