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第2巻 第10話

判断記録

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折原が「判断記録制度」の素案を書き上げたのは、一月の末だった。

A4で八枚。

制度の目的、対象案件の基準、記録する項目、作成時期、保存方法、閲覧範囲。必要な事項を、一項目につき一ページから二ページで整理した。

この半年間に見てきた問題が、すべて素案の中にあった。

北小学校の施設評価では、点数だけが残り、係数を決めた理由が消えていた。

二十五年前の補助事業では、補助金の種類と処分制限の条件が引き継がれていなかった。

文化会館の停電訓練では、非常用回路へ機器を追加した理由は断片的に残っていたが、設備全体への影響が記録されていなかった。

みどり地区集会所では、消防査察の前だけ廊下を片付ける手順が、理由を失ったまま十二年間引き継がれていた。

大浜公民館では、市民との口頭の約束が記録されず、七年後には言ったかどうかさえ確認できなくなっていた。

共有フォルダには、どれが正式版か分からないファイルが並んでいた。

長谷の失敗記録は、棚の奥から偶然発見されるまで、存在を知られていなかった。

保存期間が満了した積算データは、必要性を説明する記録がなかったため、システム上は不要なファイルとして扱われた。

みなと指定管理施設では、滑りやすい石材への暫定措置が、見直されないまま四年間続いていた。

どの案件にも、当時の担当者なりの判断があった。

しかし、その理由が残っていなかった。

結果だけが残り、判断に至る過程が消えていた。

その過程を、次の担当者が確認できる形で残す。

そのための仕組みが、判断記録制度だった。

折原は素案を印刷し、行政管理課長の机へ持っていった。

「庁内の関係課へ説明する機会をいただけますか」

課長は一枚目の要旨を読んだ。

「どんな制度だ」

「重要な判断を行った案件について、結論だけでなく、その判断に至った理由、採用しなかった案、前提条件、残された課題を記録します」

「対象は?」

「将来、担当者が替わった時に、判断理由を再確認する可能性が高い案件です。施設の統廃合、予算配分、随意契約、暫定措置、制度変更などを想定しています」

課長は、もう一度素案へ目を落とした。

「やってみろ」

「ありがとうございます」

「ただし、反発が出ることは覚悟しておけ」

「はい」

庁内説明は、二週間に分けて行われた。

管財課、営繕課、財政課、地域協働課、DX推進課、総務課。

折原が各課へ出向き、三十分から一時間をかけて制度案を説明した。

反応は、課によって異なった。

管財課は比較的好意的だった。

長谷が若い頃から作成してきた失敗記録が、すでに判断記録と同じ役割を果たしていたからだ。

長谷は素案を読み終えると、

「方向は正しい」

と言った。

ただし、対象案件を広げすぎないこと、確認できない事実を推測で書かないこと、見直し時期を必須項目にすることを指摘した。

営繕課は慎重だった。

石末が、記録項目の一覧を見ながら尋ねた。

「現場で不具合が起きるたびに、これを書くのか」

「すべての不具合を対象にするつもりはありません」

折原は答えた。

「暫定措置を行った場合や、複数の選択肢から一つを選んだ場合など、後で理由の確認が必要になるものに絞ります」

「どこまで書けば終わりなんだ」

石末が聞いた。

「全部書こうとするから、大変になるんですよね」

隣にいた乾が言った。

「次の担当者が、なぜその判断をしたか理解できればいい。現場日誌を全部書き直す必要はないんじゃないですか」

折原は頷いた。

「その考え方を、制度案に加えます」

財政課の反応は静かだった。

響矢は素案を一読すると、保存方法のページで手を止めた。

「保存期間との整合は確認しましたか」

「個別案件の文書と同じ期間を基本にする予定です」

「予定ではなく、文書分類ごとに整理してください」

「分かりました」

響矢は、それだけ言って自席へ戻った。

地域協働課では、野村が即答した。

「やります」

みなと指定管理施設で、暫定措置の理由が消えた結果を経験していた。

制度が必要かどうかを、改めて説明する必要はなかった。

DX推進課では、日下部が素案を最後まで読み込んだ。

「文書管理システムのバージョン履歴と連携できます」

「どのようにですか」

「ファイルを更新した時に、判断記録の文書番号をコメント欄へ入力するようにします。何を変更したかだけでなく、なぜ変更したかを追えるようになります」

日下部は、すでに自分の仕事として話していた。

長谷の失敗記録も、日下部と片桐の手で電子化されることになった。

「紙は、置き場所を知っている人間しか見つけられません」

日下部が言った。

「検索できる形にします」

長谷は答えた。

「消えるものを、消えにくい形にするだけだ」

問題が起きたのは、総務課への説明の日だった。

七階の総務課。

課長の藤岡務は、折原の説明を最後まで黙って聞いていた。

五十五歳。

白髪交じりの短髪。机には処理途中の書類が積み上がっている。

折原より二十歳ほど年上で、行政実務を三十年以上経験していた。

説明が終わると、藤岡は素案を閉じた。

「仕事が増えますね」

「一件当たり、A4で一枚から三枚程度を想定しています」

「枚数の話ではありません」

藤岡は言った。

「資料を集め、経緯を確認し、文章を書き、上司が確認し、文書として登録する。そのすべてが仕事です」

「はい」

「重要案件は、全庁で年間何件あると思いますか」

「対象を絞っても、相当数になると思います」

「百件を超える可能性もある」

「あります」

「その記録を作る人員が、今の各課にいますか」

折原は答えた。

「新しい仕事を増やすというより、現在、担当者が個人的に行っている調査や引継ぎを、組織的な記録に変える制度です」

「それは制度の目的です」

藤岡は静かに言った。

「私が聞いているのは、実際の作業量です」

折原は言葉を止めた。

「記録を作る時間は、確実に増えます」

藤岡が続けた。

「将来の担当者の調査時間が減るとしても、今の担当者の業務は増える。その負担を、誰が引き受けますか」

「対象案件を限定します」

「その対象を決めるのは誰ですか」

「各課の判断を基本とし、必要に応じて行政管理課が確認することを想定しています」

「各課に任せれば、忙しい課ほど作らなくなる」

藤岡は即座に言った。

「行政管理課が確認すれば、今度は行政管理課の仕事が増える」

「はい」

「判断記録を作らなかった案件で後から問題が起きたら、なぜ作らなかったのかが問われる。その判断記録も必要になるんじゃないですか」

折原は答えられなかった。

藤岡は素案の「対象案件」のページを開いた。

「制度を作れば、職員は対象から外すことを恐れます。念のため作る案件が増える。結果として、重要でないものまで記録される」

「対象基準を、より具体的にします」

「具体的にしても、境界の案件は残ります」

藤岡はページをめくった。

「もう一つ聞きます」

「はい」

「この判断記録は、情報公開請求の対象になりますか」

「行政文書として作成するため、対象になります」

「では、失敗したことも書く?」

「再発防止に必要であれば」

「採用しなかった案も?」

「判断経緯を理解するために必要な場合は、記録します」

「担当者間の意見の違いも?」

折原は少し迷った。

「個人への評価にならない形で、主要な論点を記録します」

藤岡は折原を見た。

「そんなにうまく書き分けられますか」

「研修や記載例を用意します」

「聞きたいのは技術的に書けるかどうかではありません」

藤岡の声は静かなままだった。

「正直に書いた記録が、後から責任追及の材料に使われる可能性がある。それでも職員は、正直に書くと思いますか」

折原は答えられなかった。

そこは、自分でも懸念していた。

判断記録は、正直に書かれなければ意味がない。

都合の悪い事実や、採用しなかった案、判断時点での不確実性が記録されなければ、完成した結論を後から正当化するだけの文書になる。

しかし、正直に書けば、

「危険を認識していたのに対応しなかった」

「別の案があったのに採用しなかった」

「予算不足を理由に先送りした」

と読まれる可能性がある。

事故や紛争が起きた時には、担当者や決裁者の責任を問う材料になるかもしれない。

その可能性を知っていれば、職員は書かない。

曖昧な表現を使う。

検討した事実を消す。

問題のない結論だけを記録する。

制度だけが残り、中身が空洞になる。

「条例上の不開示情報に該当する部分は、非開示または一部開示になります」

折原は答えた。

「政策を決める途中の庁内検討に関する情報、いわゆる意思決定過程情報についても、率直な意見交換が損なわれるおそれがある場合は、条例上の要件に該当すれば不開示または一部開示となる場合があります」

「場合、ですね」

「はい」

「最終的な判断が終わった後は、意思決定過程を理由に不開示にできない場合もある」

「あります」

「では、担当者に『正直に書け。ただし後で公開され、責任を問われる可能性がある』と言うんですか」

「……その懸念は、正当だと思います」

「正当だと認めるなら、解決策はありますか」

折原は素案を見た。

制度の目的。

記録項目。

作成時期。

保存方法。

閲覧範囲。

どこにも、職員が正直に書ける条件については書いていなかった。

「今の段階では、十分な答えを持っていません」

折原は答えた。

藤岡は、しばらく黙っていた。

「判断の理由を残すこと自体には反対しません」

「はい」

「だが、制度にすれば別の問題が起きる」

藤岡は素案を折原へ返した。

「仕事を増やし、書かなかった責任を増やし、正直に書いた職員が不利になる制度なら、長続きしません」

折原は素案を受け取った。

「そこを詰めてから、もう一度持ってきてください」

「分かりました」

「現時点では賛成できません」

折原は七階から六階へ戻った。

自席に座り、素案を机の上へ置いた。

藤岡の指摘を書き出した。

対象案件が多すぎる。

作成の負担が大きい。

対象と対象外の境界が曖昧。

各課へ任せれば記録されない。

行政管理課が確認すれば、確認業務が集中する。

記録を作らなかったこと自体が、後から責任問題になる。

情報公開の対象になる。

失敗や不採用案を正直に書けば、責任追及に使われる可能性がある。

責任追及を恐れれば、職員は正直に書かなくなる。

制度だけが残り、内容が空洞になる。

どれも間違っていなかった。

折原が半年間見てきたのは、記録が残らなかったために起きた問題だった。

だが、残せばすべて解決するわけではない。

記録することにも、負担がある。

記録することで、新たな責任が生まれる。

残された文書が、作成した人間を守るとは限らない。

場合によっては、その人間を責めるために使われる。

折原は、判断記録制度の素案を開いた。

これまでの自分は、

「何を残すか」

ばかりを考えていた。

藤岡が問うたのは、

「どうすれば正直に残せるか」

だった。

その答えがなければ、制度は動かない。

折原は画面を閉じた。

どこから直せばよいのか、今はまだ分からなかった。

ただ、藤岡の反対を、制度を理解していない人間の抵抗として処理してはいけないことだけは分かった。

これは、記録を残す制度を本物にするために、避けて通れない問題だった。

忘れないために

―なぜそう判断したのかを残す物語―

珈琲三番地へ来るよう千々岩から連絡があったのは、総務課への説明から三日後だった。

「来られるか。夕方に」

折原は六階を出て、本庁舎から徒歩三分の道を歩いた。

夕方の珈琲三番地には、昼とは違う光があった。窓から差し込む西日が、カウンターの木目を斜めに照らしている。

千々岩は、いつもの奥の席にいた。

今日はコーヒーを飲んでいた。

「座れ」

折原は隣の席に座り、自分もコーヒーを頼んだ。

「藤岡に言われたことは聞いた」

千々岩が言った。

「どこから聞いたんですか」

「七階は狭い。黙っていても聞こえてくる」

折原は、それ以上聞かなかった。

「藤岡は正しいことを言っているか」

「正しいと思います」

「では、お前は間違っていたのか」

折原は、少し黙った。

「制度の方向は間違っていないと思います。ただ、詰めが足りませんでした」

「何が足りなかった」

「業務量と情報公開への対応です。どちらも、十分に整理できていませんでした」

千々岩がコーヒーを一口飲んだ。

「まず、情報公開の問題から考える」

「はい」

「判断記録に、採用しなかった案や失敗した経緯を書けば、情報公開請求で外に出る可能性がある。これは正しいか」

「正しいです」

「では、失敗を書かなければ外に出ないか」

折原は言葉を選ぶように黙った。

「書かなければ、行政文書として存在しません。したがって、開示されることもありません」

「そうだ」

千々岩が言った。

「書かなければ出ない。書けば出る可能性がある。ならば、書かない方が安全だという論理になる」

「はい」

「その論理の結果が、お前がこの半年で見てきたものだ」

折原は黙った。

北小学校では、評価点だけが残り、係数を決めた理由が消えていた。

補助金事業では、制度の種類も処分制限の条件も引き継がれていなかった。

文化会館では、非常用回路へ設備を追加した理由が分断され、全体の容量管理が失われていた。

集会所では、査察前だけ廊下を片付ける作業が、理由を失ったまま十二年間続いた。

市民との口頭の約束は、記録がないため、言ったかどうかさえ確認できなくなっていた。

入口のマットは、暫定措置であることを忘れられ、転倒事故の原因になった。

書かなかったから、次の担当者には何も分からなかった。

分からないまま、同じ判断が繰り返された。

「書くことには危険がある」

千々岩が続けた。

「だが、書かないことにも危険がある。藤岡は前者を指摘した。お前が見てきたのは後者だ」

「どちらかを選ぶしかないということですか」

「違う。両方の危険を減らす仕組みを考えるんだ」

折原は手帳を開き、その言葉を書いた。

「次に業務量の問題だ」

千々岩が言った。

「記録を作れば仕事が増える。藤岡の指摘は正しいか」

「正しいです」

「では、仕事が増えない制度にすればいいか」

「対象を絞り、書く量を減らす必要があると思います」

「それは正しい。ただ、もう一つある」

千々岩が人差し指で、カウンターを軽く叩いた。

「完璧な記録を作ろうとするな」

折原は答えなかった。

「お前の素案は、判断の経緯を完全に復元できる文書を作ろうとしている。採用した案、採用しなかった案、反対意見、前提条件、将来の課題。全部を書かせようとしている」

「必要だと思いました」

「必要な場合もある。だが、すべての案件で求めれば、誰も書かなくなる」

折原は素案を思い浮かべた。

確かに、記録項目は多かった。

正確な制度を作ろうとするほど、記録すべき内容を増やしていた。

「では、どこまで書けばいいのでしょうか」

「次の担当者が、同じ穴に落ちない程度でいい」

折原は、その言葉を考えた。

完全な経緯ではなく、次の担当者が同じ失敗を避けるために必要な内容。

すべてを残すのではなく、次の判断に必要な最低限を残す。

「それでは、引継書と何が違うんですか」

千々岩は首を振った。

「引継書は、仕事の手順を書くものだ」

「判断記録は?」

「なぜ、その手順や結論になったのかを書く」

千々岩は続けた。

「引継書は、担当業務について毎回作る。判断記録は、重要な判断があった時だけでいい」

コーヒーは冷め始めていた。

折原はカップを持ち上げ、残っていた分を飲んだ。

「藤岡課長に、もう一度説明できると思いますか」

「できる」

千々岩は答えた。

「ただし、次はお前一人で行くな」

「誰と行けばいいですか」

「行政管理課長だ」

「課長を動かす、ということですか」

「そうだ」

千々岩が折原を見た。

「制度の素案は主査でも作れる。だが、庁内を動かすのは管理職の仕事だ。その違いを分かっているか」

折原は、しばらく考えてから頷いた。

「分かっていませんでした」

制度の内容を整えることばかりに集中し、制度を通すために誰が動くべきかを考えていなかった。

自分が説明を重ねれば、いつか理解してもらえると思っていた。

それだけでは組織は動かない。

夜の十時を過ぎた六階は、静かだった。

珈琲三番地から戻った折原は、自席で判断記録制度の素案を修正していた。

千々岩の言葉を手帳に書き写しながら、記録項目を削っていく。

採用しなかった案の記録は、必要な場合のみとした。

反対意見の詳細も、必須項目から外した。

最低限の記録項目として残したのは、次の四つだった。

判断した内容。

その判断を選んだ主な理由。

次の同種案件へ申し送るべき事項。

関係資料の所在。

記録は、A4一枚を標準とした。

複雑な案件でも、原則として二枚以内とする。

詳細な経緯を残す必要がある場合は、既存の議事録、決裁文書、調査報告書などを参照資料として紐づける。判断記録自体に、すべてを書き直す必要はない。

対象案件の基準も絞った。

前例のない判断をした案件。

住民や事業者への影響が大きい案件。

暫定措置を採用した案件。

複数の選択肢から一つを選び、後任者がその理由を確認する可能性が高い案件。

将来、条件が変わった時に再判断が必要となる案件。

通常の定型事務や、既存の基準に沿って処理しただけの案件は、原則として対象外とした。

情報公開への対応についても、制度の目的を明記した。

「本記録は、個人の責任を追及するためではなく、組織として判断の理由を継承し、同種案件の適切な処理に役立てるために作成する」

「個人名、個人への評価、必要性のない利害関係者の情報は記載しない」

「不確実な情報については、確認できた事実と推測を区別して記載する」

責任追及への懸念が、これで消えるわけではない。

制度の目的を書いただけで、開示請求の対象から外れるわけでもない。

それでも、誰かを評価する文書ではなく、次の判断に必要な事実と理由を残す文書であることは明確にできる。

それが、今の段階でできる最大限だと思った。

廊下から足音が聞こえた。

防災棟と本庁舎を結ぶ連絡通路の方から、誰かが歩いてくる。

やがて、宮野彩乃が姿を現した。

手には、学校施設関係のファイルを抱えている。

「まだいたんですか」

宮野が言った。

「宮野さんも」

「学校統廃合の資料を整理していました。今日中に終わらせる必要があって」

宮野は折原の机の前を通り過ぎようとして、画面に表示された文書へ目を留めた。

「判断記録制度の素案ですか」

「修正しています」

宮野が画面をざっと読んだ。

「項目が減りましたね」

「千々岩課長に、完璧な記録を作ろうとするなと言われました」

「そうですね」

宮野は即答した。

「完璧な記録は、誰も作れません」

「この程度で、藤岡課長に認めてもらえるかは分かりません」

「それは、折原さん一人の仕事ではないと思います」

「どういう意味ですか」

「制度を作るのは、担当者の仕事です」

宮野が言った。

「庁内を動かすのは、課長の仕事です」

折原は、千々岩の言葉を思い出した。

制度を作るのは主査でもできる。

動かすのは課長の仕事だ。

「千々岩課長にも、同じことを言われました」

「なら、そういうことです」

宮野が再び画面を見た。

「それで、この記録は誰に説明するものですか」

折原は考え込んだ。

「次の担当者です」

「では、その人が読める文章にしてください」

宮野は、それだけ言うと、廊下の奥へ歩いていった。

行政管理課長が藤岡のもとへ説明に行ったのは、二月の初めだった。

折原も同席した。

行政管理課長が、修正した制度案の要点を説明した。

対象を限定したこと。

A4一枚を標準としたこと。

既存資料を参照させ、同じ内容を書き直さない仕組みにしたこと。

個人への評価ではなく、組織の判断理由を残すことを目的としたこと。

最初から全庁導入するのではなく、試行とすること。

藤岡は、前回と同じように、最後まで口を挟まずに聞いていた。

説明が終わると、修正版を一枚ずつ読み始めた。

前回より、読む時間が長かった。

「業務量については、対象を絞ることで対応したのですか」

藤岡が尋ねた。

行政管理課長が答えた。

「はい。すべての案件ではなく、後任者が判断理由を確認する可能性が高い案件に限定します」

「対象かどうかは、誰が決めますか」

「原則として所管課長が判断します。行政管理課は、一件ごとの事前確認は行いません」

「行政管理課の確認業務を増やさないためですか」

「それもありますが、判断の必要性を最も理解しているのは所管課だからです」

藤岡は頷かなかった。

ただ、次のページをめくった。

「情報公開への対応は」

「行政文書である以上、情報公開請求の対象となることは変わりません」

行政管理課長が答えた。

「その点を曖昧にはしません。ただし、個人名や個人への評価を書くものではなく、組織としての判断理由を簡潔に記録する制度としました」

「失敗は書かないのですか」

「同種案件の再発防止に必要な事実は書きます。ただし、個人の失敗としてではなく、判断上の注意事項として記録します」

「書いた職員が責任を問われる可能性は消えません」

「消えません」

行政管理課長は答えた。

「しかし、記録を残さなかったために、市として説明できなくなる危険もあります。両方の危険を踏まえ、まず限定的に試すべきだと判断しました」

藤岡はしばらく黙っていた。

「試行なら構いません」

折原は、藤岡を見た。

藤岡が続けた。

「賛成したという意味ではありません。制度として機能するか、試す価値はあるという判断です」

「試行期間は半年を想定しています」

「半年後に、必ず検証してください」

藤岡が言った。

「何件作成されたかだけでは足りません。実際に次の判断に使われたか、作成負担はどの程度だったか、正直に書けない事例がなかったかを確認すること」

「承知しました」

行政管理課長が答えた。

「結果によっては、項目も対象も見直します」

「それならいいでしょう」

藤岡は資料を閉じた。

「市長への説明は、私からしておきます」

廊下に出た後、折原は行政管理課長に尋ねた。

「どうして認めてもらえたのでしょうか」

「本人に聞いてみればいい」

課長は、それだけ言って先に歩いていった。

折原は少し迷った後、総務課へ戻った。

藤岡は、すでに別の書類へ目を通していた。

「一つ、聞かせていただけますか」

藤岡が顔を上げた。

「何だ」

「なぜ、試行を認めてくださったんですか」

藤岡は、わずかに意外そうな顔をした。

それから椅子の背にもたれた。

「私も、似たことをやろうとしたことがある」

「いつですか」

「二十年ほど前だ」

「判断の理由を残す制度を?」

「制度と呼べるほどのものではない」

藤岡は答えた。

「重要案件について、決裁文書とは別に経緯を残そうとした。担当者が替わるたびに、同じ調査と議論を繰り返していたからだ」

「実施できなかったんですか」

「当時の上司に、仕事が増えると言われて止められた」

「反論しなかったんですか」

「できなかった」

藤岡は淡々と言った。

「実際、仕事は増える。情報公開の問題もあった。今回、私がお前に言ったことと、同じことを言われた」

折原は黙って聞いていた。

「あの時、止めた判断が正しかったのか、間違っていたのか。今でも分からない」

藤岡は続けた。

「ただ、その後も同じ問題は何度も起きた。担当者が替わり、理由が消え、同じ調査を繰り返した」

「だから、試行を認めたんですか」

「お前の案が完璧だからではない」

「はい」

「完璧でなくても、小さく試すところまで持ってきたからだ」

藤岡は折原を見た。

「二十年前の私は、反対されたところで止まった。お前は修正して、課長を連れて、もう一度来た。その違いだ」

折原は、返す言葉を探した。

「それでも、制度がうまくいく保証はありません」

「当然だ」

藤岡は書類へ目を戻した。

「だから試行なんだ。半年後に、駄目だった理由も残せ」

「判断記録として、ですか」

「そうだ」

藤岡は、もう折原を見なかった。

話は終わったということだった。

折原は軽く頭を下げ、総務課を出た。

廊下を歩きながら、千々岩の言葉を思い返した。

完璧な記録を作ろうとするな。

次の担当者が、同じ穴に落ちない程度でいい。

そして藤岡は、二十年前の失敗を口頭で折原へ伝えた。

もし今回の試行についても、理由を残さなければ、いつか誰かが同じところから始める。

折原は六階へ戻ると、新しい判断記録の様式を開いた。

最初の記録として、制度を試行するに至った経緯を書き始めた。

判断した内容。

判断記録制度を、全庁の一部部署で半年間試行する。

判断の理由。

過去の複数案件において、判断理由が記録されなかったため、後任者が同じ調査や失敗を繰り返していた。一方、全庁導入には作成負担と情報公開上の懸念がある。このため、対象と記録項目を限定し、試行結果を検証した上で制度の継続を判断する。

次の担当者への申し送り。

半年後に、作成件数だけでなく、実際の利用状況、作成負担、記載の萎縮が生じなかったかを確認すること。制度が機能しなかった場合は、その理由も記録すること。

折原は書き終えた文書を読み返した。

完璧ではない。

だが、次の担当者が同じところから始める必要はない。

それが、今できる最大限だった。

── 了 ──

この話のFM豆知識

(豆知識は準備中)

つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら