停電の日
乾智也が青葉市文化会館へ着いたのは、朝八時半だった。
営繕課の主事として配属されて四年。
現場へ出る機会は多いが、全館停電訓練を担当するのは初めてだった。
文化会館で全館停電を伴う訓練を実施するのは、十年ぶりだという。
前回の記録は、引継書に一行だけ残っていた。
「平成二十八年度実施。特記事項なし」
それだけだった。
前日、乾は石末堅へ声をかけた。
石末は再任用の技術職員で、営繕課に三十年以上勤務している。
「明日、文化会館の停電訓練なんですが」
「知ってる」
石末は図面から顔を上げずに答えた。
「十年ぶりなら、何か出るぞ」
「何が出るんですか」
「行けばわかる」
相変わらずの答えだった。
文化会館は、市役所から車で十分ほどの場所にある。
大ホール。
会議室。
楽屋。
事務室。
倉庫。
地下には、電気室と機械室がある。
教育委員会の文化振興課が所管し、指定管理者が日常の管理運営を担っている。
築三十五年。
前回の大規模改修から、十二年が経過していた。
訓練の手順は、事前に関係者と調整してある。
午前中は全館を休館とする。
午前九時に館内に利用者がいないことを確認し、常用電源を遮断する。
非常用照明の点灯。
排煙窓の開放。
防火戸と防火シャッターの作動。
最後に受電を停止し、非常用発電機が正常に起動して、必要な設備へ電源を供給できるか確認する。
午前中には、すべて終わる予定だった。
参加者は、文化振興課の担当者、指定管理者の館長、防災担当職員、そして乾の四人。
石末は、
「行けばわかる」
と言っただけだった。
常用電源を遮断して、三十秒。
最初の異常が見つかった。
非常用照明が点灯しなかった。
正確には、点灯している場所と、していない場所があった。
大ホールの客席通路。
二階へ続く階段の踊り場。
地下機械室へ向かう廊下。
避難経路として重要な場所が、暗いままだった。
「非常灯のランプ切れですか」
文化振興課の担当者が言った。
乾は懐中電灯で、照明器具を一つずつ確認した。
ランプが切れているのではない。
器具から、ランプそのものが外されていた。
「これ、抜かれています」
乾が言うと、館長が慌てて近づいた。
「通常照明を節電のために間引いています。その時、非常用の器具まで外してしまったのかもしれません」
「通常照明と非常用照明を区別せずに?」
「作業した職員は、違いを知らなかった可能性があります」
乾は記録用の写真を撮った。
誰が、いつ外したのか。
その記録はなかった。
次に、排煙窓の作動を確認した。
だが、図面に記載されている場所へ行っても、開放用の操作ボタンが見当たらない。
乾は図面と壁を見比べた。
位置は合っている。
壁には、次回公演を告知する大判のポスターが貼られていた。
乾がポスターの端をめくる。
その裏から、排煙窓の操作ボタンが現れた。
「なぜ、ここに掲示物を貼ったんですか」
防災担当職員が尋ねた。
館長はポスターを見た。
「来館者の目に入りやすい場所だったからだと思います」
「操作ボタンがあることは?」
「貼った職員は、知らなかったのかもしれません」
乾はボタンを押した。
機械音が響き、排煙窓がゆっくりと開いた。
設備自体は正常に作動している。
問題は、非常時に操作できない状態になっていたことだった。
乾はポスターを外し、ほかの排煙操作ボタンの位置も図面で確認し直した。
防火戸にも問題があった。
一階の大ホールと廊下を隔てる主要な防火戸。
その足元に、後から設置された点字ブロックが貼られている。
点字ブロックの一部が、防火戸の閉鎖軌跡へ入り込んでいた。
乾が防火戸を作動させる。
扉は途中まで閉まったが、点字ブロックに当たり、最後まで閉鎖しなかった。
「この点字ブロックは、いつ設置したものですか」
「半年前です」
館長が答えた。
「あちらの点字案内板と一緒に整備しました」
「防火戸と干渉しています」
乾は床を指した。
「この状態では、火災時に防火区画が成立しません」
「そうなんですか」
館長は、初めて知ったという顔をした。
文化振興課の担当者と、防災担当職員が互いを見る。
「非常用照明と排煙ボタンは、指定管理者の日常管理の問題でしょうか」
文化振興課の担当者が言った。
「指定管理の仕様書には、非常灯のランプや掲示物の位置まで書かれていなかったと思います」
館長が答える。
防災担当職員が、防火戸の足元を見た。
「点字ブロックは整備工事の問題です。施工前に防火戸との干渉を確認していない」
「工事を担当したのは、どの課ですか」
誰も、すぐには答えられなかった。
指定管理者の問題か。
所管課の問題か。
工事を発注した部署の問題か。
確認したはずの営繕担当の問題か。
関係者が責任の所在を探し始める中、乾は黙って写真を撮り、記録を続けた。
最も大きな問題が判明したのは、非常用発電機の起動試験だった。
全員で地下の電気室へ降りた。
受電設備を所定の手順で停止する。
停電信号を受け、非常用発電機のスターターが回った。
低いエンジン音が、地下室に響く。
だが数秒後、回転音が不安定になった。
警報表示が点灯する。
保護装置が作動し、発電機は停止した。
非常用回路へ、電源は切り替わらなかった。
館内は暗いままだった。
「燃料切れですか」
防災担当職員が尋ねた。
「燃料は入っています」
乾は計器を確認した。
「先週の点検でも、満量に近いことを確認しています」
「始動用バッテリーの劣化は?」
「スターターは回っています。始動後に停止しています」
乾は制御盤の表示と、発電機の回路図を確認した。
警報の意味を調べようとしていると、電気室の入口から声がした。
「何が起きた」
石末だった。
いつ来たのかわからない。
乾が気づいた時には、入口に立っていた。
「発電機が始動した後、保護停止しました」
乾は状況を説明した。
「燃料とバッテリーに異常は見当たりません」
石末は制御盤の履歴を確認した。
起動時の電流値と、警報の記録を見る。
しばらく無言だった。
「重すぎる」
やがて石末が言った。
「何がですか」
「起動時の負荷だ」
石末は記録を指した。
「発電機が立ち上がった直後、接続されている負荷が一気に掛かっている。容量を超えて保護装置が働いた」
乾は非常用負荷の一覧表を開いた。
誘導灯。
防災設備。
一部の非常用コンセント。
排煙設備。
防火設備。
一覧に記載された消費電力を合計する。
「定格出力の範囲内です」
「平常時の消費電力を足しただけだろう」
石末は言った。
「モーターや電源装置は、起動する瞬間に大きな電流が流れる。全部が一斉に立ち上がれば、一覧上は容量内でも、瞬間的に超えることがある」
「起動電流……」
「それだけじゃない」
石末はログを指した。
「計算より大きすぎる。一覧に載っていない負荷が、非常用回路へつながっているはずだ」
「どうやって調べますか」
「一度、切り離せる負荷を全部外す」
石末は答えた。
「発電機だけを起動して、正常なら回路を一つずつ戻す。どこで異常が出るか確認する」
午前中で終わる予定だった訓練は、その場で変更された。
文化会館は、終日休館となった。
乾たちは図面と分電盤を照合し、非常用回路につながる機器を確認した。
回路図に記載された負荷を一度切り離す。
発電機を再起動する。
今度は正常に立ち上がった。
電圧も周波数も安定している。
「発電機本体の故障ではない」
乾が言った。
「ああ」
石末が答えた。
「問題は、つながっている側だ」
乾たちは回路を一系統ずつ戻した。
非常用照明。
防災設備。
排煙設備。
防火設備。
図面に載っている負荷を戻しても、発電機は停止しなかった。
それでも、すべての非常用コンセント回路を接続した瞬間、電流値が大きく上昇した。
乾は非常用コンセントを一つずつ探した。
図面と照合し、色付きのテープで表示する。
事務室。
舞台袖。
地下機械室前。
防災センター。
そこにつながっている機器を確認した。
事務室の冷蔵庫。
公共Wi-Fiのアクセスポイント。
防犯カメラの録画装置。
AED保管庫の温度管理装置。
事務室で使用している複合機。
携帯電話の充電器。
後から増設された機器が、非常用コンセントへ次々と接続されていた。
図面にも、非常用負荷一覧にも載っていない。
午後二時を過ぎていた。
乾は、確認できた機器の一覧を石末へ渡した。
「これだけ、非常用回路につながっていました」
石末は一覧を見た。
「誰がつないだ」
「わかりません」
「いつからだ」
「記録がありません」
「必要性は?」
乾は機器を見た。
防犯カメラやAEDの管理装置は、停電時にも動かす理由がある。
公共Wi-Fiにも、災害時の通信手段として残す考え方があるかもしれない。
だが、冷蔵庫や複合機まで非常用電源で動かす必要があるとは思えない。
「必要なものと、そうでないものが混ざっています」
乾は答えた。
「誰かが、その都度、空いているコンセントにつないだんだろう」
石末は回路図を乾へ渡した。
「問題は、機器が増えたことじゃない」
「では、何ですか」
「増やすたびに、誰も全体を確認しなかったことだ」
乾は回路図を受け取った。
十年前の訓練記録には、
「特記事項なし」
とだけ書かれていた。
その後の十年間で、
非常灯のランプが外された。
排煙操作ボタンがポスターで隠された。
防火戸の軌跡上に点字ブロックが設置された。
非常用回路へ、図面にない機器が接続された。
一つひとつは、小さな変更だった。
だが、それらが積み重なり、非常時に必要な設備が機能しない建物になっていた。
乾は回路図へ、確認した機器を書き込み始めた。
「前回は、本当に特記事項がなかったんでしょうか」
石末は答えなかった。
しばらくして、低い声で言った。
「その記録からわかるのは、書いた人間が何も残さなかったということだけだ」
乾は、引継書の一行を思い出した。
――平成二十八年度実施。特記事項なし。
設備が正常だったのか。
問題を見落としたのか。
見つけたが、対応して記録しなかったのか。
今となっては、何もわからない。
石末は、乾が書き込んだ回路図を見た。
「今日は全部残せ」
「問題箇所を?」
「問題だけじゃない」
石末は言った。
「何を試したか。どこまで正常だったか。何を外したら発電機が動いたか。何を戻した時に負荷が上がったか。次に確認すべきこともだ」
「次の担当者が、また最初から調べなくて済むように」
「そういうことだ」
乾は頷いた。
午後の電気室に、発電機の安定した運転音が響いていた。
折原悠斗が青葉市文化会館の地下電気室へ着いたのは、午後二時を過ぎた頃だった。
乾から連絡が来た時、折原は六階の行政管理課で別の資料を探していた。
「文化会館の停電訓練で問題が出ました。過去の工事や接続変更に関する決裁文書を調べてほしいんです」
折原は、開いていたファイルを閉じた。
必要な文書の年代と工事内容を確認し、市役所から車で文化会館へ向かった。
地下へ降りると、乾と石末がいた。
分電盤の前に回路図が広げられ、床には、非常用コンセントから外した機器が並んでいる。
「非常用回路に、負荷一覧へ載っていない機器が接続されていました」
乾が説明した。
「事務室の冷蔵庫、公共Wi-Fiのアクセスポイント、防犯カメラの録画装置、AED保管庫の温度管理装置、それと事務室のコンセント系統です」
「いつから接続されているかわかりますか」
「わかりません」
乾は回路図を指した。
「図面も、非常用負荷の一覧も更新されていません。その経緯を調べてほしいんです」
折原は回路図を受け取った。
「工事名や、おおよその時期は?」
「冷蔵庫が一番古いと思います。ほかは、ここ十年以内に増えた設備です」
「探してみます」
折原は市役所へ戻った。
工事決裁。
修繕記録。
指定管理者との協議記録。
各課の打合せメモ。
保存場所が異なる資料をたどり、関係しそうな記録を一つずつ拾った。
二時間後。
折原は複数のファイルと印刷した資料を抱え、再び地下電気室へ戻った。
「残ってました。断片的ですが」
乾と石末が、折原の周囲へ集まった。
折原は古い打合せ簿を開いた。
「一番古い記録は、十八年前です。冷蔵庫について書かれています」
「なぜ、冷蔵庫を非常用回路につないだんですか」
乾が尋ねた。
折原は該当箇所を読み上げた。
「『災害時に医薬品を保管する可能性があるため、停電時にも冷蔵機能を確保する』。当時の事務長から要望があり、営繕担当が了承しています」
「医薬品は、今も保管しているんですか」
「そこまでは、この記録ではわかりません」
乾は館長へ確認した。
現在、冷蔵庫に入っているのは、職員の飲み物と来客用の茶菓だけだった。
医薬品を保管した記録も、現在の防災計画にはなかった。
「必要性がなくなった後も、接続だけが残っていたということか」
石末が言った。
折原は次の資料を示した。
「公共Wi-Fiは八年前です。理由は、『災害時に避難者の情報収集手段を確保するため』」
「これは今も必要性がありそうです」
乾が言った。
「ただし、アクセスポイントだけ動いても、上流側の通信設備が停電すれば使えません。系統全体の確認が必要です」
折原は頷き、続けた。
「防犯カメラの録画装置は六年前。『停電時も防犯記録を継続するため』」
次の資料を置く。
「AED保管庫は四年前。『保管温度を適正に維持するため、停電時にも電源を確保する』」
乾は資料を一枚ずつ読んだ。
すべてに理由があった。
当時の担当者が必要性を考え、関係者と協議し、接続している。
誰かが無断で、意味もなく負荷を増やしたわけではなかった。
「事務室のコンセント系統は?」
「それだけは見つかりませんでした」
折原は答えた。
「工事決裁にも、修繕記録にも、指定管理者との協議記録にもありません」
石末が回路図を見た。
「この系統だけ、いつ増設されたか特定できない」
「記録そのものが作られなかったんでしょうか」
「断定はできん」
石末は言った。
「軽微な工事として既存設備の移設扱いにされたかもしれない。別の工事へ含まれていて、文書名から検索できない可能性もある。保存先が変わったことも考えられる」
「現時点では、経緯不明としか書けない」
乾が言った。
「そういうことだ」
折原は資料の余白へ、確認できなかった範囲を書き込んだ。
理由は残っていた。
だが、判断同士をつなぎ、設備全体の容量を管理した記録はなかった。
宮野彩乃が文化会館へ来たのは、午後三時を過ぎた頃だった。
文化振興課から訓練中の異常について連絡を受け、教育委員会側の確認責任者として来館した。
地下電気室へ降りると、乾、石末、折原が、床に広げた資料を囲んでいた。
「状況を説明してください」
乾が、訓練開始からの経緯を説明した。
非常用発電機が起動直後に過負荷で停止したこと。
非常用回路へ、負荷一覧にない複数の機器が接続されていたこと。
機器を切り離した状態では、発電機が正常に運転したこと。
接続されていた各機器には、それぞれ必要と判断された理由があったこと。
しかし、追加するたびに非常用回路全体の容量を再計算した記録は見つかっていないこと。
宮野は一通り聞いた後、尋ねた。
「明日以降の利用者には、どう説明しますか」
乾は一瞬、答えに詰まった。
「説明、ですか」
「文化会館は、市民が利用する施設です」
宮野は言った。
「訓練中に非常用発電機が停止した。明日から安全に利用できるのか。発電機が故障したのか。設計に問題があったのか。日常管理が不適切だったのか。それによって説明は変わります」
乾は、制御盤を見た。
目の前の不具合を解消することに集中し、利用者へ何を伝えるかまでは考えていなかった。
「発電機本体の故障ではありません」
乾は答えた。
「設計時の負荷構成であれば、容量内に収まっています」
「では、管理上の問題ですか」
「単純に、指定管理者が間違ったという話でもありません」
乾は折原が見つけた資料へ目を落とした。
「機器を接続した時点では、それぞれに必要性がありました。ただ、追加のたびに発電機全体の容量を確認し、負荷一覧を更新する仕組みがなかった」
「その説明を、市民にもできますか」
乾は再び黙った。
宮野は、乾を責めるつもりではなかった。
問題は既に起きている。
今必要なのは、行政が原因と安全性を説明できる状態にあるかを確認することだった。
石末が分電盤を見たまま口を開いた。
「故障したんじゃねえ」
全員が石末を見る。
「忘れたんだ」
「何をですか」
宮野が尋ねた。
「設備には、一つずつ理由がある」
石末は冷蔵庫を指した。
「冷蔵庫を非常用電源につないだのにも理由があった。Wi-Fiにも、防犯カメラにも、AEDにもあった」
次に、非常用負荷の一覧表を見た。
「だが、何かを足すたびに、全体を確認しなければならないということを忘れた」
「接続した理由は残っていても、全体への影響は管理されなかった」
折原が言った。
「ああ」
石末は制御盤へ目を戻した。
「必要だと思うものを、一つずつ足した。誰も悪いことをしようとしたわけじゃない」
低い運転音が、電気室に響いている。
「だが、足した結果、非常時に全部止まった」
石末は続けた。
「設備は正直だ。人間が忘れたことを、こういう形で教える」
折原は、その言葉をノートへ書き留めた。
その日の夕方。
乾は文化会館の事務室で、記録の整理を始めた。
折原が見つけた過去の工事記録と、今日確認した現況を照合する。
非常用回路へ接続されている機器を、一つの一覧へまとめた。
機器名。
設置場所。
接続した年月。
接続理由。
当時の要望部署。
承認または確認を行った部署。
定格消費電力。
起動時負荷。
非常用電源で維持する必要性。
現在の用途。
見直し時期。
事務室のコンセント系統については、接続時期と判断者がわからない。
乾は、
「現時点で経緯を確認できず」
と記載した。
消費電力は、実測値と接続機器の定格値を分けて記録する。
一部の機器は、別系統へ移す必要がある。
冷蔵庫については、非常時に医薬品を保管する運用が既にないため、通常回路への切替候補とした。
折原が、隣で資料を整理しながら言った。
「設備台帳に、この一覧を組み込めませんか」
「非常用負荷の管理表として?」
「はい」
折原は乾の作った表を見た。
「新しい機器を接続する時に、接続理由だけでなく、容量への影響も確認するようにします」
「具体的には、何を残しますか」
「機器名、消費電力、起動時負荷、接続理由、判断者、承認者、接続年月日、見直し時期」
折原は少し考え、付け加えた。
「それと、必要性がなくなった時に外す条件です」
「廃止条件?」
「冷蔵庫のように、接続した時の目的がなくなっても、誰も見直さなければ残り続けます」
「非常用電源が必要な業務が終了した時は、接続を再評価する」
「そうです」
乾は表へ項目を追加した。
「やりましょう」
「設備を追加する時の協議様式にもできます」
「あと、盤とコンセントにも表示を付けます」
乾は言った。
「非常用回路であることを、現場で見てわかるようにします。ただし、色だけでは意味が伝わらないので、回路番号と台帳番号も併記します」
「台帳と現物が対応するようにするんですね」
「はい。シールが剝がれたり、色の意味を知らない人が来たりしても、回路番号で追えるようにします」
作業を始めて一時間ほど経った頃、宮野が事務室へ顔を出した。
「記録の整理は進んでいますか」
「はい」
乾は一覧表を見せた。
「全機器について、接続理由と容量への影響を整理しています。非常用電源へ残すものと、通常回路へ戻すものも分けます」
「利用者への説明は?」
「訓練で、非常用発電機の容量管理に問題があることが判明したと説明します」
乾は続けた。
「発電機本体は正常です。現在は不要な負荷を切り離し、安全を確認しています。接続機器の再評価と台帳の更新を行うことも併せて公表します」
「なぜ問題が起きたかも説明できますか」
「はい」
乾は即答した。
「機器ごとの接続理由は残っていました。しかし、設備を追加するたびに全体容量を再確認し、一覧を更新する仕組みがなかった。そのため、負荷が積み上がったと説明します」
宮野は頷いた。
「責任の所在を曖昧にするためではなく、再発を防ぐために正直に説明してください」
「わかりました」
折原が、作成途中の報告書を見ながら尋ねた。
「乾さん。この文書の表題は、どうしますか」
「『文化会館全館停電訓練不具合報告書』にしようと思っています」
「不具合報告だけでいいでしょうか」
乾は手を止めた。
「ほかに何を入れますか」
「今回残すべきなのは、不具合の内容だけではありません」
折原は言った。
「何が起きたか。なぜ起きたか。何を確認したか。何がわからなかったか。どのように直すか。そこまで含む文書です」
「表題を変えるだけで、内容も変わる?」
「『不具合報告』だと、発電機が停止した事実と復旧結果だけで終わる可能性があります」
折原は、十年前の訓練記録を示した。
「『特記事項なし』と同じです。結果しか残らない」
乾は報告書の表題を書き直した。
「青葉市文化会館全館停電訓練結果及び非常用電源負荷管理上の課題」
入力した表題を読み返す。
「少し長いですね」
「検索した時に、何の文書かわかる方がいいと思います」
乾は頷いた。
表題を変えると、書くべき内容も見えてきた。
訓練の日時と手順。
確認できた正常機能。
発生した問題。
原因の調査過程。
接続機器ごとの経緯。
現在も不明な事項。
暫定措置。
恒久対策。
次回の確認時期。
乾は報告書全体を組み直した。
帰り際、石末へ草稿を見せた。
石末はページをめくり、最後まで読む。
「事務室のコンセント系統は書いたか」
「書いてあります」
乾は該当箇所を示した。
「接続時期、工事名、判断者は、現時点では確認できないとしています」
「それでいい」
石末は言った。
「わからないことを、無理に埋めるな」
「空欄のままでもいいんですか」
「空欄にするな。『不明』と書け」
石末は乾を見る。
「何も書かれていないのと、調べたがわからなかったのは違う」
乾は「不明」の横へ、確認した資料と照会先を追記した。
翌日。
文化会館の館長から、乾へ電話があった。
「昨日の報告書を読みました」
「ご不明な点がありましたか」
「非常用回路へ機器を接続した理由の一覧を見て、初めて知ったことがいくつもありました」
館長は言った。
「私が着任したのは五年前です。冷蔵庫を医薬品保管のためにつないだことも、Wi-Fiの接続理由も知りませんでした」
「私も、昨日まで知りませんでした」
「今後、設備へ変更を加える時は、この様式へ記録します。指定管理者の引継ぎにも入れます」
「お願いします」
電話が切れた後、乾は考えた。
館長が怠慢だったわけではない。
着任前の事情を知らないこと自体は、避けられない。
問題は、前任者個人が記録しなかったことだけではなかった。
工事を発注する部署。
施設を所管する部署。
指定管理者。
営繕担当。
それぞれが、自分の変更理由だけを持ち、設備全体の履歴を一つにまとめる仕組みがなかった。
自分も昨日まで、それに気づいていなかった。
一週間後。
乾は、更新した設備台帳を石末へ見せた。
非常用電源接続機器一覧。
接続理由と承認記録。
容量計算。
現場表示と台帳番号の対応表。
見直し予定日。
接続廃止の判断条件。
台帳の最後には、一ページの記録を追加していた。
石末が尋ねる。
「これは何だ」
「今回の訓練でわかったことです」
乾は答えた。
「何が起きたか。なぜ起きたか。どう調べたか。何を直したか。まだ何がわからないか。次回、何を確認するか」
「次の担当者への申し送りか」
「はい」
石末は黙って読んだ。
しばらくして、台帳を閉じる。
「現場の判断は、紙にしなければ死ぬ」
「今回、それを知りました」
石末は台帳の表紙を軽く叩いた。
「紙にしたか」
「しました」
「なら、次は更新し続けろ」
それだけ言うと、石末は台帳を乾へ返した。
乾は、それが石末なりの評価なのだと思った。
その夜。
乾は文化会館の駐車場に立ち、建物を見上げた。
築三十五年。
設計した技術者が今どこにいるのかはわからない。
最初に非常用発電機を設置した者も。
冷蔵庫を非常用回路へつなぐことを決めた者も。
Wi-Fiや防犯カメラを追加した者も。
一つ一つの判断には、理由があった。
災害時に医薬品を守る。
避難者の通信手段を確保する。
防犯記録を残す。
AEDを適切な温度で保管する。
どれも、当時は必要だと考えられた。
だが、その理由が積み重なる一方で、設備全体への影響を確認する者はいなくなった。
必要性がなくなった機器も、接続されたまま残った。
それだけのことだった。
そして、その積み重ねが、訓練中の非常用発電機を止めた。
もし訓練をしていなければ。
本当の停電が起きた時に、初めて発電機が止まっていたかもしれない。
暗い客席で避難する市民がいたかもしれない。
排煙設備も、防火戸も、必要な時に使えなかったかもしれない。
乾は、照明の点いた文化会館を見た。
安全は、設備を設置した時に完成するものではない。
変更するたびに、理由と影響を確かめる。
必要性がなくなれば外す。
設備全体の余力を見直す。
その履歴を、次の担当者へ渡す。
それを続けなければ、安全は引き継がれない。
乾は、鞄の中に入れた更新済みの設備台帳を確かめた。
今度は、残っている。
この話のFM豆知識
(豆知識は準備中)
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら
一般財団法人 建築保全センター