ep202

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第2巻 第2話

八年前の正解

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章状態
一
二
三
四
五
六
七
八
九
十
十一

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一

雨が降っていた。

折原悠斗と宮野彩乃が老人福祉センターの車寄せに着いたのは、午後二時を過ぎた頃だった。

用件は施設の文書保存状況の確認であり、判断記録とも駐車場とも関係がない。

傘を差して玄関へ向かおうとした宮野が、途中で足を止めた。

「あれ」

玄関のすぐ前に、第一駐車場が広がっている。

二十台分ほどの区画。

そのほとんどが空いていた。

区画の入口には、色あせた立て看板が置かれている。

送迎車専用

一般利用者の駐車はご遠慮ください

視線を右へ移すと、道路を挟んだ第二駐車場から、傘を差した人が何人か歩いてくるのが見えた。

一人は杖をついている。

雨脚は強くなっていた。

「もったいないね」

宮野が言った。

折原は返事をしなかった。

ちょうど、一台のワゴン車が第一駐車場へ入ってきたところだった。

車から降りたスタッフが、後部座席の扉を開ける。

高齢の利用者が二人、ゆっくりと降りてきた。

スタッフが傘を差しかけ、玄関まで付き添う。

利用者を送り届けると、ワゴン車はそのまま出ていった。

区画は、また空になった。

折原は腕時計を見た。

それから、手帳を開いて何かを書いた。

「何してるの」

「数えてます」

二

一時間半後、施設の書庫での確認作業を終えて出てきた折原は、もう一度第一駐車場を見た。

区画は、二人が来たときと同じように空いていた。

折原は施設の職員に尋ねた。

「送迎車は、一日に何台くらい来ますか」

職員は少し考えてから答えた。

「日によりますけど、だいたい二便ですね。午前と午後で一台ずつ」

「二便で、二十台分ですか」

「そうなりますね」

職員は当然のことのように続けた。

「ここは送迎専用なので」

「一般の方が停められて困ったことは」

「よくあります。看板を見ていない方もいるので、そのたびに声をかけて、第二駐車場へ回っていただいてます」

職員の口調に、不満の色はなかった。

長く続けてきた作業を、そのまま説明しているだけだった。

車に戻ってから、宮野が言った。

「二十台分を、一日二便のために空けてるってこと」

「そうなりますね」

「何とかならないのかな」

折原は、フロントガラスを流れる雨を見ていた。

八か月前なら、折原はこの光景を見て「無駄な運用だ」と思ったかもしれない。

だが、北小学校の評価係数について、その根拠を追いかけた記憶がまだ新しかった。

計算式も、数字も残っていた。

それでも、なぜその数字を選んだのかは、どこにも書かれていなかった。

あのとき自分は、当時の担当者を責めるのではなく、なぜそうなったのかを調べる側に回った。

「これにも、理由があったんでしょうね」

折原は言った。

宮野が、こちらを見た。

「調べる?」

「調べます」

三

翌日、二人は行政管理課の打ち合わせスペースに資料を広げた。

老人福祉センターの複合化は、八年前に行われている。

八年前、老人福祉センターの複合化に伴い、市内に分散していた高齢者向けサービスのうち、デイサービスの機能がここへ移された。

その際の検討資料が、簿冊としてきちんと残っていた。

折原はページをめくった。

駐車場運用について、専用の検討メモがある。

「ありました」

宮野が覗き込む。

メモには、当時の状況が具体的に記録されていた。

送迎車の出入りは一日十二便から十五便。

うち大型のリフト付き車両が半数を占める。

車椅子利用者の乗降には、扉を全開にする幅と、スロープを展開する後方スペースが必要になる。

乗降には一人あたり数分を要し、その間、車両は動かせない。

一般車が同じ区画へ出入りすると、動線が交錯する。

雨天時、玄関までの距離が長くなれば、乗降時の転倒リスクが高まる。

メモの余白に、別の筆跡で数行が書き足されていた。

日付は、検討期間中のものだった。

折原は、そこだけ読む速度を落とした。

雨の日の午後。

第二駐車場から歩いてきた利用者が、玄関前の縁石で足を滑らせた。

付き添っていたスタッフが腕を取ったため、転倒には至らなかった。

傘を持つ手。杖を持つ手。体を支えるための、付き添いの手。

三つの手が要った、と書かれている。

その下に、現地で測ったらしい数字が並んでいた。

第二駐車場から玄関まで、四十六メートル。

途中の段差、二か所。

雨天時、傘を差した状態での所要時間、およそ一分半。

さらにその下に、一行だけあった。

「歩く距離を短くするしかない」

折原は、その一行をしばらく見ていた。

便数でも、面積でもなかった。

誰かが実際に見た光景が、そのまま書き残されていた。

宮野が横から覗き込んだ。

「これ、何の資料だったっけ」

「駐車場の検討メモです」

「転びかけたことまで書いてあるんだ」

「書いた人が、その場にいたんだと思います」

そのため、玄関に最も近い第一駐車場を送迎車専用とする。

「ちゃんと理由、残ってました」

折原が言った。

宮野は、メモの最後の一行を指でなぞった。

「しかも、かなり真っ当」

車椅子の乗降スペース。

動線の交錯防止。

雨天時の移動距離。

どれも、今読んでも反論の余地がなかった。

一日に十二便から十五便が出入りし、その半分がリフト付きの大型車で、乗降に数分かかるのなら、玄関前の二十区画を送迎車のために確保する判断は十分に理解できた。

折原は、資料の作成者欄を見た。

管財課。

担当者の欄に、見覚えのある名前があった。

四

問題は、なぜそれが今の光景になっているのかだった。

折原は、福祉政策課から現在の送迎実績を取り寄せた。

数字を並べる。

八年前は、一日十二便から十五便。

現在、一日二便。

折原は手帳を開き、書きかけた。

「送迎需要の……」

そこで、手が止まった。

書こうとしていたのは、「減少」だった。

便数が減っている。

だから、送迎の需要も減った。

そう書けば、筋は通っているように見える。

隣の席から、宮野が言った。

「それ、書いちゃっていいの」

「といいますと」

「減ったって書いてあるのは、便数だけだよね」

宮野は、数字の欄を指した。

「減ったのは便数であって、利用者数じゃない」

折原はペンを置いた。

北小学校の評価係数を思い出していた。

数字は残っていた。

計算式も残っていた。

残っていなかったのは、なぜその数字にしたのかだけだった。

自分は今、同じことをしようとしていた。

便数という数字だけを見て、その意味を確かめないまま結論を書こうとしていた。

折原は手帳を閉じた。

「もう一本、電話します」

福祉政策課の担当者は、少し意外そうな声を出した。

「送迎実績だけでは足りませんか」

「利用者数の推移もお願いします」

「何年分ですか」

「八年前からで」

資料が届いたのは、その日の夕方だった。

翌朝、折原は打ち合わせスペースに、送迎便数と利用者数、二種類の資料を並べた。

宮野が、並んだ二つの資料を見比べた。

「で、どっちだったの」

折原は、利用者数の推移を指した。

老人福祉センターのデイサービス利用者数の推移。

八年前と比べて、利用者は増えていた。

「増えてます」

「増えてるのに、送迎は減ってるの」

「送迎の数え方が、変わってるんだと思います」

折原は、福祉政策課で聞いた話を説明した。

八年前は、市内の事業者が数えるほどしかなく、各事業者が大型のリフト付き車両で複数の利用者をまとめて運ぶのが主流だった。一台が十人以上を乗せて回る。だから、この施設へも大型車が何度も出入りした。

今は事業者の数が増え、それぞれが小型のワゴンを使って、二人か三人ずつ利用者の自宅から直接送り届ける。

さらに、施設どうしで共同運行するルートも組まれるようになった。

「送迎を必要とする人は、増えてます」

折原は言った。

「ただ、大型車がここへ集まる形ではなくなった」

宮野が、資料を見つめた。

「需要は減ってない。運び方が変わっただけ、ってことなんですね」

「そうなります」

大型車が一日に十二便から十五便出入りしていた頃と、何台もの小型車がそれぞれ別の施設へ向かう今とでは、この駐車場に必要な区画の数がまったく違う。

だが、変わったのはサービスの提供形態であって、利用者ではない。

この施設の駐車場だけを見ていれば、送迎が減ったように見える。

実際には、送迎の形が変わっただけだった。

「誰も間違ってないのに」

宮野が言った。

「うちの駐車場だけ、八年前のままなんだ」

五

折原は、当時の検討資料をもう一度最初から読み直した。

決裁文書の前に綴じられていた検討過程の資料の中に、比較表があった。

二つの案が並んでいる。

A案 第一駐車場全体を送迎車専用区画とする

B案 送迎車の到着時間帯のみ、一般車の駐車を規制する

採用されたのはA案だった。

B案には、却下の理由が書かれている。

送迎車の到着時刻が事業者ごとに異なり、実際の到着が前後する。時間帯を固定した規制では対応できない。

規制を実施する場合、施設職員が送迎車の到着のたびに現地で対応する必要があり、常時二名以上の体制が求められる。現行の職員配置では対応できない。

「これも、理由が書いてある」

折原が言った。

宮野は、B案の欄をしばらく見ていた。

それから、顔を上げた。

「これ、今なら使えない?」

折原は、すぐには答えなかった。

六

翌週、折原は老人福祉センターへ戻った。

確認したいことが三つあった。

送迎車の到着時刻が、今も不規則なのか。

規制を行う場合、職員にどれだけの負担がかかるのか。

そして、送迎事業者が何を望んでいるのか。

施設長は、時刻について即答した。

「午前は九時半、午後は三時です。八年前とは違いますね」

「変わったのは、いつ頃ですか」

「事業者さんが個別送迎に切り替えたあたりからです。以前は何台も来て、着く時間もばらばらでしたけど、今は二台だけなので、時間を決めて回ってもらってます」

折原は手帳に書いた。

送迎事業者にも電話で確認した。

事業者の担当者は、少し意外そうな声を出した。

「あの区画、正直、広すぎて困ってるんですよ」

「困る、というのは」

「うちは一台しか来ませんから、あんな広い場所を独占してるみたいで、利用者さんの家族から言われることもあるんです。他の人が停められないのに、って」

折原は受話器を持ち直した。

「必要な区画は、何台分ですか」

「うちの車は一台です。乗降のスペースを考えても、三台分あれば十分ですね」

七

確認結果をそろえてから、折原は宮野と一緒に管財課へ向かった。

当時の検討資料の作成者に、確認しておきたいことがあった。

管財課長の長谷巡は、机の上の書類から顔を上げた。

「あ、それって、老人福祉センターの」

宮野が資料を差し出す。

長谷は比較表を受け取り、A案の欄に目を落とした。

しばらく黙って読んでいた。

それから、少しだけ笑った。

「これ、書いたの俺ですね」

「覚えてますか」

「覚えてます。リフト付きの車が何台も来てて、雨の日に車椅子の方が乗り降りするのを見て、これは近い場所を空けておかないと危ないなと思ったんです」

長谷は、A案の欄を指でたたいた。

「当時なら、俺もこっちを選びます」

長谷は、比較表から目を離さなかった。

「あのメモの余白に、書き足しがありませんでしたか」

折原は資料をめくり、該当のページを開いて見せた。

長谷は、そこを指でたどった。

「余白のほうも、俺です」

雨の強い日だった、と長谷は言った。

現地確認に来ていて、たまたま玄関前にいた。

第二駐車場から歩いてきた利用者が、縁石で足を滑らせた。

付き添っていたスタッフが、とっさに腕を取った。

転ばなかった。

それだけのことだった。

だが長谷は、その日のうちに巻尺を借り、距離を測った。

「四十六メートルありました」

長谷は言った。

「途中に段差が二か所。傘を差して歩くと、一分半です」

折原は、余白の数字と照らし合わせた。

同じ数字だった。

「あれは、たまたま転ばなかっただけです」

長谷は続けた。

「次もたまたまで済む保証は、どこにもありませんでした」

宮野が、B案の欄を示した。

「今なら?」

長谷は、折原が持ってきた現在の送迎実績に目を通した。

一日二便。

到着時刻は九時半と三時。

事業者は一社。

必要な区画は三台分。

読み終えてから、長谷は資料を返した。

「……今なら、Bかな」

それから、付け加えた。

「でも、今の条件を調べたのは君たちでしょう」

八

折原と宮野が作ったのは、B案そのものではなかった。

八年前のB案は、送迎の時間帯だけ第一駐車場全体の一般車利用を規制するというものだった。

現在の実態に合わせるなら、規制する必要があるのは全体ではない。

必要なのは、玄関に最も近い三台分だけだった。

二人がまとめた案は、次のような内容になった。

第一駐車場のうち、玄関側の三区画を送迎用として確保する。

残りの十七区画は、一般利用者に開放する。

送迎の開始予定時刻の三十分前になったら、施設職員が三区画にコーンを置く。

送迎が終われば、コーンを片付ける。

送迎の予定時刻が変わる場合は、事業者から施設へ事前に連絡し、施設が対応する。

半年間は試行運用とし、その間の状況を記録する。

「三区画だけなら、職員一人で置けます」

折原は言った。

「八年前は、十五便がばらばらの時間に来ていたので、この方法は取れませんでした」

宮野が、施設長への説明資料を作った。

説明資料には、現在の運用に至った経緯と、八年前にA案を採用した判断理由を一枚にまとめて添付した。

「これ、要りますか」

折原が聞くと、宮野は資料を揃えながら答えた。

「要ります」

「というのは」

「今の職員さんは、なぜ第一駐車場が送迎専用なのか知らないまま、毎日コーンを出してるでしょう」

宮野は、その一枚を上に重ねた。

「理由を知らないまま運用が変わったら、また理由の分からない運用だけが残ってしまうから」

試行運用の実施伺いは、総務課の合議を経ることになった。

折原が書類を持っていくと、総務課長の藤岡務は、添付された一枚に目を留めた。

「これは」

「八年前に、この運用を決めたときの理由です」

藤岡は、その一枚をしばらく読んでいた。

「必要なのか、これは」

「今回、これがあったので変更できました」

「そうか」

藤岡は書類を閉じ、判を押した。

それから、独り言のように言った。

「残すのは、いいがな」

折原は、その先を待った。

だが藤岡は、次の書類に手を伸ばしていた。

九

施設長から折原へ電話が入ったのは、試行運用が始まって五週目のことだった。

「昨日、少し混乱がありまして」

声に責める調子はなかった。

ただ、困っていることが伝わってきた。

折原は宮野と一緒に、その日の午後、老人福祉センターへ向かった。

施設長の話は、こうだった。

前日の午後、送迎事業者の車が、予定より四十分早く到着した。

利用者の一人が体調を崩し、早めに送り届けることになったためだった。

送迎車用の三区画には、まだコーンが置かれていなかった。

コーンを置く時刻は、到着予定の三十分前と決めていたからだ。

空いていた三区画には、一般利用者の車が停まっていた。

送迎車は玄関前で停止した。

後続の一般車が、その後ろに詰まった。

施設職員が外へ出て、停まっている車の持ち主を館内で探した。

見つかるまで、七、八分かかった。

そのあいだ、送迎車は玄関前に停まり続けた。

体調を崩した利用者も、車内で待つことになった。

「けがはありませんでした」

施設長は言った。

「ただ、あのまま雨だったらと思うと」

折原は、手帳に時刻を書いた。

宮野が尋ねた。

「事業者さんから、早く着くという連絡はなかったんですか」

「あったんです」

施設長が答えた。

「ただ、代表電話にかかってきたのを受けたのが、事務の職員でして」

「駐車場担当には伝わらなかった」

「その者は、駐車場の運用を知らなかったんです」

施設長は、少し言いにくそうにした。

「悪いのはこちらです。決めたことを、全員に伝えていなかった」

折原は、自分たちが作った資料を思い出していた。

送迎の予定時刻が変わる場合は、事業者から施設へ事前に連絡し、施設が対応する。

そう書いた。

書いたのは、それだけだった。

誰が連絡を受けるのか。

受けた職員が、次に誰へ伝えるのか。

どこにも書いていなかった。

「うちの書き方の問題です」

折原は言った。

施設長が顔を上げた。

「連絡すること、とだけ書きました。誰が受け、誰へ伝えるかを決めていませんでした」

その日のうちに、三人で手順を書き直した。

変更の連絡は、事業者から施設の代表電話へ入れる。

電話を受けた職員は、到着予定時刻、事業者名、受電時刻を用紙に書き取る。

その用紙を、事務室入口の連絡板へ挟む。

駐車場担当は、朝の時点で一人決め、名前を連絡板に書いておく。

担当者は連絡板を確認し、必要ならコーンを出す。

連絡用紙は月ごとにまとめて保管する。

「板ですか」

宮野が言った。

「システムだと、見ない人がいます」

施設長が答えた。

「入口に掛けておけば、出入りのたびに目に入りますから」

宮野は板の位置を確かめ、手帳に簡単な図を描いた。

二週間後、折原の携帯に施設長から着信があった。

折原は、身構えて出た。

「今日、また時間が変わりまして」

施設長は言った。

「事業者さんから二時前に連絡が入りました。電話を受けたのは、前に伝わらなかったのと同じ事務職員だったんですが」

折原は待った。

「今度は用紙に書いて、板に挟んでくれました」

施設長の声が、少し軽くなった。

「駐車場担当の職員がそれを見て、コーンを出しました。送迎車が到着したときには、三区画とも空いていました」

「何分前に置けましたか」

「十五分前です」

折原は手帳に書いた。

電話を切ってから、宮野に伝えた。

宮野は、しばらく黙っていた。

「うまくいったのは、板があったからだよね」

「そうですね」

「板を思いついたのは、施設長さんだった」

宮野は、自分の描いた図を見ていた。

「わたしたちが決めた通りに運用してもらったんじゃない。決め方が足りないところを、向こうが埋めてくれたんだ」

折原は答えなかった。

答えの代わりに、手帳へ一行書いた。

試行運用の記録に、この二週間のことを残す。

十

試行運用が始まって、二か月が過ぎた。

折原と宮野が老人福祉センターを訪れたのは、晴れた日の午後だった。

第一駐車場には、一般車が並んでいる。

玄関に最も近い三区画にだけ、オレンジ色のコーンが置かれていた。

三時を少し過ぎた頃、送迎のワゴン車が入ってきた。

コーンの前でスタッフが降りて、二つを脇へ寄せる。

車が停まり、利用者が降りてくる。

乗降が終わると、スタッフはコーンを元に戻した。

一連の動きに、迷いがなかった。

施設職員が玄関から出てきて、二人に気づいた。

「あ、行政管理課の」

「様子はどうですか」

「おかげさまで。駐車をめぐる苦情がなくなりました」

職員は駐車場を見渡した。

「以前は、停めている方に声をかけて回るのが仕事みたいになってたんですよ。今は三つ置くだけなので」

それから、少し笑った。

「コーン、ずいぶん減りましたね」

十一

帰りの車の中で、折原は膝の上に八年前の資料を載せていた。

宮野が信号で停まったとき、横目でそれを見た。

「まだ何か気になる?」

折原は、比較表のページを開いていた。

A案とB案。

採用された案と、却下された案。

どちらにも、理由が書いてある。

宮野が、前を向いたまま言った。

「藤岡課長、あのとき何か言いかけてたよね」

「残すのは、いいがな」

折原が繰り返した。

「その先は、聞けなかったんですよね」

「藤岡課長は、すぐ次の書類に手を伸ばしましたから」

宮野が、少し笑った。

「何だったんだろう」

「さあ」

折原は、膝の上の資料を見た。

「言いかけて、やめたんだと思います」

「やめる理由があったってこと?」

「わかりません」

折原は言った。

「ただ、反対はされませんでした」

「判は押してくれたんだもんね」

「はい」

宮野は、ワイパーの動きを見ていた。

「言いかけてやめるのって、いちばん気になるよね」

「気になります」

「聞いておけばよかった」

「今度、聞いてみます」

折原は言った。

言いながら、たぶん聞かないだろうと思っていた。

宮野は、それ以上聞かなかった。

「A案を選んだ理由は、残ってたんですよね」

「うん」

「だから八年後の僕たちでも、変えることができた」

宮野は、信号を見ていた。

「もし何も残ってなかったら」

「たぶん、変えられませんでした」

折原は資料を閉じた。

「昔からそうなってます、で終わってたと思います」

信号が青になる。

車が動き出してから、宮野が言った。

「理由を残すって、守るためだけじゃないのか」

折原は、少し考えた。

それから答えた。

「変えるためにも、要るんですね」

窓の外を、市役所の建物が近づいてくる。

折原は、膝の上の資料に手を置いた。

八年前に誰かが書いた、一枚の比較表。

採用しなかった案まで、理由をつけて残してあった。

書いた人は、八年後に誰かがそれを読むとは思っていなかっただろう。

それでも、残っていた。

この話のFM豆知識

FMの教訓:以前の案を採用・不採用にした理由を読み、今の利用状況なら変更できるかを確かめる。

◆ 昔の決め方を、当時の状況から確かめる

今は空いている場所でも、以前は安全のために確保していた可能性があります。当時の利用者、車の動き、担当職員の数などを調べます。そのうえで、現在も同じ使い方が必要かを確かめます。「昔からそうしている」という説明だけで続けたり、今は空いているという理由だけで変えたりしないことが大切です。

◆ 送迎車が減った理由を調べる

記録にある送迎車の便数が減っても、送迎を必要とする人が減ったとは限りません。大型車にまとめて乗る方法から、小型車で個別に送る方法へ変わった可能性もあります。記録の対象、車種、時間帯、利用人数を確認し、便数だけで必要な場所を判断しないようにします。

◆ 採用しなかった案も、もう一度比べる

以前は使えなかった案でも、人員や利用時間が変われば使える場合があります。採用案だけでなく、比べた案と、選ばなかった理由も残しておきます。後任はその理由を読み、以前の問題が今も残っているかを確かめられます。

◆ 物語の場面

折原と宮野は、送迎専用の駐車区画がほとんど使われていないことに気づきます。八年前は、車椅子で乗り降りする場所の確保や、車と人の動きが交わるのを避けるために必要でした。その後、送迎の方法が変わり、必要な区画数も変わっていました。以前は不採用だった時間帯を限って専用にする案が記録に残っていたため、今なら使えるかを検討できました。

■ 担当者が行うこと

現在の車の種類、便数、利用人数、時間帯、安全上の問題を調べ、以前の記録と比べます。使い方を試しに変えるなら、対象区画、期間、確認項目、中止する条件を決めてください。利用者に変更を案内し、混乱や危険がなかったかを記録して、続けるかどうかを判断します。

参照する主な法令・制度

法令・制度名この話との関係
各自治体の個別施設計画・公共施設等総合管理計画施設の使い方を変える際に、自治体の方針や今後の予定を確認する計画。
各自治体の駐車場条例・施設管理規程等駐車区画の使い方を決めたり変更したりするときに、必要な手続きを確認するルール。
つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら