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第2巻 第4話

査察の日だけ

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みどり地区集会所は、住宅街の中に建っている。

築四十年。

自治会、老人会、子ども会、地域サークル、防災訓練。

さまざまな活動に使われる、地域の拠点だった。

建物は市が所有し、指定管理者が日常の管理運営を行っている。

野村健太が地域協働課へ異動して三年。

みどり地区集会所の担当になってからは、一年が経っていた。

施設の鍵の管理。

利用団体との日程調整。

指定管理者との連絡。

修繕依頼。

住民からの苦情対応。

細かな仕事が途切れることなく続く。

野村には、建築や設備の専門知識はない。

主な仕事は、施設を利用する住民と、管理する側との調整だった。

その日の午後。

野村の机に、みどり地区集会所から電話が入った。

「館長です。今日、火災報知器が作動しまして」

「火事ですか」

「いえ、誤報でした。ただ、避難の途中で転倒がありました」

「怪我人は?」

「三人です。いずれも軽傷ですが、一人が手首を打っています」

野村は必要な連絡を済ませ、すぐに庁舎を出た。

集会所へ着くと、玄関前に数人の利用者が立っていた。

高齢者が多い。

一人は、右手に包帯を巻いていた。

館長が建物から出てきた。

「午後二時頃、一階の感知器が作動しました。確認したところ火災ではありませんでしたが、利用者が一斉に避難を始めました」

「どこで転倒したんですか」

「一階の廊下です。人が詰まって、後ろから来た人とぶつかりました」

「なぜ、廊下で詰まったんですか」

館長は答えにくそうに廊下を見た。

「通路が……少し狭くなっていまして」

野村は館内へ入った。

廊下の両側に、さまざまな物が置かれている。

金属製のロッカーが三台。

段ボール箱を積んだ台車。

掲示用パネルのスタンド。

壁に立てかけられた長テーブル。

本来の通路幅の半分近くが、備品で塞がれていた。

高齢者同士がすれ違うだけでも狭い。

避難者が一斉に通れば、滞留が起きるのは当然だった。

「これは、すべて何ですか」

野村が尋ねた。

「利用団体の備品です」

館長が答えた。

「倉庫に入りきらないので、一時的に廊下へ置いています」

「一時的というのは、いつからですか」

館長は少し考えた。

「私が着任した時には、既にありました」

「着任は?」

「三年前です」

「三年間、ここに置いたままですか」

「配置は多少変わっていますが、おおむねこの状態です」

野村は、廊下の写真を撮った。

備品の種類。

配置。

残っている通路幅。

転倒が起きた場所。

一つずつ記録した。

翌日。

野村は消防署へ電話をかけた。

「みどり地区集会所について確認したいことがあります。直近の査察は、いつ実施されていますか」

消防署の担当者が記録を調べた。

「昨年十一月です」

「避難通路について、何か指摘はありませんでしたか」

「昨年度の査察票では、特に指摘事項はありません」

「廊下に備品が置かれていた記録は?」

「査察時の状況としては、避難に必要な通路幅が確保されていたと記載されています」

野村は、昨日見た廊下を思い出した。

「査察の日時は、事前に施設へ知らせていますか」

「通常の査察ですので、事前通知を行っています」

担当者は即答した。

「施設側へは、いつ頃知らせるんですか」

「日程調整がありますので、数日前には連絡します」

野村は礼を言い、電話を切った。

事前通知が届く。

査察前に廊下を片づける。

査察が終われば、荷物を元へ戻す。

そういう運用になっているのではないか。

野村はそう考えた。

だが、現時点では推測にすぎなかった。

野村は、指定管理者の事務室を訪ねた。

館長は一人で、前日の事故記録を整理していた。

野村は向かいの席へ座った。

「消防査察について確認したいことがあります」

「はい」

「査察の前に、廊下の荷物を移動していますか」

館長は、しばらく答えなかった。

「……移動しています」

「査察が終わった後、元の場所へ戻していますか」

「はい」

「毎回ですか」

「私が着任してからは、そうしています」

「なぜ、そうするんですか」

館長は困ったように首を振った。

「前任者から、そのように引き継ぎました」

「消防から、査察時だけ移動するよう指示されたんですか」

「それは聞いていません」

「普段から通路を空けるように、とは?」

「特に説明はありませんでした」

「引継書に書かれていますか」

「はい」

野村は手帳を開いた。

「見せてもらえますか」

引継書は、事務室の棚に保管されていた。

施設の開閉手順。

利用団体の一覧。

鍵の保管場所。

修繕依頼の方法。

緊急時の連絡先。

館長業務が、丁寧に整理されている。

作成日は五年前だった。

野村はページをめくり、該当箇所を見つけた。

「消防査察対応」

その下に、短い手順が書かれている。

「査察通知受領後、廊下および設備室周辺の荷物を倉庫へ移動する。査察終了後、元の位置へ戻す」

それだけだった。

なぜ、荷物を移動するのか。

なぜ、査察後に戻してよいのか。

その理由は、どこにも書かれていない。

「この手順について、前任者から説明を受けましたか」

野村が尋ねた。

「いいえ」

「書かれているとおりに実施していた?」

「はい」

館長は答えた。

「査察へ対応するための手順だと思っていました」

「避難通路を確保するためではなく?」

館長は、しばらく黙った。

「そこまで考えたことはありませんでした」

「前任者に確認できますか」

「既に退職しています。連絡先もわかりません」

野村は、引継書のページを写真に撮った。

手順は、正確に引き継がれていた。

だが、その目的は引き継がれていなかった。

施設を出たあと、野村は折原悠斗へ電話した。

「みどり地区集会所の件で、過去の消防査察や改善記録を調べてほしいんですが」

「どういう内容ですか」

野村は説明した。

火災報知器の誤作動。

避難時の転倒。

廊下に置かれた大量の備品。

消防査察の前だけ荷物を移動する慣行。

理由が書かれていない引継書。

折原は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。

「過去の消防査察票と、施設管理関係の記録を確認します」

「残っていますか」

「消防関係の記録は、比較的長く保存されている可能性があります。ただ、どこまで残っているかは調べてみないとわかりません」

「お願いします」

「野村さん」

折原が言った。

「引継書に書かれた手順は、何年前から続いているかわかりますか」

「今の館長が三年前に着任した時には、既にあった。それだけです」

「引継書自体は五年前の作成でしたよね」

「はい」

「では、もっと前から続いていた可能性があります」

「そう思います」

折原は、間を置いた。

「残っていたのは、作業だけかもしれませんね」

「作業だけ?」

「『査察前に荷物を動かす』という行動だけが引き継がれた」

折原は続けた。

「なぜ動かす必要があったのかは、最初から書かれなかったか、途中で失われた」

野村は電話を切った後も、その言葉を考えていた。

残っていたのは、作業だけ。

翌日。

折原が地域協働課へ来た。

数枚の資料を手にしている。

「消防査察票の写しが、施設管理記録に綴じられていました」

「何年分ありましたか」

「十二年分です」

「そんなに残っていたんですか」

「消防関係の書類は、ほかの記録より残りやすいようです。施設側が自主的に保管していたものも含まれています」

折原は、査察票を年代順に机へ並べた。

「十二年分を確認したところ、廊下の避難通路については、一件を除き、毎年『必要な幅が確保されている』と記録されています」

「査察の時には、荷物を移動していたから」

「その可能性は高いと思います」

折原は断定しなかった。

「ただ、査察票だけでは、普段の状態まではわかりません」

「違う一件というのは?」

折原は、一番古い査察票を指した。

「十二年前です」

指摘事項の欄に、赤い文字が書かれている。

「廊下に備品が置かれており、避難通路の一部が狭くなっている。速やかに移動すること」

野村は、何度もその文章を読んだ。

「十二年前に、消防から指摘を受けている」

「はい」

「翌年からは、指摘がない」

「査察時には、通路が確保されるようになったということです」

「引継書の手順は、この指摘を受けて作られた?」

「可能性はあります」

折原は答えた。

「ただし、査察前だけ移動する運用がいつ始まったのかを直接示す記録は見つかっていません」

野村は、資料を年代順に見た。

十二年前。

消防から、避難通路を確保するよう指摘を受けた。

翌年からは、査察時の通路幅が確保されている。

五年前に作成された引継書には、

「査察前に移動し、終了後に戻す」

と書かれている。

どこかの時点で、

「廊下へ物を置かない」

という改善が、

「査察の時だけ物を移動する」

という手順へ変わった。

その変化の経緯は、記録されていない。

折原が帰った後も、野村は査察票を見ていた。

悪意があったわけではない。

誰も、避難者を危険にしようとしたわけではない。

収納場所が足りなかった。

利用団体から備品を置かせてほしいと頼まれた。

消防から指摘された。

査察時には、通路を空けた。

その作業を、後任者へ引き継いだ。

一つひとつは、目の前の問題へ対応した結果だった。

だが、なぜ通路を空けなければならないのかが伝わらなかった。

そのため、

「常に避難通路を確保する」

という安全上の目的が消え、

「消防査察の前に片づける」

という作業だけが残った。

目的を知っていれば、査察後に荷物を戻す運用にはならなかったはずだ。

野村は、営繕課の石末へ電話した。

「石末さん。みどり地区集会所で見てもらいたい場所があります」

「何があった」

「廊下に置かれた備品が避難の支障になって、転倒事故が起きました」

「怪我人は」

「三人です。軽傷ですが」

「いつ行けばいい」

「明日にでもお願いできますか」

「行く」

返事は短かった。

電話を切った野村は、引継書のコピーをもう一度見た。

「査察終了後、元の位置へ戻す」

手順は、十二年間、正確に守られてきたのかもしれない。

それでも、安全は守られなかった。

引き継ぐべきだったのは、作業ではない。

なぜ、その作業が必要なのかという目的だった。

忘れないために

―なぜそう判断したのかを残す物語―

翌朝。

石末は、みどり地区集会所の廊下に立ち、竣工図を広げていた。

野村が持参した図面と、現在の廊下を交互に見ている。

何も言わない。

ロッカーの位置を確認し、壁から反対側の壁までを見渡す。図面へ目を落とし、また顔を上げる。

野村は隣で待った。

石末が口を開いたのは、五分ほど経ってからだった。

「この幅は、余った幅じゃねえ」

「はい?」

「廊下の幅だ」

石末は図面上の寸法を指した。

「設計で余った空間じゃない。人が通るために、逃げるために空けてある」

野村は廊下を見た。

ロッカー。

段ボール箱。

掲示パネル。

長テーブル。

それらがなければ、大人二人が並んで歩けるだけの幅がある。

「避難のために必要な幅、ということですか」

「そうだ」

石末は答えた。

「廊下の幅には、建物の用途や規模に応じた基準がある。それを満たせば、何を置いてもいいという話じゃない」

石末は廊下の先を見た。

「この施設は高齢者も子どもも使う。設計者は、人がすれ違い、非常時には一斉に逃げられるように、必要な幅を取ったはずだ」

石末は、設備室の扉を指した。

扉の前には、段ボールを積んだ台車が置かれている。

石末が台車を動かすと、扉の前に広い空間が現れた。

「ここも同じだ」

「設備室ですか」

「設備室は、余った部屋じゃねえ」

石末は扉を開けた。

内部には、電気盤と空調設備が並んでいる。

「点検する。修理する。故障した機器を交換する。そのために、人が入り、工具や部品を運べる空間を取ってある」

「扉の前を塞げば、故障した時に作業できない」

「そういうことだ」

野村は、石末の言葉を手帳へ書き留めた。

「建物には、意味のない空間はないということですか」

「ほとんどない」

石末は答えた。

「少なくとも、廊下や設備室の前は、空いているから自由に使える場所じゃない」

「でも、その理由は図面を見てもわかりません」

「図面は、形と寸法を示すものだ。設計者が何を考えたかまで、全部書いてあるわけじゃねえ」

石末は、廊下を歩き始めた。

防火戸の前に積まれた段ボール。

設備室へ向かう通路に置かれた掲示スタンド。

倉庫の扉の前に立てかけられた長テーブル。

一つずつ確認し、写真を撮る。

「だから、空いている場所だと思って使う」

石末は言った。

「法律で通路幅を確保しろと決めても、なぜ空けるのかを知らなければ、査察の時だけ守るようになる」

野村は、昨日見つけた引継書を思い出した。

査察前に移動する。

査察後に戻す。

「廊下にある物は、すべて撤去しなければなりませんか」

「そうだ」

石末は即答した。

「ただし、置いている側にも事情はある」

「倉庫が足りません」

「だろうな」

石末は倉庫の扉を開けた。

中には、古い備品が隙間なく詰め込まれている。

「倉庫の中を整理する。使っていない物を処分する。別の施設へ移す。必要なら、安全な場所に新しい収納を作る」

石末は野村を見た。

「そのどれかだ」

「廊下へ置くという選択肢は?」

「ない」

石末の口調は淡々としていた。

誰かを責めているのではない。

変えることのできない事実を伝えているだけだった。

転倒事故から一週間後。

集会所を利用している団体を集め、説明会を開いた。

会議室には、七人の代表者が集まった。

自治会長の中野武。

老人会の代表。

子ども会の担当者。

ヨガサークルの代表。

防災訓練の担当者。

そのほか、日常的に集会所を利用する団体の代表者が二人。

野村は、事故の経緯から説明した。

火災報知器が誤作動したこと。

利用者が一斉に避難したこと。

廊下に置かれた備品によって人の流れが滞り、三人が転倒したこと。

過去の消防査察では、査察前だけ廊下の荷物を移動し、終了後に戻す運用が続いていたこと。

十二年前の査察で、避難通路に関する指摘を受けていたこと。

「今回の事故は、誤報と避難時の混雑が重なって起きました」

野村は言った。

「ただし、廊下の幅が常時確保されていれば、転倒を防げた可能性があります」

中野自治会長が腕を組んだ。

「私たちが備品を置いたことが悪いという話ですか」

「利用団体の備品が、避難の支障になったことは事実です」

野村は答えた。

「ですが、保管場所の不足を把握しながら、行政と指定管理者が根本的な対応をしてこなかったことも事実です」

「査察の時には、きちんと片づけていた」

「はい」

「それで、これまで何か問題があったのか」

「今回、問題が起きました」

中野が眉を寄せた。

野村は続けた。

「査察のために空けるのではありません。火災や地震が、査察の日に起きるとは限りません」

「だが、収納が足りない」

「それも事実です」

「では、どこへ置けというんだ」

予想していた反論だった。

「倉庫内の棚を増やす方法を検討します」

野村は答えた。

「使用していない備品の処分、ほかの市有施設への移動も含め、各団体と一緒に整理したいと思います」

「撤去だけを命令するわけではない?」

「はい。収納不足は、皆さんだけの責任ではありません」

野村は会場を見渡した。

「ただし、廊下を保管場所として使い続けることはできません。そこだけは変えられません」

その時、老人会の代表が手を上げた。

白髪の小柄な女性だった。

事故の際、転倒して手首を打った本人だった。

「私が転んだのは、足元をよく見ていなかったからかもしれません」

女性は、包帯の取れた手首を押さえた。

「でも、あの時は本当に火事だと思ったんです」

部屋が静かになった。

「警報が鳴って、皆が立ち上がって、早く外へ出なければと思いました」

女性は続けた。

「廊下へ出たら人が詰まっていました。置いてある物をよけようとした時、後ろから押されて転びました」

誰も口を挟まなかった。

「今回は、手を打っただけで済みました」

女性は中野を見た。

「でも、あの廊下の状態で、本当に火が出ていたら、どうなっていたんでしょう」

中野は腕を組んだまま、答えなかった。

答えられる者は、ほかにもいなかった。

説明会の翌日から、備品の整理が始まった。

まず、各団体が集会所へ持ち込んでいる物を一覧にした。

所有団体。

使用頻度。

最終使用日。

今後も必要か。

別の場所へ移せるか。

現在の倉庫に、どの程度の収納余力があるかも測った。

ヨガサークルが数年間使っていないマットを処分することになった。

老人会の折り畳み椅子の一部は、収納に余裕のある別の市有施設へ移した。

子ども会の工作用具は、種類ごとにケースへ分け、新しく設置した棚へ収めた。

掲示パネルは、壁面へ固定できる収納金具を設置した。

利用団体ごとに持ち込める物の量も決めた。

三週間後。

廊下から、すべての備品がなくなった。

野村は、館長へ引継書の改訂を依頼した。

数日後、館長から改訂案が届いた。

野村は内容を確認し、一か所で手を止めた。

「ここを直してください」

該当箇所には、

「消防査察の通知を受けた場合、廊下の荷物を移動する」

と書かれていた。

「今後は、査察前に移動するのではありません」

野村は言った。

「廊下へ物を置かない運用に変わりました」

「では、『廊下の荷物は速やかに移動する』でしょうか」

「それでもありません」

野村は改訂案へ線を引いた。

「『避難通路の有効幅を常時確保する』としてください」

館長が首を傾げた。

「やることは同じではありませんか」

「違います」

野村は答えた。

「『査察前に移動する』では、査察がなければ移動しなくてもよいように読めます」

「確かに……」

「『常時確保する』なら、普段から守るものだとわかります」

野村は続けた。

「目的も書いてください」

「目的?」

「なぜ、通路を空けておくのかです」

「消防法に違反しないため、でしょうか」

「それもあります。ただ、それだけでは、また査察対応になってしまいます」

野村は、事故で転倒した女性の言葉を思い出した。

「火災や災害時に、利用者が安全に避難できるようにするため、と書いてください」

館長は頷き、文面を書き換えた。

改訂後の引継書には、次のように記載された。

「廊下、防火戸周辺および設備室への通路には物品を置かず、避難および点検に必要な幅を常時確保する。

これは、火災・地震等の際に利用者が安全に避難し、設備の点検・修理を速やかに行える状態を維持するためである。

毎月の施設巡回時に確認し、年一回は図面と現況を照合する」

野村は、改訂した引継書を折原に見せた。

折原は、最初から最後まで黙って読んだ。

「やっと、理由が残りましたね」

「十二年遅れましたが」

野村が言うと、折原は首を振った。

「遅くはないと思います」

「そうですか」

「昨日まで残っていなかったものが、今日から残ります」

野村は、その言い方が折原らしいと思った。

引継書の改訂を終えた頃、石末が集会所へ来た。

何も言わずに廊下を歩く。

防火戸の前。

設備室への通路。

倉庫の扉周辺。

一つずつ確認する。

倉庫の中にも入り、新設された棚と備品の配置を見た。

野村が尋ねた。

「どうですか」

石末は廊下を見渡した。

「廊下は、廊下に戻った」

「そう言ってもらえると、安心します」

「安心するのは早い」

石末は答えた。

「物を片づけるより、この状態を維持する方が難しい」

「定期的に確認するよう、引継書へ書きました」

「どのくらいの頻度だ」

「毎月の巡回時です。年一回は、図面とも照合します」

石末は頷いた。

「それでいい」

「図面と照合する必要がありますか」

「人間の目は慣れる」

石末は言った。

「毎日見ていると、少しずつ物が増えても気づかなくなる。昨日より十センチ狭くなっても、すぐには危険だと思わない」

「最初に見た時の感覚がなくなる」

「そうだ」

石末は図面を折り畳んだ。

「だから、時々、設計された状態へ戻って見直す。何のための空間かを確認する」

野村は、その言葉も手帳へ記録した。

説明会から一か月ほど経った頃。

市役所の一階ロビーで、中野自治会長と偶然会った。

「ああ、野村さん」

中野の方から声をかけてきた。

「集会所の廊下の件、うちの自治会でも引継書を直したよ」

「自治会の引継書を?」

「備品を集会所へ持ち込む時の手順だ」

中野は答えた。

「誰の物かわからなくなる物が多かったから、持込みと処分の記録を作ることにした」

「倉庫の使い方も?」

「団体ごとの区画を決めた。次の役員が困らないようにな」

説明会では、腕を組んだまま黙っていた。

その中野が、自分たちの引継書を直したと言っている。

「ありがとうございます」

野村が言うと、中野は片手を振った。

「礼はいらんよ」

「でも、自治会の方まで変えていただいて」

「あんたが、行政側にも責任があると言っただろう」

中野は少し笑った。

「全部こっちのせいにされたら、俺も意地になっていたと思う」

「事実を説明しただけです」

「その事実を隠さなかったから、こっちも考えたんだ」

中野はそう言って、庁舎の出口へ歩いていった。

野村は、ロビーに立ったまま、その背中を見送った。

正直に伝える。

十二年前の指摘。

査察時だけ片づける運用。

行政と指定管理者が、収納不足を放置してきたこと。

利用団体の備品が、避難を妨げていたこと。

誰か一人を悪者にはしなかった。

悪意があったとも言わなかった。

確認できた事実を伝え、これからの方法を一緒に考えた。

それによって、市の引継書が変わった。

指定管理者の巡回手順が変わった。

自治会の記録も変わった。

作業だけでなく、理由が残った。

引継ぎで残すべきものは、手順だけではない。

何を守るための手順なのか。

どの状態を維持しなければならないのか。

いつ、どのように確認するのか。

それらがなければ、手順は目的を失い、形だけが受け継がれる。

そして、目的を失った慣習は、いつか本来守るべき人を危険にさらす。

野村は、自分の手帳を開いた。

今日、中野から聞いたことを書き加えた。

「自治会引継書を改訂。備品の持込み・処分記録を開始」

これも、次の担当者へ残すべき経緯だった。

── 了 ──

この話のFM豆知識

(豆知識は準備中)

つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら