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第2巻 第5話

市民との約束

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電話がかかってきたのは、火曜日の午後だった。

相手は、大浜公民館自主運営協議会の事務局長を名乗った。

声は落ち着いていたが、一つひとつの言葉に力がこもっている。

「地域協働課の野村さんですか」

「はい。野村です」

「大浜公民館のことで、お話ししたいことがあります。以前、市の担当者から受けた説明についてです」

野村は手帳を開いた。

「どのような内容でしょうか」

「七年前、公民館の改修工事を行う前に、住民説明会がありました。その時、市の担当者から、改修後も従来の利用形態を維持すると説明を受けています」

「従来の利用形態というのは?」

「私たち協議会の構成団体が、特定の曜日や時間帯を優先的に使える運用です」

「はい」

「ところが今年度から、利用区分のルールが変わりました。今まで優先的に使えていた時間帯が、一般利用と同じ抽選扱いになっています」

男性は一呼吸置いた。

「七年前の説明と違います」

「当時の説明は、書面に残っていますか」

「書面にはありません。説明会の場で、担当者が口頭で言いました」

「説明会の議事録は確認されましたか」

「市から送られてきた議事録には、その発言が載っていませんでした」

「当時の資料はお持ちですか」

「あります」

「一度、直接お話を聞かせてください。資料も確認させていただけますか」

「わかりました」

翌日、野村は大浜公民館を訪れた。

築三十年。

集会室、調理室、和室、図書コーナーを備え、地域住民に長く利用されてきた施設だった。

自主運営協議会の事務局長、浅井孝雄は六十代の男性だった。

七年前には既に協議会の運営へ関わっており、当時の説明会にも出席していたという。

野村より二回りほど年上だった。

二人は、小会議室で向かい合った。

浅井が、古い資料を机へ置いた。

「これが、市から配布された資料です」

野村は受け取った。

A4用紙四枚。

改修工事の内容。

工事のスケジュール。

休館中の代替施設。

改修後の施設運営方針。

最後の項目には、

「利用者の皆様のご意見を踏まえた運営を継続します」

と記載されていた。

「この資料には、協議会の優先利用を維持するという記述はありませんね」

「資料にはありません」

浅井は答えた。

「ですが、説明会の時、担当者が口頭で言いました」

「どのような言葉でしたか」

「協議会が長年かけて育ててきた活動と利用形態は、改修後も尊重すると」

「『優先利用を維持する』と、明確に言いましたか」

浅井は少し考えた。

「正確な言葉までは覚えていません。ただ、私たちは、これまでどおり使えるという説明だと受け取りました」

野村は、その答えも手帳へ書いた。

発言された正確な言葉と、住民が受け取った意味は、同じとは限らない。

だが、七年後の今、その違いを確認できる記録はなかった。

「説明した担当者の名前はわかりますか」

「石岡さんです。今の担当者ではありません」

「何代前になりますか」

「三代前だと思います」

七年間で三代。

およそ二年ごとに、担当者が替わっている。

浅井にとっては一度の説明だった。

だが、行政側では、その説明をした人間も、その次の担当者も、既にいなくなっていた。

庁舎へ戻ると、野村は過去の担当者を調べた。

七年前の地域協働課担当者は、石岡秀樹。

現在は別の部署に勤務している。

野村は内線をかけた。

「大浜公民館の改修説明会について、確認したいことがあります」

「七年前の件ですか」

「はい。改修後の優先利用について、協議会へ何か説明をした記憶はありますか」

電話の向こうで、石岡がしばらく考えていた。

「正直、細かなやり取りまでは覚えていません」

「協議会側は、従来の優先利用を維持すると説明されたと受け取っています」

「協議会が長年活動してきたことは、当時も十分認識していました」

石岡は言った。

「それまでの運用へ配慮する、という話はしたかもしれません」

「優先利用を将来も維持すると約束しましたか」

「そこまでは……」

石岡の声が慎重になった。

「可能性がないとは言い切れません。ただ、明確に約束した記憶もありません」

「当時の手帳やメモは残っていますか」

「異動の時に処分したと思います」

「わかりました。ありがとうございます」

電話を切る。

確認できない。

それが、現在の結論だった。

石岡は説明したかもしれない。

説明していないかもしれない。

あるいは、

「配慮する」

と説明した言葉を、協議会が、

「維持する」

という約束として受け取ったのかもしれない。

記録がなければ、どの可能性も否定できなかった。

折原へ相談したのは、その日の夕方だった。

「大浜公民館の七年前の説明会について、記録を探してほしいんです」

「議事録は残っていますか」

「あります。ただ、問題になっている発言は載っていません」

「では、議事録以外の記録ですね」

野村は、これまでに確認した内容を説明した。

協議会が、従来の優先利用を維持すると説明されたと主張していること。

議事録に記録がないこと。

当時の担当者の記憶が曖昧であること。

書面による合意も確認できていないこと。

折原は最後まで聞いた。

「説明会前の庁内協議資料や、当日の担当者メモを探してみます」

「お願いします」

「住民側へ渡した資料は、浅井さんが持っているものだけですか」

「本人は、そう言っています」

「説明会直前に資料を修正している可能性もあります。市側に別版が残っていないか確認します」

「ほかに探すものはありますか」

「説明会後の復命書や、課内回覧です」

折原は答えた。

「口頭で何か説明した場合、その後の報告に残っているかもしれません」

「当時の担当者個人の手帳は、処分したそうです」

「正式な文書ではないので、残っていなくても不思議ではありません」

「それでも探せる範囲でお願いします」

「わかりました」

翌日、折原は地域協働課の書庫と地下文書庫を調べた。

二日後。

「残ってました。いくつか」

折原が持ってきたのは、三種類の資料だった。

一つ目は、説明会前に行われた庁内打合せのメモ。

石岡が作成したらしく、手書きで、

「協議会への配慮事項」

と書かれている。

その中に、一行あった。

「既存の優先利用形態への配慮を説明する」

二つ目は、説明会当日の出席者名簿。

協議会から八名。

市から二名。

浅井と石岡の名前も記載されている。

三つ目は、浅井が保管していた資料とは異なる版の説明資料だった。

説明会直前に修正されたらしく、工事期間や代替施設の表現が一部変わっている。

ただし、こちらにも優先利用の維持についての記載はなかった。

「庁内メモには、『既存の優先利用形態への配慮を説明する』とあります」

折原が言った。

「石岡さんが、この問題を認識していたことは確認できます」

「説明する予定だったことも」

「はい」

「実際に説明したかどうかは?」

「この資料だけでは、確認できません」

「議事録には残っていない」

「はい」

折原はメモを見た。

「それと、この文言は『優先利用を維持する』ではなく、『配慮する』です」

「意味が違いますか」

「少なくとも、同じとは断定できません」

折原は答えた。

「『配慮する』は、今後の運営で事情を考慮するという意味にも読めます。現在の利用形態を永久に変更しないという約束とは限りません」

「住民側は、維持されると受け取った」

「その可能性はあります」

「説明した側の意図と、聞いた側の理解がずれていた」

「そうかもしれません」

折原は慎重に答えた。

「ただし、録音も逐語記録もないので、そこも確定はできません」

野村は、七年前の庁内メモを見た。

几帳面な字だった。

当時の石岡は、協議会の活動実績を無視していたわけではない。

配慮が必要だと考えていた。

説明しようともしていた。

だが、その説明の内容と、行政としてどこまで約束したのかは記録されなかった。

野村は、浅井へ調査結果を説明した。

大浜公民館の会議室で、二人は再び向き合った。

「説明会前の庁内メモが見つかりました」

「何と書いてありましたか」

「『既存の優先利用形態への配慮を説明する』と記載されています」

浅井は、しばらく黙っていた。

「やはり、話は出ていたんですね」

「市側が、優先利用への配慮を検討していたことは確認できます」

野村は続けた。

「ただし、説明会で実際にどのような言葉を使ったのかは、記録がありません」

「議事録にもない」

「はい」

「優先利用を維持すると約束したかどうかも、確認できない」

「そのとおりです」

浅井は庁内メモの写しを見た。

「市に都合のよい解釈ですね」

「そう受け取られる可能性があることは、わかっています」

「私たちは、今までどおり使えると聞いた」

「浅井さんが、そう受け取ったことを否定するつもりはありません」

「では、なぜルールを変えたんですか」

「現在の利用希望者が増え、特定団体の優先枠を維持すると、新規利用者が使える時間が限られるようになったためです」

「七年前の説明より、今の公平性を優先した?」

「行政としては、現在の利用状況に合わせてルールを見直す必要があると判断しました」

「約束があったとしても?」

野村は、すぐには答えなかった。

「行政として確認できる約束があったなら、その内容を踏まえて判断する必要があります」

「しかし、記録がないから約束はなかったことにする」

「そうではありません」

野村は答えた。

「約束があったとも、なかったとも、今は断定できない状態です」

浅井は、長い間黙っていた。

やがて、庁内メモを机へ置いた。

「情報公開請求をします」

「承知しました」

「当時の説明会と改修後の運営方針に関する文書を、すべて確認します」

「請求内容を具体的に書いていただければ、市が保有している対象文書を特定します」

「折原さんが見つけた資料も、対象になりますか」

「請求内容に該当し、市が保有する行政文書であれば、開示・非開示を判断する対象になります」

「わかりました」

浅井は資料を鞄へ収めた。

「記録がないなら、残っているものを全部見せてもらいます」

「手続については、担当窓口をご案内します」

浅井が席を立った。

野村も立ち上がった。

「野村さん」

出口へ向かう前に、浅井が振り返った。

「私たちは、特別扱いを続けろと言っているだけではありません」

「はい」

「市が言ったことを、市が変えるなら、なぜ変えるのかを説明してほしいんです」

野村は、その言葉を手帳へ書いた。

「わかりました」

浅井が部屋を出ていく。

野村は、一人で机の前に残った。

情報公開請求が提出されれば、市は請求内容に該当する保有文書を特定し、非開示情報の有無を確認した上で、開示の可否を判断する。

説明会前の庁内メモ。

複数の版が残る配布資料。

出席者名簿。

正式な議事録。

改修後の運営に関する決裁文書。

折原が見つけた資料も、対象になり得る。

市に都合の悪い記録だからといって、隠すことはできない。

同時に、記録されていない発言を、市があったともなかったとも証明することはできない。

野村は、石岡のメモをもう一度読んだ。

「既存の優先利用形態への配慮を説明する」

七年前、この一行の先にどのような発言があったのか。

住民は何を聞いたのか。

行政は何を伝えたつもりだったのか。

確認する方法は、もう残っていない。

残っているのは、説明しようとした意図だけだった。

それが約束だったのか。

単なる配慮の表明だったのか。

その違いは、もう確定できないのかもしれない。

だからこそ、これから市がどう向き合うかが問われる。

野村は、情報公開請求への対応に必要な文書の一覧を作り始めた。

忘れないために

―なぜそう判断したのかを残す物語―

情報公開請求の処理は、総務課が担当する。

請求が提出されて一週間後、野村は開示決定通知の写しを受け取った。

対象として特定された文書。

開示する部分。

不開示とする部分。

それぞれの根拠が一覧になっている。

折原が見つけた説明会前の庁内打合せメモは、一部開示となった。

野村が開示用の写しを確認すると、何か所かが黒く塗られていた。

出席者の個人名の一部。

庁内で検討中だった事項の一部。

それぞれ、情報公開条例上の不開示情報に該当すると判断された部分だった。

浅井が開示文書を受け取ったのは、その翌週だった。

開示から三日後、野村の机に電話が入った。

「浅井です。開示文書を見ました」

「はい」

「黒塗りが多いですね」

「条例に基づいて、不開示情報に該当すると判断した部分を除いて開示しています」

「七年前に約束した内容まで、黒塗りにしたんですか」

「優先利用に関する発言は、議事録にも、ほかの保有文書にも記録されていません」

野村は言葉を選んだ。

「その部分を不開示にしたのではありません。市が保有する文書の中に、発言内容を記録したものが確認できなかったということです」

「記録がないなら、約束はなかったということですか」

野村は、すぐには答えられなかった。

行政が組織として確認できるのは、原則として記録に基づく事実だ。

記録にない発言を、行政上の約束として確定することは難しい。

だが、記録が見つからないことだけを理由に、

「その発言はなかった」

と言い切ることもできない。

「浅井さん」

野村は言った。

「一度、直接お会いできませんか」

大浜公民館の和室で、野村と浅井は向かい合って座った。

低い座卓の上に、開示文書と七年前の説明資料が並んでいる。

野村は、この面談の前に宮野へ電話した時のことを思い出していた。

状況を説明し、何をどう話すべきか尋ねた。

宮野の答えは短かった。

「それ、誰に説明するんですか」

それだけ言って、電話は切れた。

誰に説明するのか。

浅井に。

利用者に。

上司に。

議会に。

次の担当者に。

野村は考えた。

おそらく、全員に説明できる言葉でなければならない。

「正直にお話しします」

野村は浅井を見た。

「どうぞ」

「七年前の担当者が作成した庁内メモには、『既存の優先利用形態への配慮を説明する』という記載がありました」

「開示文書で確認しました」

「市側が、協議会の利用実績や従来の運用へ配慮する必要があると認識していたことは確認できます」

「はい」

「ただし、説明会当日に、実際にどのような言葉で説明したのかは確認できません」

「議事録にないから?」

「議事録にも、復命書にも、ほかの文書にも残っていません」

「当時の担当者には聞きましたか」

「確認しました」

「何と言っていました」

「細かな発言までは覚えていないということでした。配慮する趣旨の話をした可能性はあるが、優先利用を維持すると明確に約束したかどうかは、記憶が曖昧だと」

浅井は黙って聞いていた。

「だから、市は言っていないと判断するんですか」

「言ったとも、言っていないとも、確認できない」

野村は答えた。

「それが、今の市として言える正直なところです」

「便利な答えですね」

「そう聞こえると思います」

野村は否定しなかった。

「ただ、説明したつもりだったとしても、説明しなかったとしても、重要な内容が記録に残されていないことは、市の問題です」

浅井の眉が、わずかに動いた。

「市の問題?」

「はい」

野村は続けた。

「将来の利用条件に関わる説明をするなら、発言内容と、市として約束した範囲を、議事録や文書で明確に残す必要がありました」

「それが、できていなかった」

「できていませんでした」

野村は頭を下げた。

「その点については、申し訳ありません」

浅井は何も言わなかった。

和室の外から、廊下を歩く足音が聞こえた。

長い沈黙の後、浅井が口を開いた。

「私は、市が嘘をついていると思っていたわけではありません」

「はい」

「七年間、私たちは、これまでどおり使えると思ってきた」

浅井は開示文書へ目を落とした。

「ところが、今年になってルールが変わった。なぜ変わったのか、説明がなかった」

「今年度の利用区分変更は、市内施設の利用ルールを統一する見直しの一環です」

野村は答えた。

「利用希望者が増え、従来の優先枠を維持すると、新規の利用者が使える時間が限られるようになったためです」

「七年前の説明とは、別の理由で変えた?」

「はい」

「それなら、なぜ変更前に説明しなかったんですか」

「おっしゃるとおりです」

野村は答えた。

「利用条件を変える前に、従来の経緯を確認し、協議会へ説明するべきでした」

浅井は、小さく息を吐いた。

「あなたに怒っているわけではないんです」

「はい」

「あなたは、七年前のことを知らない。担当になってから一年でしょう」

「そうです」

「でも、私たちは三十年、この公民館を使ってきた」

浅井は、和室を見渡した。

「行政の担当者は替わる。課長も替わる。ルールも替わる。でも、施設と私たちの活動は続いてきた」

野村は黙って聞いた。

「その記憶は、どこに残るんですか」

野村には、答えられなかった。

公文書の中には、浅井たちが三十年間積み重ねてきた活動のすべては残っていない。

だが、浅井たちの記憶だけでは、行政上の決定や約束を証明できない。

どちらにも、全体は残っていなかった。

翌日。

野村は、浅井との面談について折原へ報告した。

開示文書の内容。

黒塗りに対する浅井の反応。

七年前の説明を確認できないと伝えたこと。

今年度の利用区分変更について、事前説明が不足していたと認めたこと。

折原は、途中で口を挟まずに聞いた。

「黒塗りにした部分は、条例上の不開示情報に該当すると判断した部分ですよね」

「そうです。個人に関する情報と、当時の意思決定過程に関する記述の一部です」

「処理としては、条例に基づいている」

「はい」

「でも、浅井さんから見れば、『市が都合の悪い部分を隠した』ように見える」

「そうなんです」

野村は答えた。

「記録がない部分と、黒塗りで見えない部分が並ぶと、何も説明されていないように見える」

折原は少し考えた。

「引継書や業務記録も、似た問題を抱えています」

「どういうことですか」

「個人名や具体的なやり取りを詳しく書けば、情報公開や個人情報の扱いを考える必要があります」

「だから、書かない方が安全だと考える」

「はい」

折原は続けた。

「でも、何も書かなければ引き継げない。引き継げなければ、次の担当者が同じ問題を最初から調べることになる」

「では、どう残せばいいんですか」

「個人への評価や、不要な個人情報を残す必要はありません」

折原は言った。

「残すべきなのは、組織として判断した内容と、その根拠です」

「今回なら?」

「利用条件に関わる説明を行った場合は、説明した事項、住民から出た意見、市として回答した内容、将来も維持する約束なのか、その時点での方針なのかを明確にする」

「誰が言ったかではなく、市として何を説明したか」

「そうです」

「利用区分を変える時には?」

「変更理由、従来の経緯、影響を受ける団体、事前説明の方法を記録する」

折原は付け加えた。

「個人名を隠すために抽象化するのではありません。個人の記憶に依存していた判断を、組織の判断として残すためです」

野村は、手帳へ書き留めた。

「説明内容」

「回答の範囲」

「将来の変更可能性」

「見直し時の説明手順」

折原が言った。

「七年前に必要だったのは、担当者の名前より、市がどこまで約束したのかを確認できる記録だったと思います」

「それがなかったから、今、浅井さんと市のどちらも確かめられない」

「はい」

浅井との面談から一週間後。

地域協働課長のもとへ、倉持幸三議員から電話が入った。

野村は課長に呼ばれ、これまでの経緯を説明した。

「倉持議員は、協議会側から相談を受けたんでしょうか」

「おそらくな」

課長は答えた。

「次の定例会で、質問が出る可能性がある」

「答弁の準備をします」

「七年前の経緯を整理してくれ」

課長は言った。

「確認できた事実と、確認できない部分を分けること」

「はい」

「今年度の利用区分変更についても、決定の経緯と説明が不足していた点を整理しておいてくれ」

野村は頷いた。

確認できること。

確認できないこと。

それを混ぜずに示す。

今回の問題の核心だった。

その日の夕方、野村は折原へ電話した。

「議会答弁の準備を手伝ってもらえますか」

「はい」

「七年前から現在までの記録を、時系列で整理したいんです」

「残っている文書をすべて並べましょう」

折原は答えた。

「記録がない部分についても、『確認できる記録なし』と明示します」

「記録がないことも、記録に残す」

「調べていない空白と、調べた結果わからなかった部分は違いますから」

野村は、浅井の言葉を折原へ伝えた。

「行政の担当者が替わっても、施設と住民の活動は続いている。その記憶は、どこに残るのかと言われました」

折原は黙って聞いていた。

「行政の中には、残っていませんよね」

野村は言った。

「浅井さんたちが三十年見てきたものも、七年前の担当者が何を考えたかも、全部は残っていない」

「残っていないものは、残っていません」

折原は答えた。

「でも、今から残すことはできます」

「今から?」

「今回の経緯を記録にします」

折原は続けた。

「七年前に何が確認できたか。何が確認できなかったか。今年度、なぜ利用区分を変更したか。住民へどのように説明したか。今後、どう記録方法を変えるか」

「それを残せば」

「次の担当者は、今日までの経緯を知った上で判断できます」

野村は、机の上の資料を閉じた。

窓の外に、大浜公民館が見えるわけではない。

それでも、施設のある方向へ目を向けた。

青葉市には、百六十一の公共施設がある。

そのすべてについて、過去の経緯が十分に記録されているわけではない。

だが、今日まで残っていなかったことを理由に、明日も残さない必要はない。

今日から残す。

それしかなかった。

定例会で、倉持議員から質問が出た。

答弁書は、野村が原案を作成し、課長が答弁した。

七年前の説明会について確認できる記録。

庁内で優先利用への配慮を検討していたこと。

説明会での実際の発言内容は確認できないこと。

今年度、利用区分を変更した理由。

変更前の説明が十分ではなかったこと。

今後の対応。

倉持議員が質問した。

「七年前の説明会で、市が何を説明したのか記録が残っていないとは、どういうことですか」

課長が答えた。

「説明会の議事録には、将来の優先利用に関する発言が記録されておりません。当時の担当者にも確認しましたが、具体的な発言内容を確定するには至りませんでした」

「市民は約束されたと言っている」

「市民の皆様がそのように受け止めたことを、否定するものではありません」

議場が静かになった。

課長は続けた。

「一方、市として約束した範囲を確認できる記録がないため、行政上の確定した合意として扱うことも困難です」

「では、どうするのか」

「重要な説明内容を記録していなかったことは、市の記録管理上の不備です」

課長は答えた。

「また、今年度の利用区分変更に際し、従来の経緯を確認し、関係団体へ事前説明を行うべきでした。その点についても反省しております」

「今後は?」

「説明会で利用条件や将来の運営に関わる説明を行う場合、市として説明した内容、回答の範囲および将来の見直し可能性を議事録へ明記します」

課長は、手元の答弁書を見た。

「利用区分を変更する場合には、従来の運用経緯と変更理由を整理し、影響を受ける団体へ事前に説明する手順を定めます」

議会が終わった後、課長が廊下で野村を呼び止めた。

「良い答弁書だった」

「ありがとうございます」

「確認できないことを、無理に埋めなかった」

課長は言った。

「記録がないことを正直に示した。それが一番誠実だ」

野村は頷いた。

浅井から短いメッセージが届いたのは、議会の翌日だった。

「議事録を読みました。確認できないと正直に答えたことは評価します」

続きがあった。

「私たちも、大浜公民館での三十年間の活動を記録に残すことにしました。行政の記録にないなら、利用者側で残します」

野村は、何度かその文面を読み返した。

そして返信を打った。

「ありがとうございます。市の記録と照合できる形で保存できる方法を、一緒に考えさせてください」

送信してから、野村は考えた。

行政の記録。

住民の記録。

同じ施設を、異なる立場から見た記録だ。

行政には、決裁、制度、予算、利用条件の変更が残る。

住民には、活動の積み重ね、地域で交わされた言葉、施設が果たしてきた役割が残る。

どちらか一方だけでは、施設の全体像にはならない。

浅井たちが三十年間見てきた大浜公民館の姿は、市の文書にはほとんど残っていない。

だが、浅井たちは覚えている。

その記憶を記録に変えれば、行政の文書とつながる可能性がある。

七年前の口頭説明が、約束だったのか。

配慮を示しただけだったのか。

最後まで確定することはできなかった。

それでも、記録が見つからないからといって、住民が説明を受けたと認識している事実まで消すことはできない。

公文書に残らなかった約束は、時間とともに弱くなる。

だが、なかったことにすれば、行政への信頼が失われる。

記録がないことと、事実がなかったことは違う。

確認できることと、確認できないことを分ける。

わからない部分を隠さない。

判断や説明を変更するなら、その理由を残す。

野村は、今回の経緯をまとめた案件記録の表題を入力した。

「大浜公民館利用区分変更及び過去の説明経緯に関する確認記録」

記録の最後に、一文を加えた。

「本件については、七年前の説明会における具体的発言を確認できる記録が存在せず、発言の有無および範囲を確定できなかった」

少し考え、続けて入力した。

「ただし、協議会側が従来の優先利用を継続する説明であったと受け止め、七年間その認識を保持してきたことについても、本件対応の経緯として記録する」

野村は文書を保存した。

今度は、市の記録だけではなかった。

住民がどう受け止めたかも、残した。

── 了 ──

この話のFM豆知識

(豆知識は準備中)

つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら