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自治体FM物語第2巻 › 第11話
第2巻 第11話

忘れないために

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判断記録制度の試行が始まったのは、三月の最終週だった。

対象は、一定の基準を満たす案件に限られた。

前例のない判断を行った案件。住民や事業者への影響が大きい案件。暫定措置を採用した案件。将来、条件の変化によって再判断が必要となる案件。

各課が対象案件を判断して記録を作成し、行政管理課が形式を確認する。試行期間は半年。終了後に、作成負担と利用状況を検証することになった。

制度を始めても、すべての課が動いたわけではなかった。

一件も作らない課があった。

様式だけを埋めて提出する課があった。

理由の欄に、一行しか書かれていない記録もあった。

折原は、受け取った記録をすべて文書管理システムへ登録した。

一行だけの記録が、次の担当者を助けるとは限らない。

だが、試行の最初から不十分な記録を突き返し続ければ、誰も書かなくなる。

今は、残されたものを切り捨てない。

何が役に立ち、何が足りなかったのかを、半年後に確かめればいい。

四月に入ると、人事異動があった。

野村健太は地域協働課から別の部署へ異動した。

異動前の最終日、野村が折原のところへ挨拶に来た。

「お世話になりました」

「こちらこそ」

「みなと指定管理施設の入口石材ですが、次年度予算が通りました。夏に改修工事へ入ります」

「よかったです」

「引継書に、今回の経緯を書きました。なぜマットを置くことになったのか。なぜ暫定措置だったのか。なぜ改修が遅れたのか。次の担当者が判断できるように、全部書きました」

折原は頷いた。

「新しい担当者が読めば、同じ調査をやり直さずに済みます」

「読んでくれるといいんですけど」

「必要になれば読みます」

「そうでしょうか」

「残ってますから」

野村が少し笑った。

「折原さんらしいですね」

野村は軽く頭を下げ、行政管理課を出ていった。

五月の連休が明けた頃、片桐望から連絡があった。

「折原さん、少しいいですか。管財課の若手から相談があります」

折原が管財課へ行くと、片桐の隣に、入庁二年目の若い職員が立っていた。

緊張しているのか、資料を両手で強く握っている。

「北小学校の改修優先順位について、住民から問い合わせがありました」

若手職員が説明した。

「なぜ北小がこの順位なのかと聞かれたんですが、評価点の根拠が分からなくて」

折原は、その言葉を聞いた。

一年前、宮野彩乃から聞いたのと同じ問いだった。

評価点は残っている。

だが、なぜその点数になったのかが分からない。

「判断記録を確認しましたか」

折原が尋ねた。

「判断記録、ですか」

「昨年度から試行している制度です。北小学校の件については、記録が作られています」

若手職員が文書管理システムを開いた。

片桐が検索方法を教える。

しばらくして、一件の記録が表示された。

昨年度、宮野と折原が調査した結果をまとめたものだった。

十年前、北小学区では大規模な宅地開発が計画され、児童数が増加すると予測されていたこと。

その人口予測が、施設評価の将来需要に反映された可能性が高いこと。

ただし、係数を決定した正式な記録は確認できなかったこと。

その後、宅地開発と人口増加の予測が外れ、現在の施設劣化と優先順位に乖離が生じたこと。

次回の計画改定時には、現在の児童数と劣化状況に基づいて優先順位を見直す必要があること。

A4で三枚に整理されていた。

若手職員が、画面を読み進めた。

「全部書いてあります」

「すべてではありません」

折原は言った。

「当時の担当者が、実際にどう考えたかまでは確認できていません。分かったことと、分からなかったことが書かれています」

「でも、なぜこの順位になったのか、背景は説明できます」

「はい。住民の方には、確認できた経緯を説明してください。推測は推測として分ける。それでも、一年前よりは正確な説明ができます」

若手職員は、もう一度記録を読み返した。

「これを書いたのは誰ですか」

「教育総務課の宮野課長補佐と、私です」

「あの宮野さんですか」

「はい」

若手職員は小さく息を吐いた。

「助かりました」

折原は、その言葉を聞いた。

判断記録制度が、初めて次の担当者の仕事に使われた日だった。

六月の終わり、石末堅が行政管理課へ来た。

再任用の石末が六階まで来ることは珍しかった。

「判断記録とやら、営繕課でも書き始めた」

「ありがとうございます」

「礼はいらん。ただ、一つ言っておく」

石末は折原を見た。

「現場の判断を、全部文字にするのは無理だ」

「はい」

「打診した時の音、壁を触った時の感触、図面と現物を見比べた時の違和感。経験がなければ分からないことがある。言葉にしても、全部は伝わらない」

「その通りだと思います」

「だから、書いたものを過信するな」

石末は続けた。

「記録を読んだだけで、現場が分かったつもりになるな。記録は地図だ。実際に歩くのは人間だ」

折原は手帳を開こうとした。

石末の視線が、その手に落ちた。

「それも、すぐに書くな」

折原は手を止めた。

「なぜですか」

「手帳に書けば、覚えた気になる」

石末は言った。

「一度、頭に入れろ。必要なら後で書け」

折原は手帳を閉じた。

石末は、それ以上何も言わず、営繕課のある階へ戻っていった。

七月、みなと指定管理施設の入口石材の改修工事が始まった。

地域協働課の新しい担当者から連絡を受け、折原も一度だけ現場を見に行った。

入口の天然石には、滑り止め加工が施されていた。

表面に細かな凹凸をつけ、雨に濡れても滑りにくい仕上げに改修する工事だった。

入口に敷かれていた黒いゴムマットは、すでに撤去されていた。

折原は、以前マットが置かれていた場所に立った。

四年前、根本改修の予算が確保できず、マットが置かれた。

なぜマットになったのかは記録されなかった。

暫定措置は見直されないまま続き、利用者が同じ場所で二度転倒した。

「言っても変わらないと思った」

転倒した女性は、野村にそう話していた。

だが、今は変わった。

担当者は異動した。

施設の管理者も替わるかもしれない。

それでも、経緯が引き継がれ、予算が確保され、石材は改修された。

工事が完了したら、地域協働課の新しい担当者から女性へ連絡することになっていた。

その予定も、引継書に書かれていた。

人は替わった。

だが、仕事は途中で消えなかった。

八月の終わり。

夜の市役所は静かだった。

折原は六階に一人残り、判断記録制度の試行結果をまとめていた。

半年間に作成された判断記録は、各課合わせて三十一件だった。

そのうち、別の担当者が実際に参照したことを確認できたものは七件。

北小学校の施設評価。

暫定修繕の見直し。

補助金の処分制限。

随意契約の判断基準。

設備変更の経緯。

住民説明会の申し送り。

共有フォルダの正式版確定記録。

七件。

作成された記録の二割あまりだった。

残る二十四件は、まだ誰にも使われていない。

今後、必要になるかもしれない。

一度も読まれないまま、保存期間を迎えるかもしれない。

折原は、報告書の評価欄で手を止めた。

七件を、多いと評価するべきか。

少ないと評価するべきか。

基準がなかった。

去年の今頃には、判断記録制度そのものが存在していなかった。

参照された記録は、ゼロだった。

ゼロと七は違う。

それ以上の評価を、今の段階で書くことはできなかった。

廊下から足音が聞こえた。

長谷巡が、行政管理課の入口に立った。

管財課から帰る途中、明かりがついているのを見て立ち寄ったらしい。

「まだいるのか」

「半年間の結果をまとめています」

「どうだった」

「三十一件作られて、七件が実際に参照されました」

「七件か」

「少ないと思いますか」

長谷は、少し考えた。

「去年は何件だった」

「ゼロです」

「なら、七件は七件分の価値がある」

「制度全体として成功したと言えるでしょうか」

「それは分からない」

長谷は即答した。

「分からないことを、無理に成功か失敗かに分ける必要はない。半年後にまた見ればいい」

長谷が、行政管理課の照明のスイッチに手をかけた。

「帰れ。続きは明日でいい」

折原は報告書を保存した。

長谷が照明を消した。

二人は暗くなった六階を歩き、庁舎を出た。

翌朝、千々岩から短いメッセージが届いた。

「検証結果は課長から聞いた。昼に珈琲三番地へ来い」

昼の珈琲三番地は、いつもと変わらなかった。

千々岩はカウンターの奥に座り、アイスコーヒーを飲んでいた。

折原も隣に座り、同じものを頼んだ。

「七件か」

千々岩が言った。

「はい」

「少ないと思ったか」

「最初は」

「今は?」

「七件で、同じ調査をやり直さずに済んだ人がいました」

「それだけか」

「少なくとも一人は、住民への説明に使いました。別の担当者は、暫定措置を見直しました。七件という件数以上のことは、まだ評価できません」

千々岩がアイスコーヒーを一口飲んだ。

しばらく、二人とも何も言わなかった。

店内には、食器の触れ合う小さな音が聞こえていた。

「残せました」

折原は言った。

千々岩が、少し間を置いた。

「残したんじゃない」

折原は千々岩を見た。

「使えるようにしたんだ」

折原は、その言葉を手帳に書かなかった。

頭に入れた。

その夜、折原は六階で、半年間の記録を整理した。

三十一件の判断記録。

七件の参照報告。

藤岡の条件付き試行承認。

各課から出た意見。

作成に要した時間。

対象案件の判断に迷った事例。

記録内容が形式的になった事例。

正直に書くことをためらったという担当者の声。

それらを、検証資料として一つのファイルにまとめた。

制度が機能した部分だけではなく、機能しなかった部分も記録した。

次の半年に何を見直すべきかが分からなければ、試行した意味がない。

九時を過ぎた頃、響矢律から短いメッセージが届いた。

「半年間の結果を聞きました。件数だけでは評価できません。次の半年は、記録が作成された時点の前提条件と、参照時に何が変わっていたかも残してください」

折原は、わずかに笑った。

響矢らしい指摘だった。

褒めているのか、修正を求めているだけなのかは分からない。

ただ、次の検証項目として正しかった。

折原は報告書に一行を追加した。

「判断時の前提条件と、参照時点での条件変化を確認すること」

画面を保存した。

椅子の背にもたれ、目を閉じた。

瞼の裏に、青葉市の夜景が浮かんだ。

街路灯。住宅の窓の明かり。遠くに見える公共施設の照明。

市内にある百六十を超える公共施設。

そのすべてについて、判断の理由が残っているわけではない。

これからも、記録されない判断はある。

失われる記憶もある。

それでも、今日より明日の方が、少しだけ多く残る。

それで十分だと思った。

廊下の向こうから足音が聞こえた。

宮野彩乃だった。

手には学校施設関係の資料を抱えている。

また遅くまで仕事をしていたらしい。

折原の前を通り過ぎようとして、足を止めた。

「まだいたんですか」

「半年間の結果をまとめていました」

「どうでしたか」

「三十一件作られて、七件が使われました」

「施設は直りましたか」

「みなと施設の入口石材は改修されました」

「判断の理由は?」

「引き継がれました」

宮野が、しばらく黙った。

「でも、記録を作っただけでは意味がないですね」

「はい」

「使う人がいなければ、判断記録はただの紙です」

宮野は手に持った資料を見た。

「施設も同じです。建物が残っても、使う人がいなければ意味がない」

折原は何も言わなかった。

宮野が続けた。

「使う人がいて、引き継ぐ人がいる。だから施設も記録も残す意味があるんだと思います」

その言葉が、静かな六階に残った。

宮野は資料を抱え直し、防災棟の方へ歩いていった。

足音が遠ざかっていく。

折原は窓の外を見た。

この街には、誰かが住んでいる。

施設を使う人がいる。

過去の理由を必要とする人がいる。

仕事を引き継ぐ人がいる。

まだ会ったことのない、次の担当者がいる。

その人たちがいる限り、残す意味がある。

翌朝、折原は早めに出庁した。

文書管理キャビネットの前に立った。

半年前、宮野が北小学校の資料を持って訪ねてきた場所だった。

扉を開ける。

保存期間ごとに整理されたファイルが並んでいる。

折原は、一番手前へ新しいファイルを入れた。

表紙には、

「判断記録制度 試行期間記録 第一年度」

と書かれていた。

制度を作った理由。

試行へ至った経緯。

三十一件の記録。

七件の利用。

機能しなかった部分。

次回の検証項目。

すべてが、その中に入っていた。

昼前、入庁一年目の女性職員がキャビネットの前へ来た。

地域協働課へ新しく配属された職員だった。

「折原さん、みなと指定管理施設の入口改修について、過去の経緯を確認したいんですが」

「何を知りたいですか」

「なぜ改修まで四年もかかったのかと、以前置かれていたマットがどういう扱いだったのかです。利用者の方へ、工事完了の報告をすることになっていて」

「記録があります」

「どこにですか」

「文書管理システムと、施設の引継書です」

折原は該当するファイルを取り出した。

「残ってますよ」

「何が残っているんですか」

折原は、間を置いた。

「なぜ、そう判断したのかです」

若手職員はファイルを受け取った。

窓から、夏の朝の光が差し込んでいた。

その年の秋。

宮野は、学校統廃合に関する住民説明会へ出席した。

説明会の終了後、一人の年配の男性が宮野へ声をかけた。

大浜公民館の運営に、長く関わってきた住民だった。

「公民館の引継書が変わったと聞きました」

「はい。七年前の説明会で確認できたことと、確認できなかったこと、現在の利用ルールへ変更した経緯を記録しました」

「われわれも、三十年間の活動記録を整理し始めました」

「そうですか」

「市役所の記録と、私たちの記録が、前より少し近づいた気がします」

宮野は、その言い方が印象に残った。

重なった、ではない。

近づいた。

行政の記録と、市民の記憶が、完全に同じになることはない。

立場も、見ているものも違う。

その間には、まだ距離がある。

だが、互いの記録が存在すれば、その距離を確認できる。

何が同じで、何が違うのかを話すことができる。

後日、宮野からその話を聞いた折原は、反射的に手帳を開こうとした。

途中で手を止めた。

石末の言葉を思い出した。

書いたことで、分かった気になるな。

折原は手帳を閉じた。

まず、頭に入れた。

いつか、この経験を誰かへ引き継ぐ必要が生じた時には、言葉にすればいい。

残すべきものは、建物だけではなかった。

制度や知識だけでもなかった。

記録を読み、現場を歩き、次の判断に使う人間がいる。

その人間へ届いて初めて、残したものは意味を持つ。

この話のFM豆知識

(豆知識は準備中)

つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら