消されたファイル
契約検査課の牧原圭が折原を訪ねてきたのは、十一月の半ばだ。
四十二歳。主査。
契約事務と工事検査を担当して、十年になる。
物静かで、必要のないことはほとんど口にしない。折原とはこれまで直接の接点がなかったが、庁内の文書管理に詳しいと聞いて訪ねてきたらしい。
「サーバーのシステム更新で、古い共有フォルダの一部が見られなくなりました」
折原は手帳を開いた。
「保存期間が満了している文書ですか」
「満了しているものもあります。ただ、実務上、今も参照していたファイルが含まれています」
「どのようなファイルですか」
「工事の積算に使った単価データと、過去の仕様書です。毎年度の積算を行う際、前年までの単価や仕様と比較するために使っていました」
「文書の保存期間は?」
「契約関係文書は、原則五年です。今回見られなくなったものには、七年前や八年前のデータもあります」
「保存期間を過ぎたデータを、現在も参照していた」
「そうです」
折原は少し考えてから尋ねた。
「なぜ、七年前のデータまで必要だったんですか」
「単価の経年変化を見るためです」
牧原は答えた。
「前年との比較だけでは、急激な変動なのか、一時的なものなのか判断しにくい。五年分でも足りない場合があります。七年、八年と並べた方が、資材や労務単価の傾向を読みやすくなる」
「仕様書も同じですか」
「はい。過去にどういう条件で発注し、どこで問題が起きたかを確認するためです」
「引継書には、その使い方が記録されていましたか」
「書かれていません」
牧原は、わずかに視線を落とした。
「私が着任した時、前任の主任から口頭で教わりました。古いフォルダは消すな。積算する時には、なるべく長い期間を見ろ、と」
また、口頭だけで伝わってきた仕事だった。
必要性はあった。
意味もあった。
だが、その理由は、どこにも記録されていなかった。
折原は、DX推進課へ状況を確認した。
対応したのは日下部だった。
「今回のシステム更新で、旧共有サーバーのフォルダ構成を新しい環境へ移しました」
日下部は管理画面を開いた。
「文書管理システム上、保存期間が満了しているファイルには、自動的に閲覧制限がかかっています」
「閲覧できないだけで、データ自体は消えていないんですか」
「現時点では残っています」
「削除はされていない?」
「はい。ただし通常の職員権限では開けません。管理者権限が必要です」
「管理者権限を使えば、内容を確認できますか」
「技術的には可能です」
日下部は答えた。
「ただ、保存期間が満了した文書を、引き続き業務で使用してよいかどうかは、システムの問題ではありません」
「文書管理上の問題ですか」
「そうです」
日下部は画面を閉じた。
「システムは、設定された保存期間に従ってアクセスを制限しただけです。その保存期間が、実際の業務に合っているかどうかまでは判断できません」
折原は頷いた。
今回も同じだった。
システムは、定められたルールどおりに動いている。
問題があるとすれば、ルールと実際の仕事の関係が整理されていなかったことだ。
折原は、牧原へ確認結果を伝えた。
「データそのものは、現時点では残っています。ただし、保存期間が満了しているため、通常の操作では閲覧できない状態です」
「管理者に開けてもらえば、使えますか」
「技術的には可能です」
折原は答えた。
「ですが、毎回、管理者権限で非公式に開いてもらう運用にはできません」
「では、どうすればいいんですか」
「まず、そのデータが行政文書として保存を継続する必要があるのかを整理します」
「保存期間を延長する?」
「一つの方法です」
折原は説明した。
「現在の業務に必要で、文書として保存する価値が続いているなら、所定の手続に基づいて保存期間を延長することが考えられます」
「別の方法もありますか」
「あります」
折原は続けた。
「過去の契約書類一式をすべて残す必要はなくても、単価の推移や仕様上の注意点だけが必要なら、必要な情報を抽出して、長期参照用の資料として新たに整理する方法です」
「元の契約文書とは別に?」
「はい」
「行政文書としての保存期間が満了した原本と、積算の分析に使うデータを分ける」
「そうです」
折原は言った。
「過去の単価を比較することが業務上必要なら、単価推移表や積算参考データベースとして、目的、出典、更新方法、保存期間を改めて決める必要があります」
牧原は黙って聞いていた。
「今まで、私たちが古いフォルダを参照していたことは、問題だったんでしょうか」
折原は、すぐには答えなかった。
「必要な情報を確認し、積算の精度を上げようとしたこと自体は、問題ではないと思います」
「はい」
「ただ、その情報をなぜ残すのか、どの期間まで参照するのか、誰が管理するのかが、正式に決められていなかった」
「口頭でしか引き継がれていなかった」
「そうです」
折原は続けた。
「古い文書がたまたま共有フォルダに残っていたから使えた。その状態に依存していたことが、今回の問題です」
牧原は、しばらく考えていた。
「保存期間が切れているから、情報として不要とは限らない」
「はい」
「でも、必要だからといって、昔の文書を無期限に残しておけばいいわけでもない」
「そういうことです」
何を残すのか。
何のために残すのか。
いつまで残すのか。
原本を残すのか、必要な情報だけを引き継ぐのか。
そこを決めなければ、保存期間は単なる年数になる。
「行政管理課として、今後の扱いを整理します」
折原は言った。
「契約検査課には、古いデータをどのように使ってきたかを教えてください。実際の業務を知らなければ、適切な保存期間は決められません」
「わかりました」
牧原は立ち上がりかけて、動きを止めた。
「宮野さんにも、一度相談してみます」
「教育総務課の宮野課長補佐ですか」
「はい」
折原には、意外な名前だった。
「なぜ宮野さんに?」
「以前、別の案件で相談した時、制度だけでなく、後で誰に説明するのかを考えろと言われました」
牧原は答えた。
「今回も、規程をどう解釈するかだけではなく、なぜ古いデータが必要なのかを説明できる形にした方がいいと思って」
「構いません」
折原は言った。
「ただし、文書管理上の整理は行政管理課、業務上の必要性の判断は契約検査課が行います」
「わかっています」
「宮野さんの意見は、説明の仕方を考える参考にしてください」
牧原は頷いた。
「折原さん、また相談してもいいですか」
「はい」
牧原が席を離れた。
折原は、今日確認できたことを手帳へ書いた。
「保存期間満了後の積算関係データを、実務上参照していた」
「システム更新により、通常権限で閲覧できなくなった」
「長期参照の必要性は、引継書や文書管理表に記録されていなかった」
「参照目的は、単価の経年変化の把握と、過去仕様の問題点の確認」
「原本の保存継続と、必要情報の再構成を分けて検討する」
最後に、一文を書き加えた。
「保存期間が終わることと、情報の価値がなくなることは同じではない」
書いてから、折原は考えた。
精度の高い積算をしたかっただけなのだろう。
前任者も、その前の担当者も、過去のデータを残すことに意味があると知っていた。
だから削除しなかった。
そして、その理由を文書には残さなかった。
必要な情報は残っていた。
だが、なぜ必要なのかが残っていなかったために、システムから見れば、ただの保存期間切れのファイルになった。
忘れないために
―なぜそう判断したのかを残す物語―
牧原が宮野へ相談に行った日の午後、折原は地下文書庫へ降りた。
別の案件で、古い書類の所在を確認する必要があった。
地下文書庫は、萬代のいる地下資料室に隣接している。折原も月に一、二度は訪れる場所だった。
扉を開けると、珍しく先客がいた。
六十代に見える男性が、段ボール箱の前にしゃがんでいる。
箱から書類を取り出し、残すものと廃棄するものに分けているようだった。
「失礼します。何かお探しですか」
折原が声をかけると、男性が振り返った。
「ああ、驚かせてすまない。総務課の西田克己です」
「行政管理課の折原です」
「今月末で定年なんです。担当してきた案件を整理しておこうと思って」
折原は、西田の足元を見た。
段ボール箱には、厚い紙のファイルが詰め込まれている。
その脇に、一本のUSBメモリが置かれていた。
折原の視線に気づいたのか、西田がUSBメモリを手に取った。
「これは……使わない方がいいよな」
自分に言い聞かせるような口調だった。
しばらく迷った後、USBメモリを段ボール箱の脇へ戻した。
「長く担当してきた案件で、次の人に残しておきたいことがあるんです」
「どのようなことですか」
折原は西田の隣にしゃがんだ。
「随意契約の経緯です」
西田は答えた。
「競争入札ではなく、随意契約を選んだ案件がいくつかあります。なぜその方法を選んだのかを、次の担当者に伝えておきたい」
「判断理由は、契約関係の文書に残っていませんか」
「稟議書には書いてあります」
西田は言った。
「ただ、詳しい経緯までは残っていない。設備の特殊性、既設機器との互換性、施工業者しか把握していない履歴。そういう条件は、発注前の段階では整理しきれず、口頭で確認したことも多かったんです」
「その口頭確認の内容を、USBへ保存しようとした?」
「ええ」
西田は苦笑した。
「私物のUSBへ入れるのがよくないことは、わかっています。でも、何も残さず退職して、次の担当者を困らせるのも嫌だった」
「USBの中身は、もう作成していますか」
「まだです。手元のメモをまとめようとしていたところです」
折原は、わずかに安堵した。
「随意契約の判断理由を残したいという考えは、間違っていないと思います」
折原は言った。
「ただ、個人のUSBへ保存することはできません」
「そうですよね」
「紛失すれば、契約情報や事業者情報が漏れる可能性があります。誰が保有しているかも組織で把握できません。西田さんが退職した後、正式な記録として扱うこともできなくなります」
「では、どうすればいいでしょう」
「残す情報を、二つに分けた方がいいと思います」
「二つ?」
「一つは、個別案件の判断記録です」
折原は説明した。
「どの契約について、どのような事実を確認し、なぜ随意契約が妥当だと判断したのか。具体的な設備、契約相手、根拠条項、比較検討の内容を、案件ごとの記録として残します」
「個社名も書くんですか」
「個別案件の適法性や妥当性を後から確認するには、必要な範囲で残すべきです」
折原は答えた。
「ただし、誰でも見られる引継書へ書くのではなく、閲覧範囲を設定した正式な案件記録として管理します」
「もう一つは?」
「一般化した判断基準です」
折原は続けた。
「例えば、特殊設備の保守では、既設機器との互換性が必要な場合がある。施設の継続運用上、過去の施工履歴を把握する事業者でなければ対応が難しい場合がある。ただし、本当にほかの事業者では履行できないか、事前に確認する必要がある」
「案件名や個社名を外して、考え方を残す」
「はい」
「次の担当者は、その基準を見て、個別案件の稟議書を確認できる」
「そういう形です」
西田は、段ボール箱の中を見た。
「今から間に合いますか。退職まで、もうあまり日がありません」
「長い報告書でなくても構いません」
折原は答えた。
「まず、重要な案件を数件選びましょう。個別の判断記録と、共通する判断基準を分けて整理します」
「何日くらいかかりますか」
「必要な資料が揃っていれば、A4で数枚にまとめられます。一緒に確認します」
西田が折原を見た。
「行政管理課が、そこまで手伝ってくれるんですか」
「残すべき記録を、残せる形にするのも仕事です」
西田は立ち上がった。
USBメモリを手に取り、今度は自分の鞄へ入れず、折原に示した。
「これは使いません。明日、行政管理課へ伺います」
翌日、西田が行政管理課を訪れた。
机の上には、随意契約の稟議書、仕様書、打合せ記録が並べられた。
折原と西田は、まず個別案件の記録を確認した。
特殊な空調制御設備の保守。
既設機器と一体で作動する監視システムの更新。
緊急時に継続稼働が必要な設備の修繕。
それぞれについて、西田が当時確認した内容を整理した。
なぜ競争性を確保することが困難だったのか。
ほかの事業者による履行可能性を、どのように確認したのか。
既存事業者を選ぶことが、単なる慣例ではなく、技術上または運用上必要だった理由。
折原は、西田の説明を聞きながら尋ねた。
「この設備は、既存事業者以外には対応できなかったんですか」
「当時はそう判断しました」
「確認した記録はありますか」
「二社へ問い合わせたメモがあります。一社は、既設システムの仕様が開示されなければ対応できないと回答しました。もう一社は、部品供給を受けられないと」
「そのメモも、案件記録へ紐づけましょう」
「わかりました」
次に、複数案件に共通する判断基準を整理した。
技術的に特殊な設備であることだけを理由に、随意契約としない。
既設設備との互換性、継続稼働の必要性、権利関係、部品供給、ほかの事業者の履行可能性を確認する。
過去の施工経緯を知っているという理由だけでは足りない。
ほかの事業者が必要な情報を得れば履行できるのかを検討する。
緊急性を理由とする場合は、緊急事態が発生した原因と、競争手続を行う時間がない理由を分けて記録する。
同じ事業者との随意契約を継続する場合は、毎年度、判断根拠が現在も成立しているかを確認する。
二時間ほどで、草稿はA4三枚になった。
折原は、最後に項目を一つ加えた。
「関連文書の所在も書いておきましょう」
「稟議書の場所ですか」
「はい。どの年度の、どの案件記録を参照すれば、具体的な判断事例を確認できるのか」
「保存期間内のものは、文書管理システムにあります」
「文書番号を記載しましょう」
折原は続けた。
「保存期間満了後も、監査、訴訟、後続契約などのために必要性が続く場合は、所管課で保存期間の延長を検討する。その手続も記載しておきます」
一時間後、草稿が完成した。
表題は、
「特殊設備等に係る随意契約の判断記録及び引継事項」
とした。
「これでよいでしょうか」
西田が尋ねた。
「個別案件の記録と、一般的な判断基準が分かれています。次の担当者が、基準だけを読んで安易に随意契約を繰り返すことも防げると思います」
「個人のUSBに入れようとしていたメモより、ましですか」
「比較になりません」
折原は答えた。
「組織の記録として登録されれば、西田さんが退職しても残ります。必要な人が所在を確認できます。誰かがUSBの存在を知っているかどうかに左右されません」
西田は、草稿をしばらく見ていた。
「正式な引継資料として登録できますか」
「できます。個別案件の記録は、各契約文書へ追加します。一般化した引継事項は、契約担当の業務資料として登録します」
西田は小さく息を吐いた。
「USBを使わなくてよかった」
「はい」
折原は言った。
「残すなら、正式な場所に、意味がわかる形で残す方が長く使えます」
牧原が行政管理課へ戻ってきたのは、西田が帰った後だった。
手帳には、いくつものメモが書き込まれている。
「積算単価の件ですが、宮野さんと話してきました」
「どのような話になりましたか」
「七年以上前の元データを参照し続ける必要があるなら、保存期間の延長を正式に検討する。それか、必要な項目を抽出して、新しい分析資料として再構成する」
「私がお話しした内容と同じですね」
「はい」
牧原は答えた。
「裏で残し続けるのはよくない、という点も同じでした」
「ほかには?」
「過去のデータを参照してきた理由を、文書に残すよう言われました」
牧原は手帳を開いた。
「七年分を並べると、どんな傾向がわかるのか。どの資材は短期変動が大きいのか。どの単価は地域差の影響を受けやすいのか。そういう経験知を、分析資料として残してはどうかと」
「元データそのものではなく、元データから得られた知見を残す」
「そうです」
牧原は続けた。
「ただ、元データを全部捨ててしまうと、後から分析結果を検証できません」
「その通りです」
折原は答えた。
「分析資料には、使用した元データの年度、文書名、出典を記録してください。必要な元データについては、保存期間の延長が妥当かを検討しましょう」
「全部を残すわけではない?」
「分析の再現や、後続業務に必要な範囲です」
折原は言った。
「傾向だけ残して根拠となる数値をすべて消せば、次の担当者は分析が妥当か確認できません。一方、古い契約文書一式を無期限に残す必要もありません」
「出典を特定して、必要なデータを選ぶ」
「はい」
「やってみます」
牧原は頷いた。
「積算単価の経年変化に関する分析資料を作ります。数値の傾向と、積算時の注意点。それに、分析に使用したデータの所在を付けます」
「良いと思います」
その日の夕方。
財政課の響矢律が、折原の机の前へ来た。
「積算データの件を聞きました」
「牧原さんからですか」
「財政課にも相談に来ました」
響矢は、返事を待たずに続けた。
「判断理由が残っていない資料は、次の担当者には使えません」
「理由がなければ、データが使えるか判断できないからですか」
「そうです」
響矢は答えた。
「七年前に作った数字があっても、当時の前提条件がわからなければ、現在の積算へそのまま使うことはできません」
「単価の出典、対象地域、税の扱い、工事条件などが必要になる」
「はい」
「牧原さんが作る傾向分析は、正しい方向ですか」
「前提と出典を残すなら」
響矢は言った。
「数字だけを抜き出して並べれば、また同じ問題になります」
「判断に使える条件まで残す」
「そうしてください」
「ほかの資料も?」
「同じです」
響矢はそれだけ言うと、エレベーターホールへ歩いていった。
折原は、響矢の言葉を手帳へ書いた。
「数字だけでは、次の担当者は使えない。適用条件と作成理由を残すこと」
一週間後。
牧原が積算単価の傾向分析資料を完成させた。
過去七年間の単価推移。
上昇傾向が続いている資材。
年度ごとの変動が大きい品目。
地域条件の影響を受けやすい工種。
市の実績単価と公表単価に差が生じやすい項目。
それぞれについて、数値の傾向と、積算時の注意点が書かれている。
資料はA4五枚になった。
最後には、使用した元データの一覧が付いていた。
年度。
文書名。
データの出典。
対象工事。
保存場所。
保存期間延長の有無。
折原は資料を読み、一か所だけ指摘した。
「作成の経緯を、冒頭に書いてください」
「作成の経緯?」
「なぜこの資料が必要になったのかです」
「どのように書けばいいでしょう」
折原は考えた。
「『システム更新により、保存期間満了後も実務上参照されていた積算データの取扱いが課題となったため、長期的な単価変動の分析に必要な情報と積算上の注意事項を再構成した』でどうですか」
牧原は、その文章を入力した。
「これが、判断記録ですか」
「一部です」
折原は答えた。
「作成理由、使用した資料、前提条件、そこから導いた知見。これらが揃っていれば、次の担当者は、この資料をどの範囲で使えるか判断できます」
「残す価値があるなら、正式に登録する」
「はい」
「共有フォルダの裏側に残すのではなく」
「正式な文書として、所在と目的がわかる形で残します」
牧原は、完成した資料を文書管理システムへ登録した。
同時に、分析の再現に必要な元データについて、保存期間延長の申請を行った。
すべての古いファイルを残したわけではない。
必要な元データと、そこから得た知見を選び、理由を付けて残した。
その翌週。
折原は、別件で提出された地域施設説明会の議事録を確認していた。
議事録の終盤に、気になる発言があった。
大浜公民館の周辺に住む男性の発言だった。
「施設を残すかどうかは、私にはわかりません」
男性は、そう前置きしていた。
「でも私たちは十年間、この建物を見てきました。雨漏りする場所も、壁のどこにひびがあるかも、どの窓が開きにくいかも知っています」
続けて、こう尋ねていた。
「その記録は、行政側に残っていますか」
担当者は、
「点検記録は保存しています」
と答えていた。
折原は、その箇所で手を止めた。
点検記録と、住民が十年間かけて見てきた記憶は、同じものではない。
行政の記録には、点検日、劣化箇所、判定、修繕履歴が残る。
住民の側には、
雨の日だけ現れる染み。
冬になると閉まりにくくなる窓。
以前より大きくなった音。
修繕した後も繰り返す不具合。
日々使っている人間だからこそ気づく変化が残っている。
それは、公的な点検結果とは異なる。
だが、施設の状態を判断する時に、役に立たない情報とも言えない。
西田は、退職とともに消えかけていた随意契約の判断理由を、文書へ変えた。
牧原は、共有フォルダの奥に残っていた積算データを、出典のある分析資料へ変えた。
市民が施設を見続けてきた記憶も、何らかの形にしなければ消えていく。
ただし、個人の記憶をそのまま行政上の事実とすることはできない。
記憶違いもある。
評価の違いもある。
だからこそ、記録にする時には、
誰が。
いつ。
何を見たのか。
写真やほかの記録で確認できるか。
行政の点検結果と一致するか。
そこまで整理する必要がある。
折原は、議事録の余白にメモを残した。
「住民が蓄積してきた施設履歴を、日常点検記録へ接続できないか」
書いてから、しばらく考えた。
残すべき価値があるものを、個人の手元や記憶の中に置いたままにしない。
組織で使うなら、組織の記録へ変える。
市民の記憶を受け取るなら、いつ、誰が、何を見たのかを確認できる形へ変える。
正式な記録にすることは、記憶を無条件に事実と認定することではない。
次の担当者が検証し、判断できる状態にすることだ。
形にしなければ、消える。
形だけ残しても、理由がなければ使えない。
折原は、議事録を閉じた。
文書の保存期間が終わっても、そこから得られた知識の価値まで終わるとは限らない。
人が退職しても、その人が積み重ねた判断まで消す必要はない。
市民の記憶も、行政の外にあるというだけで、切り捨ててよいものではない。
必要なのは、ただ残すことではない。
次の誰かが確かめ、使える形へ変えて残すことだった。
── 了 ──
この話のFM豆知識
(豆知識は準備中)
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら
一般財団法人 建築保全センター