十年前の失敗
管財課の古い棚を整理することになったのは、保存年限を過ぎた文書を洗い出す庁内一斉点検がきっかけだった。
片桐望は、管財課へ配属されて二年目の主事だ。
施設台帳の更新と、各施設から届く修繕依頼の処理が主な仕事だった。
古い書庫の整理を担当するのは、今回が初めてだった。
棚は、六階の管財課の奥にある。
窓のない一角に、スチール棚が四列並んでいる。
古いバインダーや段ボール箱が隙間なく積まれ、背表紙には分類用のラベルが貼られていた。
ただ、文字が薄れて読めないものも多い。
片桐は、一番奥の棚から順番に確認を始めた。
保存期間が満了した文書を抜き出し、廃棄予定文書の一覧へ記入する。
残すか、廃棄するか。
保存年限と文書名を照合するだけの作業だった。
三列目の中段で、片桐の手が止まった。
黒いバインダーが一冊、ほかの文書の間に挟まっていた。
背表紙には、何も書かれていない。
分類ラベルもない。
ただ、表紙も背表紙も黒かった。
片桐はバインダーを引き出した。
表紙を開く。
最初のページに、几帳面な字で題名が書かれていた。
「失敗記録」
その下に、
「管財課施設管理担当」
とある。
記録が始まった日付は、十年前だった。
片桐は、次のページを開いた。
最初の項目は、
「住民説明会の炎上」
だった。
北部地区の公民館廃止を検討した際に開かれた、住民説明会の記録だった。
説明会で使用した資料。
住民から出た質問。
回答できなかった項目。
説明の順番。
会場の反応。
終了後に担当者が気づいた問題点。
それらが、短い文章と箇条書きで整理されている。
最後には、
「次回以降の改善策」
として五項目が書かれていた。
廃止の結論から説明を始めないこと。
施設が果たしてきた役割を事前に確認すること。
代替策を準備してから説明すること。
質問が予想される数値について、根拠資料を用意すること。
住民の発言を遮らず、最後まで聞くこと。
片桐は、次の項目を開いた。
「予算要求の失敗」
施設修繕費の予算要求が、財政課の査定で大幅に削減された案件だった。
要求額。
査定結果。
財政課から受けた指摘。
提出資料の不足。
事前協議を行わなかったこと。
根拠として使った単価が古かったこと。
失敗した原因が、担当者自身の言葉で記録されている。
最後には、
「次回は要求前に財政課と論点を共有する」
と書かれていた。
その次は、
「議員対応のミス」
だった。
地域の議員から施設修繕について問い合わせを受けた際、事実確認を終えないまま回答し、後日訂正することになった経緯が記されていた。
何を聞かれたか。
どう答えたか。
どこが誤っていたか。
訂正のために誰へ説明したか。
再発防止として、
「確認できていない内容は、確認後に回答すると明言する」
と書かれている。
次の項目は、
「資料誤送付」
だった。
内部検討用の資料を、誤った宛先へ送付した案件。
発覚までの経緯。
送付先への連絡。
上司への報告。
回収の可否。
個人情報の有無。
その後に導入した確認手順。
送信前に宛先と添付ファイルを別々に確認すること。
外部宛てのメールは、一度下書き保存してから再確認すること。
片桐は、ページをめくり続けた。
住民説明会。
予算要求。
議会答弁。
契約手続。
施設点検。
修繕の優先順位。
関係課との調整。
全部で二十項目ほどあった。
どの記録にも、失敗した事実だけではなく、
なぜ失敗したのか。
何を見落としたのか。
その後、どのように対応したのか。
次に同じ状況が起きた時、何をすべきか。
そこまで書かれていた。
成功事例は一つもなかった。
すべて、失敗の記録だった。
片桐は、バインダーを閉じた。
手元の廃棄予定文書一覧には、文書名と保存年限を書く欄がある。
文書名の欄に、「失敗記録」と書いてみた。
保存年限の欄で、手が止まった。
片桐は机へ戻り、文書分類表を開いた。
施設台帳。
修繕関係綴。
工事関係書類。
照会・回答。
復命書。
どれにも当てはまらなかった。
保存期間表も確認した。
一年、三年、五年、十年、永年。
区分ごとに、対象となる文書の例が並んでいる。
その中に、この記録に相当するものは見当たらなかった。
決裁印は押されている。
だが、決裁の対象とした事務が何なのかは書かれていない。
分類表と保存期間表だけでは、この記録をどの区分で管理し、どれだけ保存すべきか判断できなかった。
廃棄と書けば、廃棄になる。
保存と書けば、保存になる。
どちらを書くにしても、根拠がなかった。
片桐は廃棄予定文書一覧の該当欄を空けたまま、バインダーを持って立ち上がった。
文書分類は、行政管理課の所管だった。
片桐は黒いバインダーを持ち、隣の行政管理課へ向かった。
折原悠斗は、自席で文書保存期間の一覧を確認していた。
「折原さん、少しいいですか」
「どうしました」
「書庫を整理していたら、こんなものが出てきました」
片桐は、黒いバインダーを差し出した。
折原は受け取り、表紙を開いた。
「失敗記録」
その文字を見た後、ゆっくりとページをめくった。
最初の記録の日付で、手が止まった。
個別施設計画をめぐる庁内の議論が、動き始めた頃だった。
折原は、しばらく黙って読んでいた。
片桐は、向かいの席で待った。
数ページ読んだところで、折原が言った。
「これ、たぶん前に見たことがあります」
「見たことがある?」
「地下書庫で、長谷課長本人から見せてもらいました」
折原は、ページをめくる手を止めた。
「去年です。評価係数の資料を探していたときに」
片桐は、黒い表紙を見た。
「同じものですか」
「いえ」
折原は答えた。
「あちらには『施設管理業務記録』という背表紙が付いていました。何冊も並んでいて、そのうち一冊の背の下に、小さく書いてあったんです」
折原は、片桐の持つバインダーを示した。
「これは、表紙にも背表紙にも何も書いていません。置かれていた場所も違います。地下書庫ではなく、管財課の棚にありました」
「別の一冊ということですか」
「そう思います」
片桐は、あらためてバインダーを見た。
一冊ではなかった。
長谷は、少なくとも二冊の記録を書き続けていたことになる。
折原は、あるページを開いた。
「それと、ここを見てください」
片桐が覗き込む。
記録の末尾に、薄い決裁印が残っていた。
朱肉は褪せていたが、
「長谷」
と読める。
「当時は、まだ課長ではなかったはずです」
折原が言った。
「主査か、係長だった頃だと思います」
片桐は、改めて黒いバインダーを見た。
長谷巡。
現在の管財課長だ。
廊下ですれ違うことはある。
課内の打合せで発言を聞くこともある。
施設管理の分野では、庁内で一目置かれている人物だった。
だが、片桐が個別に話したことはほとんどない。
「長谷課長に確認しますか」
「聞いてみた方がいいと思います」
折原は答えた。
ページを戻そうとして、手を止めた。
「ただ、その前に」
「何ですか」
「ほかのページも見てください」
折原は、
「住民説明会の炎上」
と書かれた項目を開いた。
末尾には、長谷の印とは別に、もう一つ印が押されていた。
朱肉が薄れ、文字が読み取りにくい。
片桐は顔を近づけた。
最初の文字は、
「宮」
に見えた。
その次は、
「野」
だろうか。
「宮野……?」
「当時、管財課の文教施設担当にいた職員の印かもしれません」
折原は言った。
「教育総務課の宮野課長補佐ですか」
「おそらく。ただ、今の段階では断定できません」
折原は、それ以上説明しなかった。
片桐も聞かなかった。
同じ失敗記録に、なぜ別の担当者の印があるのか。
長谷が一人で書いたものではないのか。
確認すべきことが、もう一つ増えた。
管財課へ戻ると、片桐は自席から長谷へ声をかけた。
「課長、少しいいですか」
長谷が書類から顔を上げた。
「何だ」
「書庫整理で、これが出てきました」
片桐は、黒いバインダーを差し出した。
長谷は受け取った。
表紙を開く。
「失敗記録」
その文字を見た瞬間、長谷の表情がわずかに変わった。
驚いたようにも見えた。
懐かしんでいるようにも見えた。
少しだけ、気まずそうにも見えた。
長谷は数ページをめくった。
「まだあったか」
小さく言った。
「廃棄予定の棚に入っていました」
片桐は尋ねた。
「捨ててもいい文書ですか」
長谷は、しばらくバインダーを見ていた。
それから閉じ、片桐へ返した。
「捨てなくていい」
それだけ言うと、長谷は机の書類へ目を戻した。
片桐は、黒いバインダーを抱えたまま立っていた。
残す理由は、まだ聞いていなかった。
翌日、片桐は改めて長谷の席を訪ねた。
今度は、折原も一緒だった。
二人を見た長谷が、わずかに眉を上げた。
「折原まで来たか」
「片桐さんから相談を受けました」
折原は、黒いバインダーを机の上へ置いた。
「この記録について、少しお聞きしてもいいですか」
長谷は腕を組んだ。
「何を聞きたい」
片桐が口を開いた。
「この失敗を、今でも残しているんですか。十年前のことですよね」
長谷は、しばらく答えなかった。
机の上のバインダーへ目を落とし、それから言った。
「残しているんじゃない」
「では?」
「使っているんだ」
片桐には、すぐに意味がわからなかった。
「使う、というのは」
「新しい案件が来た時に読む」
長谷は答えた。
「住民説明会の準備を始める前に、以前どこで失敗したかを確認する。予算要求を出す前に、財政課から何を指摘されたかを読み返す。議員へ説明する前には、確認不足で訂正に行った時の記録を見る」
長谷はバインダーを開き、何枚かページをめくった。
「そういう使い方だ」
「十年前の記録が、今でも役に立つんですか」
「役に立つ」
長谷は即答した。
「住民が怒る理由は、十年前も今も大きくは変わらない。財政課が予算を削る理由も変わらない。議員が何を気にするかも同じだ」
「制度や状況は変わっています」
「細かな条件は変わる」
長谷は言った。
「だが、失敗する構造は似ている。説明する相手を見ていない。根拠が足りない。関係者との調整を飛ばす。確認しないまま答える。大抵は、そのどれかだ」
片桐は、黒いバインダーを見た。
二十項目ほどの失敗記録。
すべて、長谷が若い頃に経験したことだった。
「恥ずかしくないんですか」
片桐が尋ねると、長谷はすぐに答えた。
「恥ずかしいよ」
迷いのない返事だった。
「住民説明会で何も答えられず、終わった後まで責められたこともある。予算要求を財政課にほとんど削られたこともある。議員へ間違った説明をして、翌日に訂正へ行ったこともある」
長谷は苦笑した。
「今でも読むと、顔が熱くなる」
「では、なぜ残したんですか」
「恥ずかしいから残した」
片桐は、聞き返せなかった。
長谷が続けた。
「成功した話は、残そうとしなくても誰かが話す。うまくいった事業は、会議でも紹介される。飲み会でも話の種になる」
長谷は、バインダーを指先で軽く叩いた。
「だが、失敗は放っておけば消える」
「消したいから?」
「そうだ。本人も、周囲も、なかったことにしたがる」
長谷は言った。
「そして次の担当者が、同じ穴に落ちる。それが嫌だった」
片桐は、少し考えてから言った。
「課長。これを全庁の職員が読めるようにしたら、どうなりますか」
「どうなる、とは」
「次からは、誰も正直に書かなくなるんじゃないでしょうか」
片桐は続けた。
「誰にでも読まれると分かっていて、自分の失敗を、そのまま書ける人はいないと思います」
長谷は、片桐を見た。
それから、バインダーへ目を戻した。
「そうだな」
短い返事だった。
「これは、告白じゃない」
長谷は言った。
「読ませるために書いたなら、もっと言い訳が入っている」
片桐は、黙って聞いていた。
「次に使うために書いた。だから、正直に書けた」
長谷は、バインダーを閉じた。
「順番を逆にすると、たぶん、どっちも駄目になる」
「読ませることを先にすると、使える記録にならないということですか」
「そうだ」
長谷は言った。
「見せる前提で書いた反省は、だいたい上手にできている。上手にできている反省は、次に読んでも何も出てこない」
片桐は、手帳を開いたまま動かせなかった。
「だから、これを全庁に配れとは言わない」
長谷は続けた。
「必要な人間が、必要なときに開ける。それでいい」
折原が、バインダーを開いた。
「この中に、長谷課長以外の印が押されている記録があります」
長谷の眉が、わずかに動いた。
「どれだ」
「住民説明会の件です」
長谷はバインダーを受け取り、該当するページを開いた。
薄く残った二つの印を見て、しばらく黙っていた。
「ああ」
長谷が言った。
「この説明会は、当時の文教施設担当と一緒に準備した」
「宮野補佐ですか」
折原が尋ねた。
「そうだ」
長谷は答えた。
「俺が全体の段取りと資料を担当して、宮野が施設の状況を説明する役だった」
「二人で準備しても、炎上したんですか」
片桐が尋ねた。
「準備したつもりになっていた」
長谷は答えた。
「俺は廃止の必要性を示す数字を並べた。維持費、利用者数、劣化状況。資料としては間違っていなかった」
「では、何が問題だったんですか」
「住民が何を聞きたいかを考えていなかった」
長谷は言った。
「公民館がなくなった後、どこへ行けばいいのか。今までの活動はどうなるのか。なぜ自分たちの地区が先なのか。そういう質問への答えを、何も用意していなかった」
「数字しか説明しなかった?」
「そうだ」
長谷はページに目を落とした。
「住民から質問されて、何も答えられなくなった」
「宮野さんは?」
「俺より一枚上手だった」
長谷は、少し笑った。
「住民の話を最後まで聞いて、その場を何とか収めた。説明会が終わった後、俺に一言だけ言った」
「何と言ったんですか」
長谷は片桐を見た。
「それ、誰に説明するんですか」
片桐が繰り返した。
「それ、誰に説明するんですか?」
「俺は資料を作ることしか考えていなかった」
長谷は言った。
「上司に見せる資料としては整っていた。だが、住民に何を理解してもらうための資料なのかを、自分でも説明できなかった」
「資料を作った理由を説明できなかった」
「そういうことだ」
長谷は、バインダーを閉じた。
「あの一言を言われてから、資料を作る前に考えるようになった」
「何をですか」
「誰が読むのか。何を伝えるのか。読んだ相手に、どう判断してもらいたいのか」
長谷は答えた。
「その三つを説明できなければ、資料を作り始めない」
片桐は、長谷の話を手帳へ書き留めていた。
長谷が、その手元に気づいた。
「何を書いている」
「今のお話です。覚えておきたいと思って」
「それを、引継書に書くのか」
「書こうと思います」
片桐は、書いた内容を見ながら答えた。
「住民説明会の前には、想定される質問を整理する」
「それから?」
「資料を作る前に、誰へ、何を説明する資料なのかを明確にする」
少し考え、続けた。
「説明する相手が、その資料を見て何を疑問に思うかも確認する」
長谷は黙って聞いていた。
「それでいい」
やがて、そう言った。
「俺が住民説明会で失敗した、とだけ書いても、次の担当者には役に立たない」
「個人の失敗ではなく、次に使える判断基準として残す」
「そうだ」
長谷は頷いた。
「それが正しい引継ぎだ」
折原が、黒いバインダーへ目を向けた。
「この資料の所在を、文書管理システムに登録してもいいですか」
長谷が折原を見た。
「どういう扱いにする」
「現在は、棚の奥に置かれています。次の担当者が見つけられるかどうかは、偶然に左右されます」
折原は言った。
「所在、概要、閲覧時の注意事項を登録し、管財課の引継資料一覧から参照できるようにします」
「行政文書として公開するのか」
「そのまま全庁へ公開するのは難しいと思います」
折原は答えた。
「個人名や、住民・議員との具体的なやり取り、誤送付などの事故情報が含まれています。閲覧範囲は管財課の担当者と管理職に限定し、原本の取扱いは所管課で判断する形が適切です」
「内容を要約するのか」
「一般化できる改善策は、通常の引継書へ転記します」
折原は続けた。
「原本は、失敗が起きた状況や、当時の率直な反省を確認するための業務参考資料として残します」
長谷は、しばらく考えた。
「ああ。それならいい」
「登録してよいということですか」
「いい」
長谷は言った。
「ただし、原本の文章は変えないでくれ」
「わかりました」
「格好よく書き直したら、意味がなくなる」
長谷はバインダーを閉じた。
「当時の俺が、何を間違えたか。そのまま残っているから使えるんだ」
長谷は椅子へ座り直した。
「十年後も使えるなら、恥をかいた価値はあったということだ」
そう言うと、自席の書類へ目を戻した。
打ち合わせスペースへ移ってから、片桐は登録用の一覧を作り始めた。
項目名の欄に、バインダーの見出しをそのまま書き写していく。
住民説明会の炎上。
予算要求の失敗。
議員対応のミス。
資料誤送付。
三つ目まで書いたところで、折原が手を止めさせた。
「片桐さん。次の担当者は、その言葉で探せますか」
「といいますと」
「三年後の職員が、住民説明会の準備を始めたとします」
折原は言った。
「その人は、『炎上』で検索しますか」
片桐は、自分の書いた文字を見た。
書かない、と思った。
「探すとしたら、『住民説明』ですね」
「はい」
「これ、書いた人の気持ちで名前が付いてるんだ」
片桐は言った。
「読む人が、何の用事で探すかに合わせて付け直します」
二人は、分類名を並べ直した。
住民説明。
予算要求。
議会対応。
暫定措置。
点検・修繕。
契約・発注。
その上で、各項目に三つの欄を設けた。
いつ読むか。
何を確認するか。
関連する文書はどこにあるか。
「見出しは変えますが」
片桐が確認した。
「中身は変えません。課長に言われたとおりです」
その日の夕方。
片桐と折原は、行政管理課の文書管理システムへ、黒いバインダーの情報を登録した。
件名。
「管財課施設管理担当 失敗記録」
区分。
「業務参考資料・閲覧制限あり」
作成時期。
十年前から数年間。
保管場所。
管財課書庫、三列目中段。
概要。
「施設管理業務における過去の失敗事例、対応経緯、原因分析および再発防止策を記録した資料」
利用目的。
「住民説明、予算要求、議会対応、施設点検等の事前準備および担当者引継ぎの参考とする」
注意事項。
「個人名、関係者との具体的なやり取り、事故・誤送付等に関する情報を含むため、閲覧は所管課職員に限る。一般化可能な改善事項は、別途引継書へ反映する」
「これで、次の担当者が見つけられますね」
片桐が言った。
「棚の奥にあったものが、引継資料の一覧に載ったということです」
折原は答えた。
「ただ、登録しただけでは使われません」
「引継ぎの時に説明する必要がある?」
「はい」
折原は言った。
「何のための資料かを伝えないと、また棚の中で眠ります」
片桐は、その言葉も手帳へ書いた。
翌朝。
片桐は、いつもより早く出庁した。
管財課の照明をつけ、黒いバインダーを机へ置いた。
最初のページから読み直す。
住民説明会の炎上。
予算要求の失敗。
議員対応のミス。
資料誤送付。
老朽施設の点検漏れ。
修繕業者との仕様確認不足。
地域への周知が遅れた案件。
補助金申請での手続誤り。
どの記録も具体的だった。
いつ起きたか。
何が起きたか。
誰へ説明したか。
何を見落としたか。
どう対応したか。
次に同じことを起こさないために、何を変えたか。
長谷は、この記録を十年間使ってきた。
一度書いて終わりにしたのではない。
新しい案件が来るたびに読み返し、自分の判断を点検してきた。
このバインダーが長谷を有能な職員にした、とまでは言えない。
だが、今の長谷の判断の一部が、ここに記録された失敗から作られていることは確かだった。
片桐は、
「住民説明会の炎上」
のページを開いた。
二つの印のそばに、細い字で短い言葉が書かれている。
「それ、誰に説明するんですか」
誰が書いたのかは確認しなくてもわかった。
その一言が、バインダー全体の表題のように見えた。
資料を作る前に、誰へ何を伝えるのかを考える。
説明する前に、相手が何を知りたいのかを考える。
判断する前に、その判断を誰に、どのような言葉で説明するのかを考える。
それができていれば、この二十件の失敗のうち、いくつかは防げたのかもしれない。
だが、失敗したからこそ、その基準が生まれた。
片桐は、自分の手帳を開いた。
管財課の引継書に追加する項目を書き始めた。
「住民説明資料を作成する場合は、作成前に次の事項を整理する」
「説明する相手」
「伝えるべき内容」
「想定される質問」
「判断の根拠」
「代替策または今後の対応」
書き終えると、黒いバインダーを閉じた。
失敗は、記録しなければ消えていく。
恥ずかしい経験ほど、本人と一緒に隠れやすい。
だが、失敗した人間の名前だけを残しても、組織の役には立たない。
何を見落とし、何を変えたのか。
次の担当者は、何を確認すべきなのか。
そこまで残して初めて、個人の失敗は組織の知識になる。
片桐は黒いバインダーを、元の棚には戻さなかった。
管財課の引継資料をまとめた棚へ移した。
棚の背表紙には、新しいラベルを貼った。
「失敗記録――業務開始前に参照」
原本は、引継資料をまとめたその棚に置いた。
分類と索引、および一般化した確認事項を、管財課の共有フォルダへ移した。
フォルダ名は、一覧の先頭に来るようにした。
「00_失敗記録(管財課内参考)」
原本を閲覧できるのは、所管課の職員に限る。
原本を取り出す前に、共有フォルダの閲覧記録へ、閲覧者の氏名と目的を入力する。
誰が読んだかを残すと同時に、何のために読んだかも残るようにした。
片桐は、入力欄の見本を一行だけ埋めておいた。
閲覧者、片桐望。
目的、引継資料を整理するため。
次に誰かがこの欄を開いたとき、何を書けばいいか迷わないように。
もう、偶然見つけられるのを待つ資料ではなかった。
この話のFM豆知識
FMの教訓:失敗したときの条件と原因を残し、同じ仕事を始める前に読み返す。
◆ 失敗の経緯から、次に確認することを決める
失敗した事業は、何を予定し、実際に何が起き、どこを見落としたかを調べます。判明した事実と、まだ推測にとどまる原因を分けて書きます。その記録を基に、次の事業で確認する項目や手順を直します。報告した人を責めるだけでは、必要な情報が出にくくなります。
◆ 当時を知る職員だけに頼らない
失敗の理由を知る職員が異動や退職をすると、次の担当者は同じ問題を見落とすおそれがあります。当時の資料、関係者に確認した内容、対応の結果をまとめ、似た案件を始める担当者が探せる場所に登録します。
◆ 物語の場面
十年前の失敗を調べる中で、当時の担当者が覚えていることと、組織で共有されていることの違いが問題になります。当時を知る人に聞かなければ分からないままでは、同じ仕事をする後任が、同じ失敗を繰り返すおそれがあります。
■ 担当者が行うこと
当時の条件、判断、実際の結果、原因、直した内容を記録します。必要な調査や責任の確認を行いながら、報告者への非難だけで終わらせないようにします。再発を防ぐ作業の担当と期限を決め、次の案件でその対策が役立ったかを確認してください。
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら
一般財団法人 建築保全センター