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第2巻 第7話

十年前の失敗

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管財課の古い棚を整理することになったのは、保存年限を過ぎた文書を洗い出す庁内一斉点検がきっかけだった。

片桐望は、管財課へ配属されて二年目の主事だ。

施設台帳の更新と、各施設から届く修繕依頼の処理が主な仕事だった。

古い書庫の整理を担当するのは、今回が初めてだった。

棚は、六階の管財課の奥にある。

窓のない一角に、スチール棚が四列並んでいる。

古いバインダーや段ボール箱が隙間なく積まれ、背表紙には分類用のラベルが貼られていた。

ただ、文字が薄れて読めないものも多い。

片桐は、一番奥の棚から順番に確認を始めた。

保存期間が満了した文書を抜き出し、廃棄予定文書の一覧へ記入する。

残すか、廃棄するか。

保存年限と文書名を照合するだけの作業だった。

三列目の中段で、片桐の手が止まった。

黒いバインダーが一冊、ほかの文書の間に挟まっていた。

背表紙には、何も書かれていない。

分類ラベルもない。

ただ、表紙も背表紙も黒かった。

片桐はバインダーを引き出した。

表紙を開く。

最初のページに、几帳面な字で題名が書かれていた。

「失敗記録」

その下に、

「管財課施設管理担当」

とある。

記録が始まった日付は、十年前だった。

片桐は、次のページを開いた。

最初の項目は、

「住民説明会の炎上」

だった。

北部地区の公民館廃止を検討した際に開かれた、住民説明会の記録だった。

説明会で使用した資料。

住民から出た質問。

回答できなかった項目。

説明の順番。

会場の反応。

終了後に担当者が気づいた問題点。

それらが、短い文章と箇条書きで整理されている。

最後には、

「次回以降の改善策」

として五項目が書かれていた。

廃止の結論から説明を始めないこと。

施設が果たしてきた役割を事前に確認すること。

代替策を準備してから説明すること。

質問が予想される数値について、根拠資料を用意すること。

住民の発言を遮らず、最後まで聞くこと。

片桐は、次の項目を開いた。

「予算要求の失敗」

施設修繕費の予算要求が、財政課の査定で大幅に削減された案件だった。

要求額。

査定結果。

財政課から受けた指摘。

提出資料の不足。

事前協議を行わなかったこと。

根拠として使った単価が古かったこと。

失敗した原因が、担当者自身の言葉で記録されている。

最後には、

「次回は要求前に財政課と論点を共有する」

と書かれていた。

その次は、

「議員対応のミス」

だった。

地域の議員から施設修繕について問い合わせを受けた際、事実確認を終えないまま回答し、後日訂正することになった経緯が記されていた。

何を聞かれたか。

どう答えたか。

どこが誤っていたか。

訂正のために誰へ説明したか。

再発防止として、

「確認できていない内容は、確認後に回答すると明言する」

と書かれている。

次の項目は、

「資料誤送付」

だった。

内部検討用の資料を、誤った宛先へ送付した案件。

発覚までの経緯。

送付先への連絡。

上司への報告。

回収の可否。

個人情報の有無。

その後に導入した確認手順。

送信前に宛先と添付ファイルを別々に確認すること。

外部宛てのメールは、一度下書き保存してから再確認すること。

片桐は、ページをめくり続けた。

住民説明会。

予算要求。

議会答弁。

契約手続。

施設点検。

修繕の優先順位。

関係課との調整。

全部で二十項目ほどあった。

どの記録にも、失敗した事実だけではなく、

なぜ失敗したのか。

何を見落としたのか。

その後、どのように対応したのか。

次に同じ状況が起きた時、何をすべきか。

そこまで書かれていた。

成功事例は一つもなかった。

すべて、失敗の記録だった。

片桐は、バインダーを閉じた。

手元の廃棄予定文書一覧には、文書名と保存年限を書く欄がある。

文書名の欄に、「失敗記録」と書いてみた。

保存年限の欄で、手が止まった。

片桐は机へ戻り、文書分類表を開いた。

施設台帳。

修繕関係綴。

工事関係書類。

照会・回答。

復命書。

どれにも当てはまらなかった。

保存期間表も確認した。

一年、三年、五年、十年、永年。

区分ごとに、対象となる文書の例が並んでいる。

その中に、この記録に相当するものは見当たらなかった。

決裁印は押されている。

だが、決裁の対象とした事務が何なのかは書かれていない。

分類表と保存期間表だけでは、この記録をどの区分で管理し、どれだけ保存すべきか判断できなかった。

廃棄と書けば、廃棄になる。

保存と書けば、保存になる。

どちらを書くにしても、根拠がなかった。

片桐は廃棄予定文書一覧の該当欄を空けたまま、バインダーを持って立ち上がった。

文書分類は、行政管理課の所管だった。

片桐は黒いバインダーを持ち、隣の行政管理課へ向かった。

折原悠斗は、自席で文書保存期間の一覧を確認していた。

「折原さん、少しいいですか」

「どうしました」

「書庫を整理していたら、こんなものが出てきました」

片桐は、黒いバインダーを差し出した。

折原は受け取り、表紙を開いた。

「失敗記録」

その文字を見た後、ゆっくりとページをめくった。

最初の記録の日付で、手が止まった。

個別施設計画をめぐる庁内の議論が、動き始めた頃だった。

折原は、しばらく黙って読んでいた。

片桐は、向かいの席で待った。

数ページ読んだところで、折原が言った。

「これ、たぶん前に見たことがあります」

「見たことがある?」

「地下書庫で、長谷課長本人から見せてもらいました」

折原は、ページをめくる手を止めた。

「去年です。評価係数の資料を探していたときに」

片桐は、黒い表紙を見た。

「同じものですか」

「いえ」

折原は答えた。

「あちらには『施設管理業務記録』という背表紙が付いていました。何冊も並んでいて、そのうち一冊の背の下に、小さく書いてあったんです」

折原は、片桐の持つバインダーを示した。

「これは、表紙にも背表紙にも何も書いていません。置かれていた場所も違います。地下書庫ではなく、管財課の棚にありました」

「別の一冊ということですか」

「そう思います」

片桐は、あらためてバインダーを見た。

一冊ではなかった。

長谷は、少なくとも二冊の記録を書き続けていたことになる。

折原は、あるページを開いた。

「それと、ここを見てください」

片桐が覗き込む。

記録の末尾に、薄い決裁印が残っていた。

朱肉は褪せていたが、

「長谷」

と読める。

「当時は、まだ課長ではなかったはずです」

折原が言った。

「主査か、係長だった頃だと思います」

片桐は、改めて黒いバインダーを見た。

長谷巡。

現在の管財課長だ。

廊下ですれ違うことはある。

課内の打合せで発言を聞くこともある。

施設管理の分野では、庁内で一目置かれている人物だった。

だが、片桐が個別に話したことはほとんどない。

「長谷課長に確認しますか」

「聞いてみた方がいいと思います」

折原は答えた。

ページを戻そうとして、手を止めた。

「ただ、その前に」

「何ですか」

「ほかのページも見てください」

折原は、

「住民説明会の炎上」

と書かれた項目を開いた。

末尾には、長谷の印とは別に、もう一つ印が押されていた。

朱肉が薄れ、文字が読み取りにくい。

片桐は顔を近づけた。

最初の文字は、

「宮」

に見えた。

その次は、

「野」

だろうか。

「宮野……?」

「当時、管財課の文教施設担当にいた職員の印かもしれません」

折原は言った。

「教育総務課の宮野課長補佐ですか」

「おそらく。ただ、今の段階では断定できません」

折原は、それ以上説明しなかった。

片桐も聞かなかった。

同じ失敗記録に、なぜ別の担当者の印があるのか。

長谷が一人で書いたものではないのか。

確認すべきことが、もう一つ増えた。

管財課へ戻ると、片桐は自席から長谷へ声をかけた。

「課長、少しいいですか」

長谷が書類から顔を上げた。

「何だ」

「書庫整理で、これが出てきました」

片桐は、黒いバインダーを差し出した。

長谷は受け取った。

表紙を開く。

「失敗記録」

その文字を見た瞬間、長谷の表情がわずかに変わった。

驚いたようにも見えた。

懐かしんでいるようにも見えた。

少しだけ、気まずそうにも見えた。

長谷は数ページをめくった。

「まだあったか」

小さく言った。

「廃棄予定の棚に入っていました」

片桐は尋ねた。

「捨ててもいい文書ですか」

長谷は、しばらくバインダーを見ていた。

それから閉じ、片桐へ返した。

「捨てなくていい」

それだけ言うと、長谷は机の書類へ目を戻した。

片桐は、黒いバインダーを抱えたまま立っていた。

残す理由は、まだ聞いていなかった。

翌日、片桐は改めて長谷の席を訪ねた。

今度は、折原も一緒だった。

二人を見た長谷が、わずかに眉を上げた。

「折原まで来たか」

「片桐さんから相談を受けました」

折原は、黒いバインダーを机の上へ置いた。

「この記録について、少しお聞きしてもいいですか」

長谷は腕を組んだ。

「何を聞きたい」

片桐が口を開いた。

「この失敗を、今でも残しているんですか。十年前のことですよね」

長谷は、しばらく答えなかった。

机の上のバインダーへ目を落とし、それから言った。

「残しているんじゃない」

「では?」

「使っているんだ」

片桐には、すぐに意味がわからなかった。

「使う、というのは」

「新しい案件が来た時に読む」

長谷は答えた。

「住民説明会の準備を始める前に、以前どこで失敗したかを確認する。予算要求を出す前に、財政課から何を指摘されたかを読み返す。議員へ説明する前には、確認不足で訂正に行った時の記録を見る」

長谷はバインダーを開き、何枚かページをめくった。

「そういう使い方だ」

「十年前の記録が、今でも役に立つんですか」

「役に立つ」

長谷は即答した。

「住民が怒る理由は、十年前も今も大きくは変わらない。財政課が予算を削る理由も変わらない。議員が何を気にするかも同じだ」

「制度や状況は変わっています」

「細かな条件は変わる」

長谷は言った。

「だが、失敗する構造は似ている。説明する相手を見ていない。根拠が足りない。関係者との調整を飛ばす。確認しないまま答える。大抵は、そのどれかだ」

片桐は、黒いバインダーを見た。

二十項目ほどの失敗記録。

すべて、長谷が若い頃に経験したことだった。

「恥ずかしくないんですか」

片桐が尋ねると、長谷はすぐに答えた。

「恥ずかしいよ」

迷いのない返事だった。

「住民説明会で何も答えられず、終わった後まで責められたこともある。予算要求を財政課にほとんど削られたこともある。議員へ間違った説明をして、翌日に訂正へ行ったこともある」

長谷は苦笑した。

「今でも読むと、顔が熱くなる」

「では、なぜ残したんですか」

「恥ずかしいから残した」

片桐は、聞き返せなかった。

長谷が続けた。

「成功した話は、残そうとしなくても誰かが話す。うまくいった事業は、会議でも紹介される。飲み会でも話の種になる」

長谷は、バインダーを指先で軽く叩いた。

「だが、失敗は放っておけば消える」

「消したいから?」

「そうだ。本人も、周囲も、なかったことにしたがる」

長谷は言った。

「そして次の担当者が、同じ穴に落ちる。それが嫌だった」

片桐は、少し考えてから言った。

「課長。これを全庁の職員が読めるようにしたら、どうなりますか」

「どうなる、とは」

「次からは、誰も正直に書かなくなるんじゃないでしょうか」

片桐は続けた。

「誰にでも読まれると分かっていて、自分の失敗を、そのまま書ける人はいないと思います」

長谷は、片桐を見た。

それから、バインダーへ目を戻した。

「そうだな」

短い返事だった。

「これは、告白じゃない」

長谷は言った。

「読ませるために書いたなら、もっと言い訳が入っている」

片桐は、黙って聞いていた。

「次に使うために書いた。だから、正直に書けた」

長谷は、バインダーを閉じた。

「順番を逆にすると、たぶん、どっちも駄目になる」

「読ませることを先にすると、使える記録にならないということですか」

「そうだ」

長谷は言った。

「見せる前提で書いた反省は、だいたい上手にできている。上手にできている反省は、次に読んでも何も出てこない」

片桐は、手帳を開いたまま動かせなかった。

「だから、これを全庁に配れとは言わない」

長谷は続けた。

「必要な人間が、必要なときに開ける。それでいい」

折原が、バインダーを開いた。

「この中に、長谷課長以外の印が押されている記録があります」

長谷の眉が、わずかに動いた。

「どれだ」

「住民説明会の件です」

長谷はバインダーを受け取り、該当するページを開いた。

薄く残った二つの印を見て、しばらく黙っていた。

「ああ」

長谷が言った。

「この説明会は、当時の文教施設担当と一緒に準備した」

「宮野補佐ですか」

折原が尋ねた。

「そうだ」

長谷は答えた。

「俺が全体の段取りと資料を担当して、宮野が施設の状況を説明する役だった」

「二人で準備しても、炎上したんですか」

片桐が尋ねた。

「準備したつもりになっていた」

長谷は答えた。

「俺は廃止の必要性を示す数字を並べた。維持費、利用者数、劣化状況。資料としては間違っていなかった」

「では、何が問題だったんですか」

「住民が何を聞きたいかを考えていなかった」

長谷は言った。

「公民館がなくなった後、どこへ行けばいいのか。今までの活動はどうなるのか。なぜ自分たちの地区が先なのか。そういう質問への答えを、何も用意していなかった」

「数字しか説明しなかった?」

「そうだ」

長谷はページに目を落とした。

「住民から質問されて、何も答えられなくなった」

「宮野さんは?」

「俺より一枚上手だった」

長谷は、少し笑った。

「住民の話を最後まで聞いて、その場を何とか収めた。説明会が終わった後、俺に一言だけ言った」

「何と言ったんですか」

長谷は片桐を見た。

「それ、誰に説明するんですか」

片桐が繰り返した。

「それ、誰に説明するんですか?」

「俺は資料を作ることしか考えていなかった」

長谷は言った。

「上司に見せる資料としては整っていた。だが、住民に何を理解してもらうための資料なのかを、自分でも説明できなかった」

「資料を作った理由を説明できなかった」

「そういうことだ」

長谷は、バインダーを閉じた。

「あの一言を言われてから、資料を作る前に考えるようになった」

「何をですか」

「誰が読むのか。何を伝えるのか。読んだ相手に、どう判断してもらいたいのか」

長谷は答えた。

「その三つを説明できなければ、資料を作り始めない」

片桐は、長谷の話を手帳へ書き留めていた。

長谷が、その手元に気づいた。

「何を書いている」

「今のお話です。覚えておきたいと思って」

「それを、引継書に書くのか」

「書こうと思います」

片桐は、書いた内容を見ながら答えた。

「住民説明会の前には、想定される質問を整理する」

「それから?」

「資料を作る前に、誰へ、何を説明する資料なのかを明確にする」

少し考え、続けた。

「説明する相手が、その資料を見て何を疑問に思うかも確認する」

長谷は黙って聞いていた。

「それでいい」

やがて、そう言った。

「俺が住民説明会で失敗した、とだけ書いても、次の担当者には役に立たない」

「個人の失敗ではなく、次に使える判断基準として残す」

「そうだ」

長谷は頷いた。

「それが正しい引継ぎだ」

折原が、黒いバインダーへ目を向けた。

「この資料の所在を、文書管理システムに登録してもいいですか」

長谷が折原を見た。

「どういう扱いにする」

「現在は、棚の奥に置かれています。次の担当者が見つけられるかどうかは、偶然に左右されます」

折原は言った。

「所在、概要、閲覧時の注意事項を登録し、管財課の引継資料一覧から参照できるようにします」

「行政文書として公開するのか」

「そのまま全庁へ公開するのは難しいと思います」

折原は答えた。

「個人名や、住民・議員との具体的なやり取り、誤送付などの事故情報が含まれています。閲覧範囲は管財課の担当者と管理職に限定し、原本の取扱いは所管課で判断する形が適切です」

「内容を要約するのか」

「一般化できる改善策は、通常の引継書へ転記します」

折原は続けた。

「原本は、失敗が起きた状況や、当時の率直な反省を確認するための業務参考資料として残します」

長谷は、しばらく考えた。

「ああ。それならいい」

「登録してよいということですか」

「いい」

長谷は言った。

「ただし、原本の文章は変えないでくれ」

「わかりました」

「格好よく書き直したら、意味がなくなる」

長谷はバインダーを閉じた。

「当時の俺が、何を間違えたか。そのまま残っているから使えるんだ」

長谷は椅子へ座り直した。

「十年後も使えるなら、恥をかいた価値はあったということだ」

そう言うと、自席の書類へ目を戻した。

打ち合わせスペースへ移ってから、片桐は登録用の一覧を作り始めた。

項目名の欄に、バインダーの見出しをそのまま書き写していく。

住民説明会の炎上。

予算要求の失敗。

議員対応のミス。

資料誤送付。

三つ目まで書いたところで、折原が手を止めさせた。

「片桐さん。次の担当者は、その言葉で探せますか」

「といいますと」

「三年後の職員が、住民説明会の準備を始めたとします」

折原は言った。

「その人は、『炎上』で検索しますか」

片桐は、自分の書いた文字を見た。

書かない、と思った。

「探すとしたら、『住民説明』ですね」

「はい」

「これ、書いた人の気持ちで名前が付いてるんだ」

片桐は言った。

「読む人が、何の用事で探すかに合わせて付け直します」

二人は、分類名を並べ直した。

住民説明。

予算要求。

議会対応。

暫定措置。

点検・修繕。

契約・発注。

その上で、各項目に三つの欄を設けた。

いつ読むか。

何を確認するか。

関連する文書はどこにあるか。

「見出しは変えますが」

片桐が確認した。

「中身は変えません。課長に言われたとおりです」

その日の夕方。

片桐と折原は、行政管理課の文書管理システムへ、黒いバインダーの情報を登録した。

件名。

「管財課施設管理担当 失敗記録」

区分。

「業務参考資料・閲覧制限あり」

作成時期。

十年前から数年間。

保管場所。

管財課書庫、三列目中段。

概要。

「施設管理業務における過去の失敗事例、対応経緯、原因分析および再発防止策を記録した資料」

利用目的。

「住民説明、予算要求、議会対応、施設点検等の事前準備および担当者引継ぎの参考とする」

注意事項。

「個人名、関係者との具体的なやり取り、事故・誤送付等に関する情報を含むため、閲覧は所管課職員に限る。一般化可能な改善事項は、別途引継書へ反映する」

「これで、次の担当者が見つけられますね」

片桐が言った。

「棚の奥にあったものが、引継資料の一覧に載ったということです」

折原は答えた。

「ただ、登録しただけでは使われません」

「引継ぎの時に説明する必要がある?」

「はい」

折原は言った。

「何のための資料かを伝えないと、また棚の中で眠ります」

片桐は、その言葉も手帳へ書いた。

翌朝。

片桐は、いつもより早く出庁した。

管財課の照明をつけ、黒いバインダーを机へ置いた。

最初のページから読み直す。

住民説明会の炎上。

予算要求の失敗。

議員対応のミス。

資料誤送付。

老朽施設の点検漏れ。

修繕業者との仕様確認不足。

地域への周知が遅れた案件。

補助金申請での手続誤り。

どの記録も具体的だった。

いつ起きたか。

何が起きたか。

誰へ説明したか。

何を見落としたか。

どう対応したか。

次に同じことを起こさないために、何を変えたか。

長谷は、この記録を十年間使ってきた。

一度書いて終わりにしたのではない。

新しい案件が来るたびに読み返し、自分の判断を点検してきた。

このバインダーが長谷を有能な職員にした、とまでは言えない。

だが、今の長谷の判断の一部が、ここに記録された失敗から作られていることは確かだった。

片桐は、

「住民説明会の炎上」

のページを開いた。

二つの印のそばに、細い字で短い言葉が書かれている。

「それ、誰に説明するんですか」

誰が書いたのかは確認しなくてもわかった。

その一言が、バインダー全体の表題のように見えた。

資料を作る前に、誰へ何を伝えるのかを考える。

説明する前に、相手が何を知りたいのかを考える。

判断する前に、その判断を誰に、どのような言葉で説明するのかを考える。

それができていれば、この二十件の失敗のうち、いくつかは防げたのかもしれない。

だが、失敗したからこそ、その基準が生まれた。

片桐は、自分の手帳を開いた。

管財課の引継書に追加する項目を書き始めた。

「住民説明資料を作成する場合は、作成前に次の事項を整理する」

「説明する相手」

「伝えるべき内容」

「想定される質問」

「判断の根拠」

「代替策または今後の対応」

書き終えると、黒いバインダーを閉じた。

失敗は、記録しなければ消えていく。

恥ずかしい経験ほど、本人と一緒に隠れやすい。

だが、失敗した人間の名前だけを残しても、組織の役には立たない。

何を見落とし、何を変えたのか。

次の担当者は、何を確認すべきなのか。

そこまで残して初めて、個人の失敗は組織の知識になる。

片桐は黒いバインダーを、元の棚には戻さなかった。

管財課の引継資料をまとめた棚へ移した。

棚の背表紙には、新しいラベルを貼った。

「失敗記録――業務開始前に参照」

原本は、引継資料をまとめたその棚に置いた。

分類と索引、および一般化した確認事項を、管財課の共有フォルダへ移した。

フォルダ名は、一覧の先頭に来るようにした。

「00_失敗記録(管財課内参考)」

原本を閲覧できるのは、所管課の職員に限る。

原本を取り出す前に、共有フォルダの閲覧記録へ、閲覧者の氏名と目的を入力する。

誰が読んだかを残すと同時に、何のために読んだかも残るようにした。

片桐は、入力欄の見本を一行だけ埋めておいた。

閲覧者、片桐望。

目的、引継資料を整理するため。

次に誰かがこの欄を開いたとき、何を書けばいいか迷わないように。

もう、偶然見つけられるのを待つ資料ではなかった。

この話のFM豆知識

FMの教訓:失敗したときの条件と原因を残し、同じ仕事を始める前に読み返す。

◆ 失敗の経緯から、次に確認することを決める

失敗した事業は、何を予定し、実際に何が起き、どこを見落としたかを調べます。判明した事実と、まだ推測にとどまる原因を分けて書きます。その記録を基に、次の事業で確認する項目や手順を直します。報告した人を責めるだけでは、必要な情報が出にくくなります。

◆ 当時を知る職員だけに頼らない

失敗の理由を知る職員が異動や退職をすると、次の担当者は同じ問題を見落とすおそれがあります。当時の資料、関係者に確認した内容、対応の結果をまとめ、似た案件を始める担当者が探せる場所に登録します。

◆ 物語の場面

十年前の失敗を調べる中で、当時の担当者が覚えていることと、組織で共有されていることの違いが問題になります。当時を知る人に聞かなければ分からないままでは、同じ仕事をする後任が、同じ失敗を繰り返すおそれがあります。

■ 担当者が行うこと

当時の条件、判断、実際の結果、原因、直した内容を記録します。必要な調査や責任の確認を行いながら、報告者への非難だけで終わらせないようにします。再発を防ぐ作業の担当と期限を決め、次の案件でその対策が役立ったかを確認してください。
つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら