与条件
来島礼子が独立して、三年が過ぎていた。
コンサルタントとしての評価は、固まり始めていた。
住民の声を聞き、暮らしの実感から答えを組み立てる。
制度や数字から出発するのではなく、そこで暮らす人が何を必要としているのかを確かめ、その実現方法を設計する。
そうした仕事の進め方が、来島の名前と結びつくようになっていた。
その自治体から依頼が来たのは、夏の終わりだった。
人口減少が続く町で、公共施設の再編が課題になっている。来島に求められたのは、住民との対話を通じて、廃止される施設の機能移転や代替案を設計することだった。
依頼内容の説明を受けている途中、自治体の担当者が、もう一人の専門家の名前を口にした。
「法令と財政の面については、別の専門家にも入っていただいています。RFSCの津久見さんという方です」
「存じています。お会いしたことはありませんが」
来島はそう答えた。
名前だけは聞いていた。
法令と財政の知識を使い、自治体が抱える難しい案件を、明確な選択肢へ整理していく人物だという。
会う必要はない、と来島は思った。
自分は住民の声を聞き、自分の専門性で答えを作る。
津久見は別の場所で、法と数字による答えを作る。
それぞれが、自分の領域で最善を尽くす。
最後に行政が両者の成果を受け取り、一つの方針としてまとめる。
そうなっているはずだった。
確認はしなかった。
確認する必要があるとも、思っていなかった。
来島の仕事は、いつも現場から始まる。
町を歩き、施設を見て、そこで暮らす人の話を聞く。
高齢者。
商店主。
子育て世代。
施設がなくなることへの不安。
今の暮らしの中で、何を大切にしているのか。
何なら変えられるのか。
何だけは、失いたくないのか。
来島は、答えを急がず、一人ひとりの言葉を拾っていった。
対話を重ねるうちに、少しずつ輪郭が見えてきた。
施設という「ハコ」を残すことにこだわる必要はない。
そこで営まれていた機能を、町の別の場所へ移せばいい。
図書の機能は、商店街の空き店舗へ移す。
子どもの居場所は、既存の公民館の一角へ設ける。
高齢者の集まりは、福祉施設の共有スペースと組み合わせる。
一つの建物へ集められていた機能を、町の中へ分散させる。
来島は、その設計図を頭の中で組み立て始めていた。
ある日、自治体の担当者から尋ねられた。
「津久見さんの案とは、すり合わせていますか」
来島は、ほとんど考えずに答えた。
「そこは、行政側で調整されることだと思っています」
自分の役割は、住民の声から代替案を作ることだ。
その案を誰が受け取り、津久見の案とどう並べ、最終的に誰が一つの方針へまとめるのか。
それは、行政の仕事だと考えていた。
担当者は、
「分かりました」
と答えた。
聞かれたことには答えた。
伝わったのだろうと、来島は思った。
誰が調整するのかを、確認することはなかった。
公民館の一室で、来島はヒアリングを続けていた。
その日の相手は、小学生の子どもを二人育てている母親だった。
「施設がなくなるのは、仕方がないのかもしれません」
母親は、膝の上に置いた両手を見ながら言った。
「でも、子どもたちが集まる場所だけは、残してほしいんです。新しく建てる予算は、ないんですよね」
来島は迷わず答えた。
「それは、設計で実現できます」
母親が顔を上げた。
来島は続けた。
「新しい建物を造る必要はありません。今ある公民館の一角を使えばいい。利用時間を分ける方法もありますし、管理する人の役割を整理すれば、子どもたちの居場所として使えます」
「本当にできますか」
「できます。条件を整理してみます」
母親の表情が、少し明るくなった。
来島がよく口にする、
「それは、設計で実現できます」
という言葉には、二つの意味があった。
一つは、自分自身への約束だった。
難しいからといって、最初から不可能だと決めつけない。
もう一つは、相手の期待を引き出すための言葉だった。
実現できる可能性があると思えなければ、人は本当に望んでいることを口にしない。
だから、まずできると伝える。
その後で、必要な条件を探す。
それが来島の方法だった。
数日後、庁舎の会議室で、来島と津久見は初めて顔を合わせた。
来島が打ち合わせを終えて退出しようとしたところへ、津久見が入ってきた。
「来島さんですか」
「津久見さんですね。お話は伺っています」
短い挨拶を交わした。
津久見は、来島が想像していたより若く見えた。話し方に無駄がなく、挨拶の間にも、机に並べられた資料へ視線を向けている。
会話が終わりかけた時、来島の携帯電話が鳴った。
「失礼します」
来島は少し離れて電話に出た。
「はい。ええ、その件ですね。それは設計で実現できます。少し時間をください」
電話を切ると、津久見が聞いた。
「いつも、そう言うんですか」
「何をですか」
「設計で実現できる、と」
「言ってしまいますね。つい」
来島は少し笑った。
津久見は、数日前、施設の構造や設備の状態を確認している途中に、廊下の先から聞こえてきた声を思い出していた。
迷いのない、力強い声だった。
自分なら、先に制約を確認する。
予算。
法令。
所管。
前例。
実施主体。
それらを一つずつ整理してから、ようやく可能性を口にする。
目の前の人物は、実現できるという地点から話を始めている。
あの声は、この人だったのか。
「迷いがないですね」
津久見が言った。
「そう見えますか」
「ええ」
「迷っていないわけではありません。できる方法を探すと、先に決めているだけです」
津久見は、それ以上聞かなかった。
来島も、津久見がどのような案を作っているのかは尋ねなかった。
自分たちは、別の仕事をしている。
その時は、二人ともそう考えていた。
住民説明会の日が来た。
会場の前方に、二種類の資料が並べられていた。
一つは、来島が作成した機能移転の案。
もう一つは、津久見が作成した施設統廃合の案だった。
来島は、その場で初めて、二つの案が同時に配布されることを知った。
自分の案は、単独の答えとして提示されるものだと思っていた。
施設を廃止した後も、暮らしの中に必要な機能を残すための案として、住民へ説明されるはずだった。
だが、目の前では、津久見の案と並べられていた。
二つは、前提が違っていた。
津久見の案は、財政負担と法的条件から、維持できる施設と廃止すべき施設を分類していた。
来島の案は、住民が必要とする機能を起点に、施設の枠を越えて代替方法を組み立てていた。
対立する案ではない。
本来なら、組み合わせることもできる。
だが、その関係は、資料のどこにも示されていなかった。
住民がざわつき始めた。
「結局、どっちなんだ」
「施設を減らすのか、別の場所で続けるのか、どちらなんだ」
「二つも案を出されても、俺たちには選べない」
自治会長らしい年配の男性が立ち上がった。
「あんたたちは、それぞれ好きなことを言うだけか」
男性は、二種類の資料を掲げた。
「誰がまとめるんだ」
来島は、すぐには答えられなかった。
まとめるのは、行政の担当者だと思っていた。
だが、担当者は、会場の端で資料を見つめたまま動かなかった。
来島は、少し離れた場所に立つ津久見を見た。
津久見もまた、何も言わなかった。
彼も、自分の案がどのように扱われるのかを、知らされていなかったのかもしれない。
住民のざわめきは、収まらなかった。
二つの専門的な案が並べられたことで、選択肢が増えたのではない。
誰が決めるのかが、見えなくなった。
説明会は、結論を出せないまま終わった。
説明会の後、来島は一人で駅まで歩いた。
夕方の町は静かだった。
来島は、会場で起きたことを、何度も頭の中で繰り返した。
自分は、行政が二つの案をまとめると思っていた。
そう思い込んでいただけだった。
誰にも確認していなかった。
一度だけ、担当者から、
「津久見さんの案とは、すり合わせていますか」
と聞かれていた。
その時、自分は、
「行政側で調整されることだと思います」
と答えた。
それで済ませた。
誰が調整するのか。
いつ調整するのか。
両者の案に食い違いがあった場合、誰が決めるのか。
住民へ提示する前に、誰が一つの説明へまとめるのか。
何一つ、決めていなかった。
誰にも、その役割を与えていなかった。
津久見のことを考えた。
彼もまた、自分と同じように思っていたのかもしれない。
自分の専門領域で正しい案を作れば、誰かが最後にまとめる。
それは自分の仕事ではない。
二人とも、悪意があったわけではない。
仕事を怠けたわけでもない。
それぞれの専門性を、それぞれの場所で誠実に発揮していた。
二つの案をつなぐ人がいなかった。
正確には、つなぐ人が必要だということを、誰も設計していなかった。
与条件。
その言葉が、来島の頭に浮かんだ。
自分が何かを設計する時、最初に前提となる条件を整理する。
誰が使うのか。
どこで行うのか。
予算はいくらか。
利用できる施設は何か。
誰が管理するのか。
何を実現しなければならないのか。
今回、自分は、その与条件の中に、
「誰が最終的に二つの案を統合し、決定するのか」
という項目を入れていなかった。
設計の外側に置いていた。
それは設計で実現できます。
来島は、何度もそう答えてきた。
だが、設計の前提そのものが欠けていれば、どれほど精密な案を作っても実現しない。
実現しないだけではない。
正しい案が二つ並ぶことで、住民を迷わせることさえある。
計画は、大幅に遅れることになった。
住民の合意が得られないまま、再編の議論は、ほとんど振り出しに戻った。
来島の案も、津久見の案も、そのままでは使えなくなった。
最後に、来島は津久見と話す機会を持った。
庁舎の廊下だった。
職員のほとんどが帰った、人気のない時間だった。
津久見が先に口を開いた。
「あなたの案は、悪くなかったと思います」
「あなたの案も」
来島は答えた。
少しの沈黙があった。
二人とも、自分の案を否定する理由は持っていなかった。
だが、良い案を作ったという事実だけでは、今日の失敗を説明できなかった。
「次は、誰かがつながないといけませんね」
来島が言った。
津久見は、短く答えた。
「そうですね」
「その誰かも、最初から決めておかないといけない」
津久見が、わずかに頷いた。
それ以上の話はしなかった。
二人は、一定の距離を残したまま別れた。
互いの専門性を認めながらも、もう一度一緒に仕事をしたいとは、まだ思えなかった。
その後も、来島は何度か津久見の名前を耳にした。
別の自治体で。
別の案件で。
津久見は法令と財政の条件を整理し、難しい案件を一つずつ、判断可能な形へ変えていると聞いた。
良い仕事をする人だ。
来島は、そう思っていた。
それ以上のことは、考えなかった。
自分もまた、住民との対話を続けた。
施設を失う人の話を聞いた。
地域の中に残すべき機能を探した。
人と役割を組み直した。
「それは設計で実現できます」
その言葉も、使い続けた。
以前と同じように、迷いなく聞こえたはずだった。
だが、その後には、必ず自分の中で問いを加えるようになった。
実現するための与条件は、揃っているか。
担う人はいるか。
決める人はいるか。
異なる案をつなぐ人はいるか。
最後に責任を持つ人は、決まっているか。
条件は、最初から与えられているものではない。
不足している条件を見つけ、必要ならば、それ自体を設計しなければならない。
そして、何を与条件に入れるかを決めるのは、自分だ。
来島は、そう考えるようになった。
津久見と再び同じ現場に立つ日が来ることを、その時の来島はまだ知らなかった。
次に会う時も、二人は違う答えを持ってくるだろう。
ただ、今度は最初に確認できる。
誰がつなぐのか。
誰が決めるのか。
何を、二人で作るのか。
この話のFM豆知識
(豆知識は準備中)
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら
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