正しいこと、通ること
珈琲三番地は、市役所から歩いて三分の場所にある。
千々岩収が夕方にここへ来るのは、庁議の後か、議会の後か、何かが通った後か、何かが通らなかった後だった。
理由は毎回違う。
だが、訪れる頻度は変わらない。
マスターは何も聞かない。ただ珈琲を出す。
千々岩は、それが気に入っていた。
扉が開いた。
千々岩は顔を上げなかった。
常連のものではない足音だった。
「千々岩秘書課長、少しよろしいでしょうか」
六階の行政管理課にいる若い職員だった。
地下文書庫で、古い資料を探している姿を何度か見かけたことがある。
呼んだ覚えはない。
「座れ」
若い職員は、向かいの席に座った。
手に、古い決裁文書の写しを一枚持っている。
「地下文書庫で、過去の案件の折衝経緯を調べていました。決裁文書は残っているんですが、なぜこの取り決めになったのか、その理由がどこにも見当たりません」
「それで」
「決裁欄に、『庶務調整担当』という組織名がありました。今は存在しない組織です。廃止時の稟議書を調べたところ――」
若い職員が、書類へ視線を落とした。
「千々岩課長のお名前がありました」
千々岩は、珈琲を一口飲んだ。
庶務調整担当。
廃止してから、何年になるだろう。
「その取り決めに至った経緯は、もう残っていない」
「残っていないんですか」
若い職員が、わずかに目を見開いた。
「決裁文書が存在しているのに、判断の理由は残っていない、ということですか」
「そういうことだ」
若い職員は黙った。
千々岩は窓の外を見た。
向かいに、市役所の灯りが見える。
七階は、まだ明るかった。
「なぜ、残っていないんですか」
千々岩は、若い職員へ視線を戻した。
「それを知りたいなら、俺の昔話を聞く必要がある」
千々岩は聞いた。
「時間はあるか」
若い職員が頷いた。
千々岩がマスターへ目を向けると、何も言わないうちに、もう一杯の珈琲が運ばれてきた。
千々岩が三十代の頃、萬代の資料室を訪ねたことがある。
当時、千々岩は企画課にいた。
ある事業の稟議を作成した。
必要性を整理し、根拠となる数字を揃え、関係部署との調整も済ませた。
それでも、稟議は通らなかった。
千々岩には納得できなかった。
萬代は珈琲を出した。
何も聞かなかった。
千々岩の方から話した。
「なぜ通らないんですか。内容は正しいはずです」
萬代は、一呼吸置いてから言った。
「正しいことと、通ることは、別じゃと思わんか」
千々岩は反発した。
「諦めろ、ということですか」
「違う」
萬代は穏やかに答えた。
「通すためには、正しさとは別の何かが要る。それを考えろ、ということじゃ」
千々岩には、すぐには理解できなかった。
正しい案ならば、通るはずだ。
通らないとすれば、理解しない側に問題がある。
当時の千々岩は、そう考えていた。
萬代は、それ以上説明しなかった。
二人で黙って珈琲を飲んだ。
千々岩が帰ろうとした時、萬代が一言だけ付け加えた。
「それを残して、誰が困る」
千々岩が振り返る。
「残さなくて、誰が困る」
意味は分からなかった。
それでも、その言葉だけは頭に残った。
四十代の初め、千々岩は大規模な組織再編の事務局を任された。
行政改革の方針に基づき、役割の重複した部署や、設置目的が曖昧になった組織を整理する仕事だった。
各部局と協議し、再編案を作り、決められた日程で手続きを進めた。
整理対象の中に、「庶務調整担当」という小さな組織があった。
退職を控えた職員を、一時的に配置するために設けられた部署だと説明されていた。
組織規程に記載されている業務は、「庶務に関する調整」の一行だけだった。
具体的に何を担当しているのかは、どこにも書かれていない。
関係部署に聞いても、明確な答えは返ってこなかった。
「あそこには、まあ、いろいろやってもらっています」
誰もが、その程度の説明しかしなかった。
千々岩の判断は明快だった。
組織規程上、業務が明示されていない。
実態は、退職前職員の処遇を目的とした組織に見える。
行政改革の趣旨から考えれば、廃止すべき対象だった。
廃止案をまとめ、稟議を上げた。
通った。
庶務調整担当は、静かに消えた。
反対する者はいなかった。
所属していた職員は、定年を迎えるか、別の部署へ配置された。
問題は、すぐには起きなかった。
最初の一年は、何も変わらなかった。
二年目も、表面上は支障なく動いていた。
庶務調整担当にいた元職員たちが、組織の外から、個人的に仕事を続けていたからだ。
部局間の調整が行き詰まると、誰かが元職員へ電話をかけた。
「あの件、昔こういう経緯がありまして」
「当時は、この部署とこの部署で、こういう話をしたんです」
「文書には残っていませんが、実際にはこういう条件でした」
退職した後も、その声が組織の外から届いていた。
だが、三年目になると状況が変わり始めた。
一人が遠方へ転居した。
一人が入院した。
一人が亡くなった。
五年も経つ頃には、誰も電話に出られなくなっていた。
庶務調整担当を廃止して、五年ほど経った頃だった。
複数の部局が関係する案件で、過去の取り決めが問題になった。
文書は残っていた。
決裁印も押されている。
誰が、いつ決めたかも分かる。
だが、なぜその取り決めになったのかが、どこにも書かれていなかった。
千々岩は、関係者を一人ずつ訪ねた。
誰も知らなかった。
決裁文書を作成した担当者は、すでに退職していた。
その前任者も退職していた。
庶務調整担当にいた職員を探した。
一人は、転居先が分からなかった。
一人は、病気で話を聞ける状態ではなかった。
もう一人は、亡くなっていた。
その夜、千々岩は一人で庁舎に残った。
古い文書を机に広げ、廃止した組織が実際に何をしていたのかを考えた。
庶務調整担当が担っていたのは、組織規程に記載できる種類の業務ではなかった。
部局間の非公式な折衝。
文書に書かれなかった経緯の口頭継承。
異動してきた職員への、背景事情の説明。
明文化されていない慣行の維持。
制度と制度の隙間を埋める調整。
「あの案件には、実はこういう経緯がある」
そう言える人間を、一か所に集めた組織だった。
庶務調整担当は、組織の記憶を、生きたまま保持する装置だった。
千々岩が廃止したのは、退職前職員の処遇を目的とした部署ではなかった。
組織が、自分自身の過去を忘れないための仕組みだった。
だが、誰も千々岩の判断を責めなかった。
組織再編は、成功事例として記録されている。
廃止によって削減された人員と経費は、行政改革の成果として数字に残った。
一方、庶務調整担当が何を担っていたのかを知る人間は、もういない。
失われたものは、成果指標には現れなかった。
文書は残る。
なぜそう判断したかは、残らない。
それは萬代から教わった言葉ではない。
この夜、千々岩が初めて、自分の言葉として持ったものだった。
口調まで叔父に似ていることが、少し癪だった。
翌日から、千々岩の仕事の仕方は変わった。
正しいかどうかを考える前に、一つ問いを加えるようになった。
これを消したら、何が失われるのか。
制度をなくす時には、制度に書かれていない仕事を探した。
組織を統合する時には、その部署にしか残っていない記憶を確認した。
取り決めを変える時には、なぜ以前の形になったのかを聞いた。
周囲には、慎重になったように見えたかもしれない。
千々岩自身には、ようやく正しい問いを立てられるようになった、という感覚だった。
自分の誤りに気づいた後、千々岩は久しぶりに萬代の資料室を訪ねた。
珈琲を受け取ってから言った。
「叔父さん。昔、俺に言いましたよね」
「何をじゃ」
「それを残して、誰が困る。残さなくて、誰が困る」
萬代が頷いた。
「あの時は、意味が分からなかった」
千々岩は続けた。
「今は分かります」
萬代は珈琲を一口飲んだ。
「そうか」
「組織は、判断の理由を残したがらない。後から間違いを指摘されるのが怖いからです」
「そうじゃな」
「でも、残さなければ、次の人間が同じ問いを最初から立て直すことになる。過去に何を考えたかも分からないまま、結果だけを引き受けることになる」
萬代は、黙って聞いていた。
「残す側の危険より、残すことで得られる利益を大きくする必要がある。誰かが、それを仕組みにしないといけない」
萬代が笑った。
「お前は、いつからそんな言い方をするようになったんじゃ」
千々岩は答えなかった。
「ようやく、わしの言うことが分かる年になったか」
「昔話をしに来たわけじゃありません」
「そうか」
萬代も、それ以上は聞かなかった。
しばらくして、萬代が言った。
「お前の周りに、そういうことを始めそうな人間はおらんのか」
千々岩は、答えなかった。
その時には、まだ思い当たる人間がいなかった。
千々岩が昔話を終えると、若い職員は、しばらく黙っていた。
「庶務調整担当が何をしていたのか、記録は残っていないんですか」
「ない」
「では、廃止の判断が間違っていた、ということですか」
千々岩は少し考えた。
「廃止する判断自体は、間違っていなかった」
若い職員が顔を上げる。
「組織規程上の根拠がなく、仕事の内容も明確ではなかった。あのまま残すことが正しかったとは思わない」
千々岩は続けた。
「間違っていたのは、廃止する前に、あの組織が実際に何を担っていたのかを調べなかったことだ」
「書かれている業務だけを見て、書かれていない役割を確認しなかった」
「そういうことだ」
若い職員は、持ってきた決裁文書へ目を落とした。
「文書が残っていても、なぜそうなったかが分からなければ、次の担当者は判断できません」
「君が今、困っているようにな」
「はい」
「そのことを覚えておけ」
若い職員が考え込んだ。
「判断の理由を、残す仕組みが必要だということですか」
千々岩は答えなかった。
答えを教えるつもりはなかった。
必要なのは、問いを渡すことだ。
その先を考えるのは、この若い職員の仕事だった。
千々岩は立ち上がった。
「正しいことと、通ることは別だ」
若い職員が顔を上げる。
「それは、正しいことを諦めろという意味じゃない」
千々岩は上着を手に取った。
「正しいものを通すために、何が必要かを考えろということだ。誰に説明するのか。誰が困るのか。何を残せば、次の人間が動けるのか」
会計は、すでに済ませていた。
「その条件を設計するのが、君の仕事だ」
若い職員が、何かを言いかけた。
だが、千々岩は店を出た。
夜の市役所が見えた。
六階には、まだ灯りがついている。
行政管理課だ。
千々岩は、歩道で足を止めた。
萬代が、何度か口にしていた言葉を思い出した。
「わしは、待っていたのだと思う。若い管財官が来る日を、ずっと待っていたのだ」
自分には、そこまで長く待つことはできない。
だが今夜、呼んでもいない若い職員が、自分から珈琲三番地まで来た。
廃止された組織の名前を、地下文書庫から掘り起こしてきた。
文書が残っていても、理由がなければ役に立たないことに気づいていた。
残さなかったことで困る人間がいる。
それを、すでに理解しかけている。
次の週末にでも、叔父に会いに行こう。
見つけたかもしれない。
そう伝えてみよう。
どうせ居場所は、珈琲の香りがするところだ。
この話のFM豆知識
(豆知識は準備中)
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら
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