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外伝 第2話

数字の外側

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響矢律は、足音で人が分かる。

財政課のフロアには、毎日さまざまな音が近づいてくる。

総務課の係長は、廊下の中央を一定の速さで歩く。企画課の担当者は、いつも少し急いでいる。管理職の多くは、昼前になると足取りが重くなる。

財政課に配属されて二年ほどで、自然に聞き分けられるようになった。

覚えようとしたわけではない。

数字を見ながら音を聞いているうちに、勝手に分類されていっただけだ。

財政課に来て、六年になる。

異動の話が出るたびに、響矢は断ってきた。

断り続けられたのは、毎年必ず誰かが「もう一年いてほしい」と言ったからだ。

理由は単純だった。

響矢の予算査定は、他の担当者より精度が高い。

数字の裏にある前提を読む。条件のずれを拾う。根拠の弱い要求を見抜く。

それだけのことだった。

だが、それだけのことができる人間が、財政課には慢性的に足りなかった。

「響矢さんは、なぜ財政課にいるんですか」

そう聞かれることがある。

「数字が好きだからです」

そう答えると、大抵の人は苦笑する。

響矢には、その理由が分からない。

数字は正直だ。

前提を与えれば、答えを返す。相手の顔色を見て変わることもない。

それの何がおかしいのか。

管財課の案件が、響矢のところへ持ち込まれるようになったのは、配属三年目の春だった。

新採用職員研修に、変わった同期がいた。

班別のグループワークで、次の課題が出された。

「十年後に地域が必要とする施設と街づくりを提案せよ」

班に割り当てられたのは、市内の地区公民館と、その隣接地だった。

響矢は、ほぼ一人で試算を完成させた。

新規需要の見込み。建設費。年間維持費。想定利用者数。収支見通し。

計算結果を、そのまま資料に書いた。

この規模の施設を単独で運営すれば、毎年、相当額の赤字が出る。

グループのメンバーが顔を見合わせた。

「これ、発表していいんですか」

「数字が出ているので」

響矢は答えた。

発表直前、その同期が資料を見て言った。

「施設単体で採算を考えるから、赤字になるんだと思います」

響矢は、すぐに聞き返した。

「どういう意味ですか」

「隣に公園がありますよね」

同期は、地図を指した。

「今は管理している部署が違うから、施設の計画には入っていません。でも、公園と一体で使えば、マルシェもできるし、子育て支援の屋外拠点にもなる。民間のキッチンカーを呼べば、収益にもできます」

「公園は、別の所管です」

「今は、そうです。でも十年後の使い方を考えるんですよね。施設単体ではなく、この一帯で考え直せば、採算の見え方も変わると思います」

響矢は黙った。

公園は別の部署が管理している。

通常なら、公民館の計画には含めない。

だが、同期の指摘は、数字として間違っていなかった。

対象範囲を変えれば、収支の構造も変わる。

視点が変われば、数字も変わる。

同期は、班のメンバー一人ひとりに声をかけた。

「この場所で、どんな使い方ができそうですか。部署とか担当とかは、一度置いておいて」

出された案を手帳に書き留め、提案の中へ組み込んでいった。

発表が終わると、講師が言った。

「施設単体の採算ではなく、エリア全体で設計した点が良いですね。赤字の前提を隠さず示した上で、解決策を組み立てている」

講師は、資料をもう一度見た。

「十年後の担当者が読んでも、なぜこの組み合わせにしたのかが分かります」

響矢には、前半の評価は理解できた。

だが、後半の意味は、その時にはよく分からなかった。

研修が終わった後、響矢は同期に声をかけた。

「先ほどの指摘は、正しかったです」

「響矢さんが、採算割れを隠さず出してくれたからです。あの数字がなかったら、別の使い方を考える必要にも気づかなかったと思います」

同期は資料を見た。

「ただ、これ、住民に説明できますか」

「数字は成立しています」

「数字として正しいことと、相手に説明できることは、別です」

それだけ言うと、同期は次の研修会場へ向かった。

響矢は、引き止めなかった。

研修期間中、同期の行動を観察した。

困っている人間がいると、必ず気づく。

そして、頼まれてもいないのに話しかけに行く。

何かを手伝った後も、恩着せがましい態度は取らない。

気づいたから動く。

それだけのようだった。

一方で、課題を手放すことは苦手らしかった。

断れない。抱え込む。引き受けすぎる。

研修終了後も、図書室に残って手帳へ何かを書き込んでいた。

翌日、その同期の班の発表を聞いた。

アイデアは面白い。

だが、数字の精度が低い。

班には、採算を詰められる人間がいなかったのだろう。

あるいは、同期が誰にも頼めず、一人で抱えたのかもしれない。

響矢は、そこでようやく、講師の言葉の意味を理解した。

「十年後の担当者が分かる」

それは、結果ではなく、判断の経緯が残っているかという話だった。

響矢が採算割れを示した。

同期が、対象をエリアへ広げた。

その過程が提案書に残れば、次の担当者は同じ問いを最初から立て直さなくて済む。

数字は残る。

ならば、その数字を選んだ理由も、残さなければならない。

管財課から出された最初の予算要求は、差し戻した。

根拠が不十分だった。

「LCCの試算と、劣化状況の分類をやり直してください。このままでは査定できません」

再提出された資料は、最初とは質が変わっていた。

施設ごとのデータが揃い、優先順位の根拠が数字で示されている。

珍しいことだった。

多くの課は、一度差し戻すと怒るか、諦めるかのどちらかだ。

やり直して持ってくる担当者は少ない。

「根拠として成立しています」

響矢は言った。

「ただし、説明の仕方は考えてください。データが正しくても、相手に伝わる言葉でなければ届きません」

担当者が、少し意外そうな顔をした。

響矢自身も、自分の言葉を意外に思った。

財政課の人間が口にする言葉ではない気がした。

だが、間違ってはいない。

それから、管財課の案件が続けて持ち込まれるようになった。

施設白書。優先度マトリクス。大浜公民館の修繕計画。

どれも、数字だけでは閉じない案件だった。

大浜公民館の修繕を、優先順位上、後回しにしたことがある。

翌日、担当者が財政課から帰っていく姿を、響矢は廊下で見た。

うなだれてはいなかった。

怒ってもいなかった。

ただ、静かに歩いていた。

響矢は、もう一度資料を開いた。

利用率は低い。

数字だけなら、後回しで正しい。

だが、利用者属性を見ると、高齢者の割合が高い。近隣に代替施設もない。

数字は正しい。

しかし、見る数字を変えれば、結論も変わる。

翌朝、響矢は管財課の担当者に声をかけた。

「大浜公民館の件ですが、利用者属性のデータを加えてください」

「利用者属性、ですか」

「高齢者の割合と、代替施設までの距離です。数字の解釈が変わる可能性があります」

担当者は、少し驚いたように聞いた。

「響矢さん、なぜ」

「数字の精度の問題です」

響矢はそれだけ言い、自席へ戻った。

本当の理由は、研修の時の同期の言葉が頭に残っていたからだ。

これを、住民に説明できますか。

あの同期なら、廊下を歩く担当者を見た時点で、追いかけて声をかけただろう。

頼まれなくても。

効率が悪くても。

気づいたからという、それだけの理由で。

そして、そのまま相手の課題を引き受け、抱え込み、帰れなくなる。

響矢にはできない。

ただ、数字へ戻る前に一度立ち止まることなら、できた。

財政課の仕事は、飽きる。

正確に言えば、構造が同じなのだ。

数字は毎年変わる。

だが、問いは変わらない。

予算が足りない。

優先順位をつけろ。

根拠を出せ。

その繰り返しだ。

管財課の案件は違った。

毎回、数字の外に何かがある。

施設台帳には、数値化されていない判断が残っている。

優先度マトリクスには、計算式に収まらない迷いの痕跡がある。

古いデータには、なぜその数字が残されたのかという問いがある。

財政課の仕事では、数字は答えだった。

管財課の仕事では、数字が問いになる。

その違いに気づいた日、響矢は席を離れ、しばらく窓の外を見ていた。

自分でも珍しいことだと思った。

深夜、長谷と並び、財政フレームを朝まで組み直したことがある。

頼まれたわけではない。

財政課が所管する数字を他人に任せて帰る気になれなかった。

それだけだ。

翌朝、長谷がコーヒーを飲みながら聞いた。

「朝まですみません。そろそろ、俺に付き合うことに飽きてきたんじゃないですか」

「問いの対象が明確ではありませんが、飽きていません。今のところ」

長谷が言葉を継ぐまでに、少しの時間があった。

「どちらへの答えなんですか」

「聞かれたことへの答えです」

響矢は正確に答え、紙コップを机に置くと、管財課を後にした。

歩きながら考えた。

問いが変われば、答えが変わってしまう。

正確だが、相手任せの、自分らしくない答えだった。

長谷とのやりとりなのか。

仕事そのものなのか。

あるいは、その両方なのか。

響矢は明確にしなかった。

自分でも、まだ言葉にできていなかったから。

同期が異動する前日の夜だった。

財政データの確認で残っていた響矢は、廊下の先に灯りがついていることに気づいた。

会議室の隅で、同期が書類の山を前に座っていた。

「まだいたんですか」

「やり残したことが多すぎて」

声をかけるつもりはなかった。

だが、足が止まった。

「引継ぎ資料に、根拠を残してください」

同期が顔を上げた。

「前提と、判断した理由を書いておけば、次の担当者が同じ問いを最初から立て直さなくて済みます。同じ計算を、ゼロから繰り返す必要もありません」

同期が、少し笑った。

「響矢さんらしくない言い方ですね」

「数字の話です」

「それ、研修の時に、私が響矢さんに言ったことに似ています」

響矢は動きを止めた。

あのグループワーク。

これを、住民に説明できますか。

あの時、響矢は答えられなかった。

数字は正しい。

正しい数字を示せば、それで十分だと思っていた。

説明できることと、正しいことは別だと、初めて気づかされた。

それが形を変えて、今、自分の口から同期へ返っていた。

「そうかもしれません」

同期は立ち上がり、書類をまとめた。

「変わりましたよね、響矢さん」

「変わっていません」

「研修の頃から知っていますから」

それだけ言うと、同期は会議室を出ていった。

響矢は、空になった席をしばらく見ていた。

変わったのか。

変わっていないのか。

その答えを示す数字はなかった。

廊下を遠ざかっていく足音を聞きながら、響矢は思った。

新しい部署でも、また誰かに捕まるのだろう。

困っている人間を見つけて話を聞く。

頼まれていないことまで引き受ける。

抱え込み、帰れなくなる。

断れないのではない。

断るつもりがないのだ。

非効率だと指摘したことがある。

同期は「そうかもしれません」と笑い、また誰かのところへ行った。

それが、自分の出発点だったのかもしれない。

数字で動く人間と、人を見て動く人間。

方法は、根本から違う。

だが、どちらも、数字だけでは拾えない何かを拾おうとしていた。

向いている方向は、同じだったのかもしれない。

同期がこれからどこで何をするのか、響矢には分からなかった。

ただ、どこへ行っても、誰かに問い続けるだろう。

それ、誰に説明するんですか。

そういう人間だと、研修の頃から知っていた。

響矢は会議室の灯りを消し、財政課へ戻った。

デスクの上に数字が並んでいる。

その数字の外側に、何があるのか。

それを考えることが、以前ほど苦ではなくなっていた。

まだ飽きていない。

困ったことに。

この話のFM豆知識

(豆知識は準備中)

つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら