数字の外側
響矢律は、足音で人が分かる。
財政課のフロアには、毎日さまざまな音が近づいてくる。
総務課の係長は、廊下の中央を一定の速さで歩く。企画課の担当者は、いつも少し急いでいる。管理職の多くは、昼前になると足取りが重くなる。
財政課に配属されて二年ほどで、自然に聞き分けられるようになった。
覚えようとしたわけではない。
数字を見ながら音を聞いているうちに、勝手に分類されていっただけだ。
財政課に来て、六年になる。
異動の話が出るたびに、響矢は断ってきた。
断り続けられたのは、毎年必ず誰かが「もう一年いてほしい」と言ったからだ。
理由は単純だった。
響矢の予算査定は、他の担当者より精度が高い。
数字の裏にある前提を読む。条件のずれを拾う。根拠の弱い要求を見抜く。
それだけのことだった。
だが、それだけのことができる人間が、財政課には慢性的に足りなかった。
「響矢さんは、なぜ財政課にいるんですか」
そう聞かれることがある。
「数字が好きだからです」
そう答えると、大抵の人は苦笑する。
響矢には、その理由が分からない。
数字は正直だ。
前提を与えれば、答えを返す。相手の顔色を見て変わることもない。
それの何がおかしいのか。
管財課の案件が、響矢のところへ持ち込まれるようになったのは、配属三年目の春だった。
新採用職員研修に、変わった同期がいた。
班別のグループワークで、次の課題が出された。
「十年後に地域が必要とする施設と街づくりを提案せよ」
班に割り当てられたのは、市内の地区公民館と、その隣接地だった。
響矢は、ほぼ一人で試算を完成させた。
新規需要の見込み。建設費。年間維持費。想定利用者数。収支見通し。
計算結果を、そのまま資料に書いた。
この規模の施設を単独で運営すれば、毎年、相当額の赤字が出る。
グループのメンバーが顔を見合わせた。
「これ、発表していいんですか」
「数字が出ているので」
響矢は答えた。
発表直前、その同期が資料を見て言った。
「施設単体で採算を考えるから、赤字になるんだと思います」
響矢は、すぐに聞き返した。
「どういう意味ですか」
「隣に公園がありますよね」
同期は、地図を指した。
「今は管理している部署が違うから、施設の計画には入っていません。でも、公園と一体で使えば、マルシェもできるし、子育て支援の屋外拠点にもなる。民間のキッチンカーを呼べば、収益にもできます」
「公園は、別の所管です」
「今は、そうです。でも十年後の使い方を考えるんですよね。施設単体ではなく、この一帯で考え直せば、採算の見え方も変わると思います」
響矢は黙った。
公園は別の部署が管理している。
通常なら、公民館の計画には含めない。
だが、同期の指摘は、数字として間違っていなかった。
対象範囲を変えれば、収支の構造も変わる。
視点が変われば、数字も変わる。
同期は、班のメンバー一人ひとりに声をかけた。
「この場所で、どんな使い方ができそうですか。部署とか担当とかは、一度置いておいて」
出された案を手帳に書き留め、提案の中へ組み込んでいった。
発表が終わると、講師が言った。
「施設単体の採算ではなく、エリア全体で設計した点が良いですね。赤字の前提を隠さず示した上で、解決策を組み立てている」
講師は、資料をもう一度見た。
「十年後の担当者が読んでも、なぜこの組み合わせにしたのかが分かります」
響矢には、前半の評価は理解できた。
だが、後半の意味は、その時にはよく分からなかった。
研修が終わった後、響矢は同期に声をかけた。
「先ほどの指摘は、正しかったです」
「響矢さんが、採算割れを隠さず出してくれたからです。あの数字がなかったら、別の使い方を考える必要にも気づかなかったと思います」
同期は資料を見た。
「ただ、これ、住民に説明できますか」
「数字は成立しています」
「数字として正しいことと、相手に説明できることは、別です」
それだけ言うと、同期は次の研修会場へ向かった。
響矢は、引き止めなかった。
研修期間中、同期の行動を観察した。
困っている人間がいると、必ず気づく。
そして、頼まれてもいないのに話しかけに行く。
何かを手伝った後も、恩着せがましい態度は取らない。
気づいたから動く。
それだけのようだった。
一方で、課題を手放すことは苦手らしかった。
断れない。抱え込む。引き受けすぎる。
研修終了後も、図書室に残って手帳へ何かを書き込んでいた。
翌日、その同期の班の発表を聞いた。
アイデアは面白い。
だが、数字の精度が低い。
班には、採算を詰められる人間がいなかったのだろう。
あるいは、同期が誰にも頼めず、一人で抱えたのかもしれない。
響矢は、そこでようやく、講師の言葉の意味を理解した。
「十年後の担当者が分かる」
それは、結果ではなく、判断の経緯が残っているかという話だった。
響矢が採算割れを示した。
同期が、対象をエリアへ広げた。
その過程が提案書に残れば、次の担当者は同じ問いを最初から立て直さなくて済む。
数字は残る。
ならば、その数字を選んだ理由も、残さなければならない。
管財課から出された最初の予算要求は、差し戻した。
根拠が不十分だった。
「LCCの試算と、劣化状況の分類をやり直してください。このままでは査定できません」
再提出された資料は、最初とは質が変わっていた。
施設ごとのデータが揃い、優先順位の根拠が数字で示されている。
珍しいことだった。
多くの課は、一度差し戻すと怒るか、諦めるかのどちらかだ。
やり直して持ってくる担当者は少ない。
「根拠として成立しています」
響矢は言った。
「ただし、説明の仕方は考えてください。データが正しくても、相手に伝わる言葉でなければ届きません」
担当者が、少し意外そうな顔をした。
響矢自身も、自分の言葉を意外に思った。
財政課の人間が口にする言葉ではない気がした。
だが、間違ってはいない。
それから、管財課の案件が続けて持ち込まれるようになった。
施設白書。優先度マトリクス。大浜公民館の修繕計画。
どれも、数字だけでは閉じない案件だった。
大浜公民館の修繕を、優先順位上、後回しにしたことがある。
翌日、担当者が財政課から帰っていく姿を、響矢は廊下で見た。
うなだれてはいなかった。
怒ってもいなかった。
ただ、静かに歩いていた。
響矢は、もう一度資料を開いた。
利用率は低い。
数字だけなら、後回しで正しい。
だが、利用者属性を見ると、高齢者の割合が高い。近隣に代替施設もない。
数字は正しい。
しかし、見る数字を変えれば、結論も変わる。
翌朝、響矢は管財課の担当者に声をかけた。
「大浜公民館の件ですが、利用者属性のデータを加えてください」
「利用者属性、ですか」
「高齢者の割合と、代替施設までの距離です。数字の解釈が変わる可能性があります」
担当者は、少し驚いたように聞いた。
「響矢さん、なぜ」
「数字の精度の問題です」
響矢はそれだけ言い、自席へ戻った。
本当の理由は、研修の時の同期の言葉が頭に残っていたからだ。
これを、住民に説明できますか。
あの同期なら、廊下を歩く担当者を見た時点で、追いかけて声をかけただろう。
頼まれなくても。
効率が悪くても。
気づいたからという、それだけの理由で。
そして、そのまま相手の課題を引き受け、抱え込み、帰れなくなる。
響矢にはできない。
ただ、数字へ戻る前に一度立ち止まることなら、できた。
財政課の仕事は、飽きる。
正確に言えば、構造が同じなのだ。
数字は毎年変わる。
だが、問いは変わらない。
予算が足りない。
優先順位をつけろ。
根拠を出せ。
その繰り返しだ。
管財課の案件は違った。
毎回、数字の外に何かがある。
施設台帳には、数値化されていない判断が残っている。
優先度マトリクスには、計算式に収まらない迷いの痕跡がある。
古いデータには、なぜその数字が残されたのかという問いがある。
財政課の仕事では、数字は答えだった。
管財課の仕事では、数字が問いになる。
その違いに気づいた日、響矢は席を離れ、しばらく窓の外を見ていた。
自分でも珍しいことだと思った。
深夜、長谷と並び、財政フレームを朝まで組み直したことがある。
頼まれたわけではない。
財政課が所管する数字を他人に任せて帰る気になれなかった。
それだけだ。
翌朝、長谷がコーヒーを飲みながら聞いた。
「朝まですみません。そろそろ、俺に付き合うことに飽きてきたんじゃないですか」
「問いの対象が明確ではありませんが、飽きていません。今のところ」
長谷が言葉を継ぐまでに、少しの時間があった。
「どちらへの答えなんですか」
「聞かれたことへの答えです」
響矢は正確に答え、紙コップを机に置くと、管財課を後にした。
歩きながら考えた。
問いが変われば、答えが変わってしまう。
正確だが、相手任せの、自分らしくない答えだった。
長谷とのやりとりなのか。
仕事そのものなのか。
あるいは、その両方なのか。
響矢は明確にしなかった。
自分でも、まだ言葉にできていなかったから。
同期が異動する前日の夜だった。
財政データの確認で残っていた響矢は、廊下の先に灯りがついていることに気づいた。
会議室の隅で、同期が書類の山を前に座っていた。
「まだいたんですか」
「やり残したことが多すぎて」
声をかけるつもりはなかった。
だが、足が止まった。
「引継ぎ資料に、根拠を残してください」
同期が顔を上げた。
「前提と、判断した理由を書いておけば、次の担当者が同じ問いを最初から立て直さなくて済みます。同じ計算を、ゼロから繰り返す必要もありません」
同期が、少し笑った。
「響矢さんらしくない言い方ですね」
「数字の話です」
「それ、研修の時に、私が響矢さんに言ったことに似ています」
響矢は動きを止めた。
あのグループワーク。
これを、住民に説明できますか。
あの時、響矢は答えられなかった。
数字は正しい。
正しい数字を示せば、それで十分だと思っていた。
説明できることと、正しいことは別だと、初めて気づかされた。
それが形を変えて、今、自分の口から同期へ返っていた。
「そうかもしれません」
同期は立ち上がり、書類をまとめた。
「変わりましたよね、響矢さん」
「変わっていません」
「研修の頃から知っていますから」
それだけ言うと、同期は会議室を出ていった。
響矢は、空になった席をしばらく見ていた。
変わったのか。
変わっていないのか。
その答えを示す数字はなかった。
廊下を遠ざかっていく足音を聞きながら、響矢は思った。
新しい部署でも、また誰かに捕まるのだろう。
困っている人間を見つけて話を聞く。
頼まれていないことまで引き受ける。
抱え込み、帰れなくなる。
断れないのではない。
断るつもりがないのだ。
非効率だと指摘したことがある。
同期は「そうかもしれません」と笑い、また誰かのところへ行った。
それが、自分の出発点だったのかもしれない。
数字で動く人間と、人を見て動く人間。
方法は、根本から違う。
だが、どちらも、数字だけでは拾えない何かを拾おうとしていた。
向いている方向は、同じだったのかもしれない。
同期がこれからどこで何をするのか、響矢には分からなかった。
ただ、どこへ行っても、誰かに問い続けるだろう。
それ、誰に説明するんですか。
そういう人間だと、研修の頃から知っていた。
響矢は会議室の灯りを消し、財政課へ戻った。
デスクの上に数字が並んでいる。
その数字の外側に、何があるのか。
それを考えることが、以前ほど苦ではなくなっていた。
まだ飽きていない。
困ったことに。
この話のFM豆知識
(豆知識は準備中)
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら
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