残された項目
棚の一角に、新しい背表紙が加わっていた。
諫山直は椅子から立ち上がり、一冊を引き抜いた。
青葉市公共施設白書(改訂版)
表紙の右下に、小さく担当者の名前が記されている。
長谷巡。響矢律。石末堅。
青葉市での仕事から、三年が経っていた。
諫山の個人事務所は、相変わらず閑古鳥が鳴いている。タフブックの画面には、全国の自治体職員から届いた問い合わせメールが並んでいた。
LCCの計算方法。
予防保全の優先順位の付け方。
包括管理委託の仕様書の書き方。
答えることは苦にならない。
諫山は白書を開いた。
データの粒度は適切だった。利用者満足度の欄にも、数字が入っている。かつて自分が設計した項目に、誰かが一つずつ、丁寧に答えを埋めていた。
三年前、青葉市で長谷たちの台帳を初めて見た時、諫山は思わず呟いた。
「まだ残っていたか」
あの時、自分が感じたものの正体は、これだったのかもしれない。
諫山は白書を閉じ、窓の外を見た。
夕日が、事務所の床まで差し込んでいる。
思い出すことにした。
施設巡回が好きだった。
三十代の諫山は、年に何度も市内の施設を一人で回っていた。
公民館。体育館。支所。学校。
建物の外周を歩き、壁を叩き、排水溝を覗き、屋上の防水シートの状態を確かめる。誰に頼まれたわけでもない。休日に出向くことも多かった。
異変に気づいたのは、ある公民館の地下倉庫を開けた時だった。
昭和の竣工図面が、丸められたまま放置されている。その隣には、過去の修繕要求書の束があった。
ページをめくると、同じ文言が繰り返されていた。
「外壁クラック補修要望」
「屋上防水劣化のため改修要望」
年度だけが違う。
昭和五十七年。平成三年。平成十一年。
二十年近く、同じ要望が出され続けていた。
そして、何も直っていない。
壊れてから直す。予算がなければ先送りする。また壊れるまで待つ。
その繰り返しだった。
誰か一人が悪いわけではない。仕組みが追いついていないだけだ。
そして、仕組みが追いついていないことに、誰も気づいていない。
全体像を把握している人間が、この役所にはいなかったからだ。
諫山は営繕課に戻り、机の上に紙を広げた。
施設台帳の標準様式を作ることにした。
建築年。
構造。
延床面積。
改修履歴。
劣化状況。
年間維持費。
そして最後に、利用者満足度。
その項目を加えた時、同僚が聞いた。
「利用者満足度? そんなものまで調査するんですか」
「施設は、使われてこそだ」
諫山は答えた。
「誰が、どのように使っているかも知らずに、何を守るというんだ」
同僚は怪訝な顔をした。
諫山は、それ以上説明しなかった。
台帳の整備が始まった。
最初に手伝いを申し出たのは、石末堅という二十代の若手だった。
無口で、図面を読むのが速い。現場で叩いた外壁の音を聞き、劣化の程度を言い当てる。
諫山は口には出さなかったが、その若手を気に入った。
標準様式は、各部局に配られた。
教育委員会。福祉課。市民課。生涯学習課。
だが、様式はほどなく崩れた。
用紙の大きさが変わった。罫線が増えた。各部局の担当者が、それぞれ使いやすいように書式を作り替えた。
それでも、項目だけは残った。
建築年。構造。延床面積。改修履歴。劣化状況。年間維持費。利用者満足度。
諫山は当時、そのことに何の意味も感じなかった。
様式が統一されなかった。
だから、失敗したのだと思っていた。
FM推進組織が発足した日のことを、諫山は今も覚えている。
首長が代わり、「全庁横断で公共施設の管理を見直す」という方針が示された。
諫山が何年も言い続けてきたことが、ようやく組織の言葉になった。
推進委員会の事務局を任された。
四十八歳。
人生で、最も充実していた時期だった。
施設白書の原型を作った。
利用率。維持費。老朽化状況。
市内の全施設を、同じ基準で可視化した。統廃合の優先順位も示した。
これで動く。
そう思った。
動かなかった。
各部局の反発は、予想を超えていた。
「営繕が施設運営に口を出すな」
「なぜ、うちの施設が廃止候補なんだ」
「数字だけで地域の事情が分かるのか」
議会からも批判が出た。
二年後、推進組織は解体された。
施設白書事業は凍結。利用率調査も停止した。
石末が、後になって聞いた。
「なぜ、相談してくれなかったんですか」
諫山は答えられなかった。
相談するという発想がなかった。
データは正しい。正しいものが通らないなら、それは政治の問題だと思っていた。
自分の届け方に問題があるとは、考えなかった。
人を育てずに、仕組みだけを作ろうとした。
正しさを武器にして、対話を省いた。
石末にさえ、なぜこの仕事が必要なのかを、きちんと語ったことがなかった。
それが敗北の本当の理由だったと気づいたのは、ずっと後になってからだ。
推進組織が消えた後も、諫山は施設を回り続けた。
休日に現場を歩き、危険を見つければ施設管理者へ直接伝えた。
誰にも頼まれていない仕事だった。
事故は、秋の昼過ぎに起きた。
市内の小学校の体育館で、天井の一部が崩落した。
死者は出なかった。
それだけが、わずかな救いだった。
諫山は五年前から、その建物の危険性を示すデータを持っていた。
修繕要求書も提出していた。
教育委員会の窓口担当者は、そのたびに言った。
「検討します」
要求書は、担当者の手元で止まっていた。
事故後の調査で、教育委員会は「正式な報告は受けていなかった」と説明した。
組織が、責任の所在を曖昧にしようとしているのが分かった。
やがて、学校の教頭が「施設の状態を把握できていなかった」として、矢面に立たされそうになった。
諫山は、事故検証会議の席で言った。
「修繕の優先順位を誤った責任は、私にあります」
嘘ではなかった。
データを持ちながら、組織を動かせなかった。
その意味では、本当に自分の責任だと思っていた。
それだけが原因ではないことも、分かっていた。
だが、教頭に処分が及ぶことだけは避けたかった。
処分が決まった日、諫山は退職届を出した。
石末には何も言わなかった。
知れば、石末は黙っていない。
揉めれば、教頭を守れなくなるかもしれない。さらに傷つく人間が増える。
だから、黙って去った。
一人になった夜、諫山は考えた。
知っていたのに、防げなかった。
データを持っていたのに、組織を動かせなかった。
技術的には正しくても、届かなかった。
自分が正しければ、世界は動くと思っていた。
だが、届け方を間違えていた。
そして、最後までそれを直せなかった。
もう、何かを変えようとするのはやめよう。
知っていることを、必要とする人間に伝える。
それだけでいい。
それだけが、自分に残された役割だと思った。
諫山は、白書をもう一度開いた。
巻末に、施設台帳の標準様式が添付されている。
建築年。
構造。
延床面積。
改修履歴。
劣化状況。
年間維持費。
利用者満足度。
三十代の自分が作ったものと、項目が同じだった。
書式は違う。レイアウトも違う。
だが、問いかけていることは同じだ。
長谷たちが台帳を集めた時、首をかしげただろうか。
なぜ各部局の台帳は、書式が違うのに、項目だけが同じなのか。
そして、気づいただろうか。
誰かが、かつてその項目を設計したのだと。
書式は崩れた。
様式は散り散りになった。
だが、問いの骨格だけは、二十年を超えて各部局に残り続けた。
諫山は窓の外を見た。
萬代の声が、聞こえた気がした。
「人は辞める。部署もなくなる。じゃが、書類は残る。良い仕事ほどな」
そういうことだったのか。
お前が、俺に言いたかったのは。
FM推進組織は、二年で消えた。
施設白書は凍結された。
利用率調査は止まった。
自分は役所を辞めた。
すべて終わったと思っていた。
だが、問いだけは残った。
建築年。
構造。
延床面積。
改修履歴。
劣化状況。
年間維持費。
利用者満足度。
誰かがその問いを拾った。
数字を埋めた。
答えを加えた。
白書にした。
そして、街へ届けた。
電話が鳴った。
諫山は受話器を取った。
「はい。諫山一級建築士事務所」
若い声が聞こえた。
「建物の修繕予算が足りないんです。どこから手を付ければいいのか、分からなくて――」
諫山はタフブックを開いた。
「お前の役所は、LCCを計算したのか」
「いえ、まだです」
「なら、そこからだ。URLを送る」
電話を肩に挟み、キーボードを叩く。
窓の外には夕日。
机の上には、長谷たちが作った施設白書。
棚には、まだ誰にも見せていない、自分の記録が眠っている。
折れた。
終わったと思った。
それでも、やめられなかった。
それだけが、諫山直という人間の、唯一の履歴書だった。
この話のFM豆知識
(豆知識は準備中)
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら
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