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第1巻外伝集

珈琲の匂い

― 萬代博物、その後 ―
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一
二
三
四

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一

理由はなかった。

管財課長の長谷巡は、ある午後、気づけば地下へ続く階段を下りていた。

決裁書類は机の上に残してある。次の会議まで四十分。急ぎの用事もない。

それでも、足が向いた。

四階の廊下で、響矢とすれ違った。

財政課の係長になってからも、足音は変わらない。一定の速さで、迷いなく歩く。

「長谷さん、地下ですか」

「ああ」

「萬代さんはいませんよ」

「知ってる」

響矢は一度、足を止めた。

何か言いかけたようだったが、結局、何も言わずに歩き出した。

長谷は、そのまま階段を下りた。

萬代博物が退職してから、もう一年になる。

地下資料室を訪れるのは、今日が初めてだった。

二

扉を開けると、若い職員が資料を整理していた。

棚から古いファイルを取り出し、背表紙を確認し、元の位置へ戻していく。

黙々とした、丁寧な作業だった。

長谷が入っても、若い職員はすぐには顔を上げなかった。

「ここで何をしている」

若い職員が振り返った。

長谷の顔を見て、一瞬だけ表情が動いた。名前を知っているらしかった。

「萬代さんに頼まれました」

「いつ」

「退職される前です」

それだけ答えると、若い職員は再び作業へ戻った。

長谷は部屋の中へ入った。

珈琲の匂いが、わずかに残っていた。

萬代がいた頃より薄い。

それでも、確かに残っている。

棚の配置は変わっていなかった。

古い図面が丸められたまま、壁際に立てかけてある。施設台帳の束。年代別に綴じられた修繕記録。

萬代がいつも、

「まあ、座りなさい」

と言って勧めた椅子も、同じ場所に置かれていた。

長谷は座らなかった。

棚を眺めたまま、しばらく立っていた。

三

管財課に来たばかりの頃、長谷は何度もこの部屋を訪れた。

萬代は、いつも珈琲を出した。

答えは教えなかった。

代わりに、問いだけを残した。

長谷が自分で答えを見つけるまで、急かさずに待っていた。

しばらくして、長谷は若い職員へ聞いた。

「萬代さんは、何と言っていた」

若い職員が手を止めた。

少し考えてから答えた。

「ここに来た人間が、自分で見つければいい、と」

長谷は小さく頷いた。

萬代らしい言葉だった。

若い職員が続けた。

「長谷さんが、いずれ来ると思っていたようです」

「なぜ分かる」

「来なかったら、この棚の資料は処分していいと言われました」

長谷は、すぐに棚へ目を向けた。

「どの資料だ」

「分かりません」

若い職員は、棚の一角を示した。

「まだ、整理の途中です。残すものと、処分するものを分けるように言われました。ただ、基準は教えてもらっていません」

「自分で判断しろ、ということか」

「おそらく」

長谷は棚を見渡した。

何が残されているのか。

誰に渡すつもりだったのか。

なぜ、長谷が来なければ処分してよいと言ったのか。

今は、まだ分からない。

だが萬代は、資料を保管してほしかっただけではないのだろう。

誰かがここを訪れ、棚を見て、自分で考えることを待っていた。

長谷は踵を返した。

扉の前で、若い職員を振り返る。

「整理が終わったら、残すかどうかは自分で決めろ」

若い職員が顔を上げた。

「萬代さんは、そういう人だった」

「はい」

長谷は、そこで初めて気づいたように聞いた。

「君は、どこの職員だ」

「行政管理課の折原です。折原悠斗と申します」

「そうか」

長谷は、もう一度だけ棚を見た。

萬代が待っていたのは、資料を受け取る人間ではなかったのかもしれない。

残すべきものを、自分で探す人間だった。

「続けてくれ」

「はい」

長谷は扉を開けた。

その背中に、若い職員の声が届いた。

「長谷課長」

長谷が振り返る。

「珈琲、淹れましょうか」

長谷は一瞬だけ、部屋に残る匂いを確かめた。

「いや。今日はいい」

扉を閉めた。

四

階段を上りながら、長谷は考えた。

萬代はいない。

だが、資料室は残っている。

棚も、椅子も、問いも残っている。

珈琲の匂いも、まだ少しだけ残っていた。

萬代は、何かを残した。

誰かに渡すために。

その誰かは、今日、地下資料室にいた。

それで十分だった。

管財課へ戻ると、石末が机いっぱいに現場の図面を広げていた。

「どこへ行ってた」

「地下」

「何かあったか」

「まだ分からん」

石末は、それ以上聞かなかった。

長谷のパソコンには、響矢からメールが届いていた。

件名は、

「来年度修繕予算の前提条件について」

長谷は、本文を読む前に返信欄を開いた。

「まだ飽きてないのか」

送信してから、図面の確認を始めた。

数分後、返信が届いた。

「飽きていません。困ったことに」

長谷は、わずかに笑った。

椅子へ座り直し、図面に目を落とす。

萬代の残した問いに、

答えはなかった。

おそらく、これからもない。

だから、自分たちで探す。

現場へ行き、数字を集め、理由を残し、次の人間へ渡す。

この街の答えを、また探しに行く。

それだけだった。

地下資料室では、若い職員が一人、棚の整理を続けていた。

部屋には、

消えかけた珈琲の匂いが残っていた。

――了――

この話のFM豆知識

(豆知識は準備中)

つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら