ls0206

急ぐ理由 第6話

黒瀬方式

この話の公開状況
状態

← 急ぐ理由 目次に戻る

十月の庁議で、資産経営課の中間報告が出た。

年度上半期で、施設一件廃止、一件の統廃合方針決定、改修一件実施。削減額は三百万円。回避した使用制限が一件。

榛葉宗一郎が、資料を眺めながら言った。

「去年の倍だな」

「黒瀬の実績です」

副市長がそう答えた。

「これが黒瀬方式ってやつか」

榛葉が言うと、会議室に小さな笑いが起きた。

黒瀬は表情を変えなかった。

その呼び方が庁内で使われ始めていることは、知っていた。

早く決め、早く実行する。数字で説明し、期限を切る。

誰も、それを止めようとしなかった。

黒瀬方式には、実務上の利点があった。

案件を黒瀬に回せば、判断が返ってくる。二日か、三日で返ってくる。

他の課は、それを前提に予定を組むようになった。

福祉課が保育所の改修時期を相談に来た。営繕が長寿命化の優先順位を聞きに来た。教育委員会が学校施設の照会を持ってきた。

黒瀬は全部に答えた。

十月の第三週、教育委員会の職員が来たときのことだった。

「北部の給食調理場なんですが、来年度に更新するか、あと三年持たせるかで、意見が割れてまして」

「図面と、直近の点検記録は」

職員が持ってきた書類を、黒瀬はその場で開いた。

三分ほど見ていた。

「厨房機器は三年持つ。ただ、給排水が先に来る。来年度は配管だけやれ。機器の更新は三年後でいい。分けた方が、単年度の負担が平準化する」

「分けられるものなんですか」

「工期は分かれる。設計は一本でいい」

職員は、それをその場で書き取った。

「助かりました。財政に相談したら、資産経営に聞けと言われたので」

黒瀬はうなずいて、書類を返した。

十五分もかからなかった。

三崎は、隣の席でそのやり取りを聞いていた。

同じ質問を自分が受けたら、答えるまでに一週間はかかる。図面を確認し、点検記録を遡り、財政の枠を調べ、営繕に技術的な確認を取る必要がある。

黒瀬は、それを全部、頭の中に持っていた。

答えられたのは、施設と財政と利用状況を横断して把握しているのが、この庁舎で黒瀬しかいなかったからだ。

三崎には、その答えがどこまで正しいのかを、その場で確かめる術がなかった。

塩谷は、財政課でその流れを見ていた。

上半期の間、黒瀬の案に表立った反論をしなかった。

反論の材料がなかったわけではない。ただ、反論すれば、代案を出す責任が生じる。財政課に、施設ごとの代案を作る人員はなかった。

ある日、塩谷は課の若手に言われた。

「資産経営に聞けば早いですよ」

それが、この庁舎の共通認識になりつつあった。

塩谷はうなずいて、それ以上は言わなかった。自分もこの半年、同じことをしていた。

十月の下旬、黒瀬が三崎に言った。

「次は檜倉の保健センターだ。詳細点検の準備をしろ」

「分かりました」

「樫村は、今回は外していい」

三崎は顔を上げた。

「え……大滝野も桔梗台も、現地は樫村がやってます」

「若い職員に、こういう案件ばかり背負わせるのも良くない」

黒瀬はそう言って、話を終わらせた。

三崎は、それ以上聞かなかった。

翌週、檜倉の起案が回ってきた。担当者欄に、樫村の名前はなかった。

樫村は、その週から窓口業務の応援に入った。

不満は言わなかった。

異動でも処分でもない。課内の応援は、繁忙期にはよくあることだった。黒瀬も、そう説明していた。

ただ、応援は年度末まで続くことになっていた。

樫村は、大滝野と桔梗台で撮った写真と、行事の記録を、自分の端末に残したままにした。

三崎が一度、聞いたことがある。

「あの資料、どうしてる」

「持ってます」

「共有フォルダには」

「入れてません」

樫村は、それだけ答えた。

「入れても、誰も見ないので」

三崎は、その言い方が引っかかった。

責めている口調ではなかった。事実として言っているだけの声だった。

十一月の初め、三崎は上半期の資料を整理していた。

大滝野の廃止資料。桔梗台児童館の統廃合資料。庁議への報告。

並べて読むと、あることに気づいた。

反対意見の欄が、どれも短い。

大滝野の説明会では、久遠田が利用手続きについて発言していた。会議録には「利用手続きに関する意見あり」とだけある。

桔梗台の説明会では、久遠田が見守りと異年齢交流について、かなりの時間を使って話した。会議録には「代替施設への機能移転に関する意見あり」とある。

嘘は書かれていない。

ただ、何が議論になったのかは、この記録からは分からない。

三崎は、自分がその会議録を書いたことを思い出した。

「黒瀬さん」

三崎は、執務室で切り出した。

「一度、外の意見を聞いてみませんか」

「外の意見」

「青葉市に、意見照会をかけてみるとか」

黒瀬は台帳から顔を上げた。

「なぜ今、それを」

「うちのやり方が正しいなら、外から見ても、そう見えるはずです」

黒瀬は、しばらく黙っていた。

反対する理由を探して、見つからなかったという顔だった。

「好きにしろ」

黒瀬は、外部の意見を恐れていなかった。

自分の方法が合理的だと信じていたからだ。

三崎は、その日のうちに青葉市に電話をかけた。

窓口の担当は、資産経営部長の長谷という職員に取り次ぐと言った。

「意見照会という形でよろしいですか」

「はい。高峯市の施設再編について、外部からご意見をいただきたいんです」

日程は、十二月の第二週に決まった。

電話を切ってから、三崎はしばらく受話器に手を置いていた。

自分が何を頼んだのか、まだ整理できていなかった。

黒瀬のやり方を否定したいわけではない。

上半期の結果は、実際に出ている。守られたサービスもある。

ただ、記録に何が残っていないのかを、誰かに見てもらいたかった。

机の上には、樫村の名前が消えた起案が置かれていた。

この話のFM豆知識

FMの教訓:実績のある担当者の案でも、別の職員が資料と判断理由を確認する。

◆ この話で扱う仕事

関係するFMの仕事:統括マネジメントの組織体制・規程・人材

市全体の施設を扱う担当には、複数の課と調整し、必要な情報を集める役割があります。その担当に仕事を任せる場合も、資料を作る人、専門の確認をする人、決裁する人を決めます。仕事が一人に集中している場合は、他の職員も資料を読み、判断の理由を確認できるようにします。

◆ 実績があっても、確認を省かない

早く答えを出し、成果を上げる担当者には、周囲が判断を任せやすくなります。その結果、根拠の資料を読まずに案が通ることがあります。経験のある人でも、費用を取り違えたり、利用者への影響を見落としたりします。担当者への信頼と、提出された案を確認する仕事を分けて考えます。

◆ 「あの人のやり方」を、他の職員も使える手順にする

うまくいった方法は、集める資料、比べる項目、相談する部署、判断理由の書き方に分けて残します。反対意見をどこに記し、誰が確認するかも決めます。担当者が替わったとき、後任が手順を読んで作業できるかを確かめ、分からない箇所を補います。

◆ 物語の場面

庁議で黒瀬の実績が認められると、他の課も黒瀬の即答に頼るようになります。檜倉の案件では、疑問を持っていた樫村が担当を外れ、窓口の応援に回りました。起案にも樫村の名前がなくなります。配置が変わった理由を本文だけで決め付けることはできませんが、疑問を知る職員が、案を確認する場から離れたことは読み取れます。

■ 担当者が行うこと

案件ごとに、資料を作る人、内容を確認する人、決裁する人を記してください。人が少ない場合も、案件に応じて関係課に確認を頼みます。担当が替わるときは、引き継ぐ資料と未確認の事項を明記し、元の担当者が挙げた疑問への回答が残っているかを確かめます。

確認する法令・計画・庁内のルールなど

  • 各自治体の決裁規程・職務権限規程:起案、審査、決裁を誰が担当するかと、関係課への確認が必要な範囲を調べます。
  • 各自治体の文書管理規程:起案した人、検討の経緯、判断の根拠を、担当者が替わっても確認できるように残します。
つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら