三層という答え
十二月。六階の会議室に、構造設計事務所の宇津木彰が来ていた。
四十代の後半。市が委託した現況調査の報告である。
宇津木は長机に図面を広げ、長谷と桜井肇が座るのを待ってから口を開いた。
「結論から申し上げます。ただ、その前に三つ、前提を置かせてください」
指を三本立てる。
「一つ。平成十年度の耐震診断を基礎資料として使えること。二つ。その後の劣化や改修の影響が、今回の調査で確認した範囲に収まっていること。三つ。用途は庁舎のままとすること」
宇津木は図面に目を落とした。
「この前提なら、補強によって目標とする耐震性能まで持っていくことは可能です」
桜井が身を乗り出した。
「できるのか」
「構造としては、できます」
長谷は、その言葉に引っかかった。
構造としては。宇津木は、できると言った。しかし、できるとは言い切らなかった。
比較資料が机に並んだ。建替え。移転。通常の耐震補強。制震改修。免震改修。
建替えは、早い段階で残らなかった。必要な事業費が大きい。それだけではない。建替えの間、この人数をどこへ置くのか。そこが解けない。
二十数年分の綴りに残っていた検討と、同じところで止まった。
移転は、資料が最も厚かった。過去に二度検討され、二度とも決まっていない。
用地。駅からの距離。建設費。仮庁舎。市民の来やすさ。
さらに、本庁舎の位置を変えるなら、条例の改正が必要になる。その議決には、出席議員の三分の二以上の同意が要る。
「三分の二だ」
桜井が言った。
「普通の過半数じゃない。ただ、前のときは、そこまで行く前に割れた」
長谷は候補地の一覧をめくった。五つの地区名。どの地区も、自分のところへ来ることを望んだ。他所へ行くことには反対した。議会にかける以前に、まとまらなかった。
免震改修は、宇津木が説明した。
「機能を守るという意味では、有力な方法です」
そのあと、条件を並べた。
「ただし、この建物の場合は地下と基礎に大きく手を入れる必要があります。免震層。設備配管の取り合い。出入口。外構。施工中の使い方も含めて、検討量がかなり増えます」
「無理、ということですか」
長谷が聞いた。
「いいえ」
宇津木は首を振った。
「技術として成立しない、という意味ではありません。青葉市の条件では、費用と施工性の面で選びにくい、ということです」
残ったのは、通常の耐震補強だった。
長谷が聞いた。
「さっき、構造としてはできる、と言いましたよね」
「はい」
「その『構造としては』は、何ですか」
宇津木は一階の平面図を指した。
「一階です」
本庁舎の一階。市民ロビー。総合案内。各種窓口。
上階の重量を、耐震要素の少ない一階で受ける。そこが、この建物の弱点だった。
宇津木は何か所かを鉛筆で囲った。
「素直に補強するなら、このあたりが候補になります」
長谷は図面を覗き込んだ。総合案内の近く。待合の中央。窓口の前。
「ここに壁を入れるんですか」
「壁だけとは限りません。ブレースや外部補強もあります。ただ、必要な補強をそのまま配置すれば、一階の使い方にはかなり影響が出ます」
長谷は図面を見たまま言った。
「窓口が、もたない」
宇津木は頷いた。
「ですから、構造としては、と申し上げました」
安全にすることはできる。しかし、そのやり方によっては、市役所として使いにくくなる。使い方を優先しすぎれば、必要な補強が入らない。
会議室が静かになった。
長谷には、この感覚に覚えがあった。二十数年分の綴りを読んだときと同じだった。
一つずつなら、どの答えも正しい。並べると、成立しない。
宇津木が、しばらく図面を見たあとで言った。
「条件を一つ変えてよければ、別の検討はできます」
桜井が顔を上げた。
「何を変える」
「上部の重量です」
宇津木は断面図を引き寄せた。
「建物の重量が減れば、地震時に建物へ作用する力も変わります。結果として、必要な補強量も変わる可能性があります」
長谷は、すぐには答えなかった。
先月見たものが頭に浮かんだ。使われていない旧電算室。低利用の会議室。残ったままの書庫。
「一層減らしたら」
宇津木は断面図を見た。
「効果はあります。ただ、それだけで一階の問題が大きく変わるとは、今は言えません」
「二層なら」
「検討する価値はあります」
「三層なら」
宇津木は断面図の上から下まで、一度目でなぞった。
「そこまで減らせるなら、補強計画そのものを組み直す意味があります」
桜井が宇津木を見た。
「三層」
「可能性の話です」
宇津木はすぐに付け加えた。
「三層減らせば目標性能になる、と言っているわけではありません。実際に減築したモデルで、もう一度解析しないと分かりません」
「それでも、意味はある」
長谷が言った。
「構造的には、あります」
宇津木はそこで線を引いた。
「ただし、上の三層にある人と機能を、残る階で受けられるかどうかは私には判断できません」
宇津木は構造の答えだけを出した。そこから先には踏み込まなかった。
長谷は、それでよいと思った。ここから先は、構造の問題ではない。
長谷は鞄から資料を取り出した。
秋から続けてきた現況調査の途中結果だった。使用頻度の低い会議室。年に数回しか使わない応接室。組織統合でなくなった課の書庫。重複して保存されている文書。八年前から空のままの旧電算室。
長谷は、それを宇津木ではなく、桜井の前に置いた。
「五階から七階を見ました」
「どうだった」
「空いている部屋は、ほとんどありません」
桜井が資料を見る。
「じゃあ、無理じゃないか」
「でも、余っています」
桜井が手を止めた。
長谷は資料を一枚めくった。
「会議室として使っている。でも月に一度です。書庫として使っている。でも、中には同じものが別の課にもあります。電算室は、八年間使っていません」
「それを全部詰めれば、三層になるのか」
「まだ分かりません」
長谷は答えた。
「今の段階で、三層減らせるとは言えません」
宇津木が横で黙って聞いている。
「ただ」
長谷は続けた。
「これまで、この庁舎をどう補強するかは何度も計算しています。でも、この庁舎に本当に何平方メートル必要なのかは、たぶん計算していない」
桜井が資料から顔を上げた。
宇津木が示したのは、減らすことができれば補強の条件が変わる、という構造側の可能性だった。
減らせるかどうか。それは宇津木の仕事ではない。
長谷は、その問いを引き取った。
その床は、本当に必要なのか。今度は、それを数字にする。
会議が終わり、宇津木が帰ったあと。桜井は資料を鞄に入れながら言った。
「長谷」
「はい」
「三層落とすなんて話を出したら、議会で何て言われると思う」
「庁舎を小さくするのか、だと思います」
「そうだ」
「古い庁舎に金をかけて、そのうえ狭くするのか、と」
桜井は頷いた。
「その説明が要る」
長谷は、机の上の断面図を見た。七階。六階。五階。そこに鉛筆で線が引かれている。
「残すために、減らす」
桜井が手を止めた。
長谷は続けた。
「そう説明できるところまで、まず詰めます」
「言葉だけじゃ通らんぞ」
「分かっています」
「中身を作れ」
「はい」
桜井は鞄を閉じた。止めなかった。
外へ出ると、もう暗かった。
長谷は駐車場から本庁舎を見上げた。七階建て。毎朝、自分が入る建物。
その上三層をなくせるかもしれない。
ただし、まだ答えではない。構造の側から出てきた、一つの可能性にすぎない。
答えにできるかどうかは、これからだった。
この話のFM豆知識
FMの教訓:補強できるかを確かめたうえで、費用、必要な広さ、工事中の業務も確認して案を選ぶ。
◆ この話で扱う仕事
関係するFMの仕事:FM戦略・計画/プロジェクト管理
改修案を選ぶには、耐震性能に加え、必要な部屋を確保できるか、窓口を続けられるか、費用を用意できるかを調べます。使い始めた後の管理や修繕にかかる費用も確認します。上の階を取り除いて建物を小さくする「減築」も、こうした項目を調べて比べる案の一つです。
◆ 専門家の「できる」が、どの条件での答えかを聞く
構造設計者が補強できると答えたら、必要な壁や柱の位置、工事中に使えない場所などを聞きます。その答えを窓口担当、設備担当、財政担当へ渡し、それぞれの仕事にどのような影響が出るかを確かめます。どこまで確認済みで、何がまだ分からないのかを記録してから、案を比べます。
◆ 今と同じ階数や部屋数が必要かを調べる
今の建物のまま補強すると窓口が使いにくくなる場合は、階数や部屋の使い方も検討します。上の階を取り除けば、建物上部の重さは変わります。ただし、耐震性能がどれだけ変わり、どの補強が必要かは構造設計者が確認します。残る階に必要な部屋が収まるかは、各課の利用状況を調べて確かめます。
◆ 物語の場面
宇津木は、構造としては補強できると説明します。しかし、そのまま壁を入れると、一階の窓口が使いにくくなります。そこで、上の三層を取り除く案が出ます。長谷はその場で採用せず、本庁舎に本当に必要な面積を調べることにします。この時点では、減築で必要な仕事を続けられるかは、まだ分かっていません。
■ 担当者が行うこと
案ごとに、必要な条件、未確認のこと、承認を求める相手を書いてください。減築案では、残る建物の強さ、必要な補強、工事中の安全、設備の作り直し方を専門家に確かめてもらいます。建替えなどと比べるときは、比べる年数と提供するサービスをそろえ、工事、解体、仮移転、その後の管理・修繕にかかる費用を同じ項目で計算します。
確認する法令・計画・庁内のルールなど
- 地方自治法・本庁舎の位置を定める条例:移転などで庁舎の位置を変える場合は、条例の変更や議会の議決について、必要な手続きを確認します。
- 耐震診断・耐震改修に関する法令や技術基準:対象の建物にどの基準を使い、どの性能を確保するかを、設計者と所管部署に確認します。
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら
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