空いていない。でも余っている
六月、長谷は営繕課へ図面を借りに行った。
石末堅が、机の上に大判の図面を一綴り置いた。青焼きで、縁が擦り切れている。
「昭和四十五年の完成図だ」
長谷が広げようとすると、石末が手で押さえた。
「これじゃ足りん」
「足りない、って?」
「五十年前にどう建ったかは分かる。今どうなってるかは、これじゃ分からん」
石末は、もう一綴りを引き出しから出した。空調の更新。配管の改修。間仕切りの変更。工事のたびに作られた完成図だった。
ただし、揃ってはいない。年代によって、残り方も違っていた。
「欲しいのは設計図じゃない。今ある建物の図面だ」
長谷は二つの綴りを並べた。昭和四十五年の図面と、平成に入ってからの改修図。同じ三階の、同じ場所。描かれている壁が違う。
「どっちが正しいんですか」
「どっちもだ。時期が違う」
長谷は頷いた。建物は一つなのに、図面の上には何通りもの姿がある。五十年の間に変わったところを拾わなければ、今の本庁舎は見えてこない。
長谷は図面の束を見て、一度考えた。
これを自分で追う意味はない。図面と現場の違いを見るのは、営繕の仕事だ。設備と構造は、なおさらだった。自分がやれば時間はかかる。精度は上がらない。
長谷は、近くにいた乾智也を呼んだ。
乾智也は、三年前に採用された施設技術職だった。
技術職の採用は長く途絶えていた。欠員が限界に近づき、ようやく入った若手である。配属以来、石末と現場を回ってきた。
長谷が調査の話をすると、乾は少し身構えた。
「五十年分、全部ですか」
どうやら、図面を一から起こし直す仕事だと思ったらしい。
「全部は要りません」
長谷は改修図を指した。
「図面と現場が違うところだけ拾ってください」
乾が目を上げた。
「違うところだけ、ですか」
「はい。合っているところまで作り直さなくていい。違うところが分かれば、必要なところだけ現場で確認できます」
「現況図は」
「最後に必要な範囲をまとめればいいです」
乾は改修図の綴りの厚みを、指で測るように見た。
「それなら、追えます」
石末が横から言った。
「配管とダクトは俺が見る。乾はまだ、天井裏で何を見るか分からん」
乾は反論しなかった。二年一緒に現場を回っていれば、それが事実だと分かっている。
長谷は乾に続けた。
「それと、図面がない改修を見つけたら、工事名と場所だけ一覧にしてください。追うかどうかは、そのあと決めます」
「全部探さなくていいんですね」
「全部探すことが目的じゃないですから」
乾が頷いた。
役割が決まった。石末は、構造と設備。乾は、図面と改修履歴。長谷は、建物の中で行われていることを見る。
過去十年の職員数。組織改編の履歴。各室の使われ方。防災棟へ移した機能。
長谷にとっては、馴染みのある調査だった。学校の統廃合でも、公民館の集約でも、建物だけを見て答えを出したことはない。そこに誰がいて、何をしていて、それが本当にその場所でなければならないのか。見るのは、いつもそこからだった。
対象が、今度は自分の庁舎になった。
七月に入って、乾が長谷の席へ来た。
「これ、全部は追えません」
弱音ではなかった。三年この課にいて、図面がどこに、どう残っているかを見てきた人間の判断だった。
古いものは紙。平成の初め頃はマイクロフィルム。最近のものは電子データ。その間が、きれいにつながっていない。
工事の記録はある。図面がない。図面はある。どこまでその通り施工されたのか分からない。
「小さい修繕だと、図面を作らずに終わってるものもあります」
石末は驚かなかった。
「そういうもんだ。だから歩く」
三人で現場へ出た。天井点検口を開ける。パイプスペースを覗く。図面にない配管の分岐がある。あるはずの機器が、もうない。乾が一つずつ書き込んだ。
長谷も同行した。だが、天井裏には入らなかった。入ったところで、石末が何を見ているのかは分からない。
長谷が見たのは、別のものだった。
五階。六階。七階。どの部屋にも、何かが入っていた。空いている部屋は、ほとんどない。
最初は、それだけに見えた。
五階の書庫。棚は埋まっている。だが、表示されている課名はもうない。組織統合で消えた課だった。
六階の応接室。予定表を確認すると、使われるのは年に数回。
七階の会議室。一つの課の専用になっている。月に一度も使わない月がある。
別の書庫では、同じ通知の写しが三つの課にそれぞれ綴じられていた。
長谷は廊下で足を止めた。
空いていない。確かに、全部使っている。少なくとも、何かは置いてある。
けれど、余っている。
「空いていない。でも、余ってるな」
誰に言うでもなく、長谷は呟いた。
その日の夕方。長谷は石末と乾に、調査の目的を一つ増やしたいと言った。
「今の建物を把握するだけじゃなくて、この建物のうち、今の市役所に本当に必要な床がどれだけあるのかも見たいです」
乾が首をかしげた。
「必要って、どうやって決めるんですか」
「まだ決めません」
長谷は答えた。
「使っているか。どのくらい使っているか。ほかで代われるか。人が減っているのか増えているのか。まず、それを並べます」
「基準は、そのあとですか」
「そのあとです」
石末が腕を組んだ。
「面積を触るなら、設備も一緒に見ろ」
「設備」
「部屋だけ減らして、機械が昔のままじゃ意味がない。十八年前の設備をそのまま使ってるところもある」
長谷は頷いた。
「そこは、石末さんにお願いします」
「最初からそのつもりだ」
乾が笑った。
作業は、さらに三つに分かれた。石末は、建物がどう出来ているかを見る。乾は、建物がどう変わってきたかを追う。長谷は、建物がどう使われているかを見る。
同じものを三人で見る必要はない。必要なのは、最後に三つの結果がつながることだった。
長谷は、乾の一覧を受け取る日と、石末から確認結果を聞く日だけを決めた。あとは任せた。
数日後。長谷は一人で五階を歩いていた。
廊下の突き当たりに、鍵のかかった部屋がある。扉の脇には「電算室」というプレートが残っていた。
鍵を開けた。
中は、がらんとしていた。床に架台だけが残っている。
サーバーは平成二十五年、防災棟へ移った。それから八年。この部屋は、何にも使われていない。
架台だけが残った。撤去すれば金がかかる。置いてあっても、誰も困らない。だから、そのままになった。
長谷は部屋を出て、鍵をかけた。
五階の書庫。六階の応接室。七階の会議室。そして、この電算室。
どれも事情は違う。誰かが無駄にしようと思って残したものではない。必要だった時期があった。その必要がなくなったあとも、次の使い方を決める理由がなかった。
長谷は廊下を戻った。
五十年間、建物は変わってきた。組織も変わった。人も減った。仕事の仕方も変わった。防災棟まで増えた。
変わっていないのは、床の方だった。
床が足りないのではない。今も必要なのかを、問い直してこなかった。
この話のFM豆知識
FMの教訓:図面と現場を照らし合わせ、部屋ごとに誰が何のために使っているかを調べる。
◆ この話で扱う仕事
関係するFMの仕事:評価/統括マネジメントのデータ管理
部屋を使っているかを調べるときは、面積と時間を分けます。使える面積のうち、実際に使っている面積の割合が「スペース利用率」です。利用できる時間のうち、実際に使った時間の割合が「スペース稼働率」です。例えば、机や書棚が並んでいても、人がほとんど入らない部屋があります。物が置いてあることと、その広さが今後も必要なことを分けて調べます。
◆ 図面に、改修した場所と現場で違っていた場所を記す
建物を長く使うと、間仕切りや配管、設備が変わります。完成時の図面に加え、その後の工事記録を集め、現場と照らし合わせます。改修の検討を始める段階では、図面と違う場所、まだ見られない場所、追加調査が必要な場所を記しておくと、設計者に次の調査を頼めます。
◆ 使う回数と、他の部屋で代わりができるかを調べる
例えば、なくなった課の書庫が残っていたり、年に数回しか使わない応接室を一課だけで使っていたりする場合があります。置いてある物は今も必要か、会議や応接を共用の部屋で行えるかを担当課に聞きます。使う回数が少なくても、繁忙期や災害時に必要な部屋はあるため、その用途も確かめます。
◆ 物語の場面
石末は、長谷に今ある建物の図面が必要だと伝えます。石末は構造と設備、乾は改修の履歴、長谷は部屋の使い方を調べます。結果を照らし合わせると、書棚や机で埋まっていても、今の仕事には必要のない場所が見つかりました。組織や仕事が変わった後も、以前と同じ広さを使い続けていたのです。
■ 担当者が行うこと
建物、階、部屋に共通の番号や名前を付け、図面、工事記録、利用状況を照らし合わせられるようにしてください。調査日、資料名、確認した人、まだ分からない場所を記します。余っていると判断する前に、繁忙期の使い方、災害時の役割、個人情報を扱う必要、代わりの部屋の広さと利用時間を確かめます。
確認する法令・計画・庁内のルールなど
- 総務省「公共施設等総合管理計画の策定等に関する指針」:施設の数や面積、利用状況、今後の改修・更新の見込みを調べる際に確認します。
- 各自治体の施設台帳・図面管理のルール:工事後に誰が図面を直し、どこに保管し、関係課へ知らせるかを確認します。
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら
一般財団法人 建築保全センター