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第4巻 第11話

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白井の案内で、皆川と田丸は同じ庁舎の別の階へ移動した。

子育て支援課のフロアは、施設台帳が眠っていた資料室とは対照的だった。壁には明るい色のポスターが貼られ、窓口には子育て支援制度のパンフレットや、職員が手作りした案内表が並んでいる。職員と来庁者の声が絶えず、フロア全体に人の動きがあった。

「沖田さん、お元気そうですね」

「白井さん、お久しぶりです」

沖田薫は、四十代前半の子育て支援課主任だった。中肉中背で、服装にも振る舞いにも目立ったところはない。だが、デスクの上には子ども向けのパンフレットや、色分けされた手作りの案内表が整然と並べられていた。

白井が皆川たちの訪問理由を説明すると、沖田は身構える様子を見せなかった。むしろ、懐かしい話を聞いたように表情を和らげた。

「青葉市さんの白書は、最初に見た時、項目が多すぎて、うちでは無理だと思ったんです」

「そのままでは運用できなかった、ということですか」

「はい。だから、早瀬市の人数で回せる分だけ項目を絞りました。判断記録も、うちなりの簡単な形に作り直して」

皆川は、湊原市で津久見から聞いた話を思い出した。

コピーではなく、規模に合わせて作り直す。ここにも、同じ構図があった。

「それは、沖田さんがお一人で作り直されたんですか」

「ほとんど一人でしたね」

沖田は、特別なことではないという調子で答えた。

「最初の二、三年は、それでちゃんと回っていました。項目を減らした分、更新もしやすくなりましたし、施設も私一人で見て回れる数でしたから」

「大変ではありませんでしたか」

「大変ではありましたけど、あの仕事、好きだったんですよ」

沖田は少し笑った。

「データを集めて、施設ごとの状態を並べて、白書にする。性に合っていたんでしょうね」

皆川は、現在の仕事について尋ねた。

「今のお仕事は、どうですか」

沖田の表情が、さらに明るくなった。

「ここにいます」

少し前のめりになりながら、デスクの上のパンフレットを一枚手に取った。

「前の仕事とは全然違いますけど、子育て支援も自分には合っていると思います。相談を受けて、制度につなげたら、その日のうちに『助かりました』と言ってもらえることもあるので」

沖田は、パンフレットを元の位置に戻した。

「あの台帳の仕事が止まったことは、惜しいと思っています。でも、今の仕事を疎かにしてまで続けることはできません。正直、手が回らないです」

責任から逃れようとしている口調ではなかった。

未練がないわけでもない。ただ、今の場所で担うべき仕事を選び、その仕事に誠実であろうとしている。それだけだった。

「沖田さんが異動された後、仕組みを引き継いだ方はいらっしゃったんですか」

沖田は、すぐに答えた。

「いなかったと思います」

「引継ぎ自体は、されなかったんでしょうか」

「資料は残しました。手順も一応、書きました。でも、次に誰が担当するのかまでは決まっていませんでした」

沖田は、少し考えてから続けた。

「私一人で作った仕組みだったので、私がいなくなった後に、誰が見るのかが決まっていなかったんです」

仕組みは、一度、確かに動いていた。

早瀬市の規模に合わせて翻訳され、現場で使える形にまで整えられていた。

だが、担い手は引き継がれなかった。

皆川は、もう一歩踏み込んだ。

「今、戻ってほしいと言われたら——」

「戻らないと思います」

沖田は、皆川が言い終える前に、迷いなく答えた。

「今の仕事の方が、自分には合っていますから」

皆川は、それ以上聞かなかった。

田丸は、沖田が子育て支援について語っていた時の表情を、注意深く見ていた。

後に、田丸はメモにこう残した。

〈沖田さん、子育て支援の話をしている時、本当に満足そうだった。台帳を止めたことへの後ろめたさは、ほとんど感じられなかった。無責任だからではない。今の仕事にも、同じくらい真剣だからだと思う〉

資料室に戻ると、白井が市長交代後の経緯を説明した。

「前の市長が退任したあと、新しい市長が行政の効率化を掲げました。施設台帳の担当も、専任から兼任に変わりました。予算も見直しの対象になって」

「それは、誰かの判断ミスだったということですか」

皆川が尋ねると、白井はすぐに首を振った。

「誰のせいでもないんです。こういうのは」

いつもの白井らしい、断定を避けた淡々とした口調だった。

しかし、その言葉が持つ重さは、これまでの面談で聞いたどの言葉とも違っていた。

誰かが怠けたわけではない。

沖田は、施設台帳の仕事に誠実だった。

異動後は、子育て支援の仕事に誠実だった。

新しい市長も、限られた人員と財源の中で、行政を効率化しようとした。

兼任となった職員も、自身に割り当てられた仕事をこなしていた。

それぞれが、自身の役割を果たそうとしていた。

それでも、仕組みは止まった。

「専任担当を置かなくなった時点で、更新をやめると決めたわけではないんですよね」

「誰も、やめるとは決めていません」

白井が答えた。

「続けるとも、決めませんでした」

その言葉で、皆川には構造が見えた気がした。

仕組みを廃止した人はいない。

ただ、誰が担うかを決めないまま、担当と予算を薄く分散させた。

その結果、全員の仕事になり、誰の仕事でもなくなった。

皆川は、すぐには研究上の言葉に置き換えられなかった。

フィールドノートを開き、これまでとは少し違う書き方で、その日の感触を残した。

フィールドノート 早瀬市・沖田氏/市長交代

沖田氏は、湊原市の津久見氏と同じ役割を果たしていた。

青葉市の仕組みを、早瀬市の人員と施設規模に合わせて作り直した「翻訳者」であり、同時に日々の更新を担う「運用者」でもあった。

そのため、導入後の二、三年間は、仕組みが実際に機能していた。

しかし、担い手は一人しかいなかった。

沖田氏の異動後、資料と手順は残ったが、次に誰が担うかは決められていなかった。仕組みは失われたのではなく、見る人がいなくなった。

沖田氏は、台帳の仕事に愛着を持っている。一方で、現在の子育て支援の仕事にも、迷いなく向き合っている。

無責任でも、

不誠実でもない。

ただ、誠実さを向ける先が、

組織の異動によって変わっただけだった。

市長交代後の「効率化」により、専任担当は兼任となり、予算も見直された。ただし、誰かが制度を廃止したわけではない。

白井氏:「誰のせいでもないんです」

これは責任を曖昧にする言葉ではなく、実務者の実感として響いた。

仮説6:仕組みの定着には、翻訳者が存在するだけでは足りない。役割が個人から組織へ移され、次の担い手が明示されなければ、異動によって運用は途切れる。

追加の問い:誰にも悪意がなく、全員がそれぞれの仕事に誠実であっても、なぜ仕組みは止まるのか。

この話のFM豆知識

FMの教訓:異動する人の仕事を洗い出し、後任と上司が担当・期限・相談先を確かめる。

◆ 一人が引き受けている作業を確かめる

担当者が、資料の更新、他課への確認、問い合わせへの回答を一人で行っている場合があります。本人には日常の仕事でも、周囲がその内容を知らなければ、異動後に誰も引き受けません。引継ぎの前に、毎月の作業だけでなく、問題が起きたときにしている対応も書き出します。

◆ 「皆でやる」を担当者の指定に置き換える

沖田は、青葉市の方法を早瀬市に合う形に直し、その後の作業も担っていました。異動後は、誰が何を引き継ぐかが明確にならず、取組が止まります。廃止を決めた人がいなくても、一つずつの作業を引き受ける人が決まっていなければ、更新や確認は行われなくなります。

◆ 物語の場面

白井は、早瀬市で取組が止まったことを、誰か一人のせいとは考えていません。沖田は異動先で別の仕事を担い、元の仕事の後任が明確にならなかったからです。この場面は、前任者の熱意を当てにするだけでは続かず、上司が業務の分担を決める必要があることを示します。

■ 担当者が行うこと

一人に集まっている作業、判断、庁外との連絡を一覧にし、後任と上司で担当を確認してください。保存先、期限、決裁する人、相談先も記します。異動前に一緒に作業し、異動後に困っていることを確かめる日を決めます。正式な担当と必要な作業時間を、課の仕事として確保してください。
つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら