呼び水
早瀬市役所は、青葉市役所より一回り小さかった。
財政基盤が弱いと聞いていた通り、庁舎のあちこちに、改修の手が回っていない箇所が見える。壁紙の継ぎ目は浮き、ロビーの床には補修跡が残っていた。蛍光灯も、場所によって明るさが違っている。
皆川と田丸がロビーで待っていると、廊下の奥から白井が小走りで現れた。
「皆川さん、田丸さん。お待たせして申し訳ありません」
研究室で見せた砕けた口調とは、まるで違っていた。
姿勢を正し、丁寧に頭を下げる白井を見て、皆川は一瞬、別人かと思った。隣にいた田丸も、目を丸くしている。
「白井先輩、職場だと、印象が全然違いますね」
「そうですか?」
白井は、周囲を一度見回してから答えた。
「ここでは、お二人も一応、調査に来られたお客様ですから」
わざとらしく畏まった表情を作ったあと、白井は少しだけ笑った。
その一瞬だけ、研究室での顔に戻った。
「こちらです。まず、資料を見てもらった方が早いと思います」
白井は二人を庁舎の奥にある資料室へ案内した。
室内には、施設台帳や公共施設白書のファイルが、年度ごとに整然と並べられていた。背表紙の様式は統一され、分類も分かりやすい。少なくとも、外から見ただけでは、管理が止まっているようには見えなかった。
白井が、一冊のファイルを棚から取り出した。
「最初の二、三年は、かなり動いていたんですよ」
過去形だった。
白井は、感情を交えず、事実だけを伝えるように言った。
皆川がファイルを開くと、すぐに異変に気づいた。
施設ごとの利用率、維持管理費、劣化状況。書式は青葉市で見た白書によく似ている。項目の配置も、評価方法も、ほぼ同じだった。
しかし、更新日付の欄が、数年前を最後に途切れている。
「更新が止まったのは、いつ頃からですか」
皆川が尋ねると、白井は少し考えてから答えた。
「市長が替わってからです。正確には、その後に行われた組織改正からですね」
「担当部署が変わったんですか」
「施設マネジメントの専任チームが廃止されました。業務は複数の課に分けられて、それぞれの担当業務の一部として引き継がれました」
「その後、誰も更新しなくなった」
「誰も、というより、全員の仕事になった結果、誰の仕事でもなくなりました」
白井は、淡々とそう言った。
記録そのものは消えていなかった。
表紙も、書式も、評価項目も残っている。青葉市の仕組みを導入しようとした痕跡は、はっきりと読み取れた。
ただ、運用だけが途切れていた。
田丸が、ファイルの背表紙を指先で軽くなぞった。
「表紙はきれいですね」
それから、開かれたページの端を見た。
「でも、中の方は埃をかぶっています」
白井は否定しなかった。
「誰も開かなくなりましたから」
皆川は、その言葉をそのままメモに取った。
早瀬市には、制度も、書式も、記録も残っている。
それでも止まった。
これまで見てきた自治体とは、違う種類の失敗だった。
一度は動いた仕組みが、組織の変化によって、静かに止まっていた。
青葉市の仕組みは、早瀬市で取組を始める呼び水にはなった。
だが、水を流し続ける仕組みまでは作らなかった。
フィールドノート⑨ 早瀬市・到着
白井氏の現任地。
施設台帳・公共施設白書には、青葉市の形式を踏襲した痕跡がある。導入後の二、三年間は実際に更新されていた。
市長交代後の組織改正により、専任チームが廃止され、業務が複数課へ分散。その後、更新が停止した。
記録は消えていない。制度も書式も残っている。ただ、誰も開かず、誰も更新していない。
白井氏:「全員の仕事になった結果、誰の仕事でもなくなりました」
仮説7:制度が根付くためには、仕組みを導入するだけでなく、それを担う主体と責任の所在が維持される必要がある。
確認すべきこと:「一度は根付いたように見えた仕組み」が、なぜ組織改正だけで止まったのか。
この話のFM豆知識
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※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら
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