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第4巻 第9話

二つの目

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この日、皆川と田丸は、湊原市の別々の場所へ向かった。

皆川は津久見のもとへ。田丸は来島のもとへ。

同じ一日、同じ街で起きていることを、異なる角度から見るためだった。

津久見の作業場所は、市役所の一角に設けられた、小会議室を兼ねた部屋だった。

津久見は、RFSC――地域施設支援機構から派遣された専門家である。青葉市の取組を参考に、湊原市に適した公共施設マネジメントの仕組みを構築する業務を受託していると、皆川は事前に聞いていた。

津久見は四十代後半。短く整えられた髪と、無駄のない身なりが、精悍な印象を与えていた。

机の上には、湊原市の施設資料と、青葉市の施設白書のコピーが並べて置かれている。二つを比較しながら作業していたことが、一目で分かった。

「青葉市さんの事例を知ったのは、梶原さんから相談を受けたことがきっかけだったと伺っています」

「そうです。最初に話をいただいた時は、正直、組織の規模が違いすぎて、参考になるのか半信半疑でした」

津久見は、当時の経緯を、時系列に沿って淡々と説明した。

皆川は、事実を確認する質問を重ねた。

「それは、いつ頃のことですか」

「三年ほど前です。最初の半年は、青葉市さんの白書の形式を、そのまま使おうとしていました」

「そのまま使うというのは、フォーマットを変えずに導入しようとした、ということでしょうか」

津久見が小さく頷いた。

「ええ。項目も、情報の粒度も、そのままでした」

「現在も、その業務を担当されているんですか」

「常駐期間は、もう終わっています。今は定着支援という形で、月に数日、通っています」

皆川は、この調査を津久見の支援期間中に実施できたことを、幸運に思った。

制度を導入した当時の事情だけでなく、その後、どのような問題が生じ、どのように修正されたのかまで聞くことができる。

一方、田丸は、旧商店街の一角にいた。

来島礼子と合流し、シャッターの下りた店舗が続く通りを歩いていた。

来島は三十代後半のコミュニティデザイナーである。髪を高い位置でまとめ、ジャケットにワークパンツを合わせていた。現場で動くことを前提にした服装だった。

来島に案内され、かつて店舗だった建物に入る。

中では、浜田一郎が棚の整理をしていた。

「ああ、来島さん。今日は、その方は……」

「調査に来た学生さんをご案内しています。少しお時間をいただいても大丈夫ですか」

「緑丘大学の田丸です。お邪魔します」

浜田は、特に驚いた様子もなく、棚から手を離した。

来島がここを訪れることは、すでに日常の一部になっているらしい。

田丸は、室内を見渡した。

「浜田さん、棚の整理、すごく手際がいいですね。もう何年も、こういうことをされているんですか」

「二年くらいになるかな。最初は何もかも初めてだったが」

奥では、田所和子が帳簿らしきノートに数字を書き込んでいた。

少し離れた場所では、宮地清が、作業用ベストに差した工具を使って、給油設備を点検している。

三人は、それぞれの持ち場で、迷いのない動きを見せていた。

田丸は、浜田、田所、宮地に、順番に話を聞いた。

「浜田さんが代表になられた時のことを、聞いてもいいですか」

「代表なんて柄じゃないと思ってた。でも、誰かが決めなければ何も進まないって、来島さんに言われてな」

田所が帳簿を閉じながら言った。

「私は、祭りの寄付や寄合の会費を、ずっと帳面につけてきたの。お金の管理ならできると思った。それを、来島さんが見つけてくれたのよ」

宮地は、点検の手を止めずに答えた。

「店を畳んだ時は、もう全部終わりでいいと思った。今は、終わらなくてよかったと思ってる」

田丸は、来島に尋ねた。

「最初から、うまくいくと分かっていたんですか」

来島は、迷わず答えた。

「設計してみなければ、分かりません」

一見すると、運に任せるような言葉だった。

しかし、来島は続けた。

「枠を作ったのは私です。でも、その枠の中で何が起きるかは、私が決めることではありません」

「だから、今も来ているんですか」

「ええ。設計したものが、実際にどう動くのかを見ています」

「うまくいかなければ、どうするんですか」

「何が原因かを見て、必要なら設計を変えます」

田丸には、それが「分かるまで、何度でも考え直す」と言っているように聞こえた。

制度を作って終わるのではない。

実際に動く人を見ながら、必要なら枠組みそのものを修正する。

来島が浜田たちを見るまなざしを、あかね先輩に伝えたい。

田丸はそう思いながら、表情や声の変化まで、できるだけ細かくメモに残した。

同じ頃、皆川は津久見との面談を続けていた。

話題は、青葉市のフォーマットを、そのまま使おうとした後の経過に移っていた。

「結局、湊原市の人員では、青葉市さんと同じ項目数を回せませんでした」

「運用できなかった、ということですか」

「そうです。コピーしようとして、できなかった。だから、翻訳する必要がありました」

「翻訳、というのは――」

皆川は、そこで言葉を止めた。

自分の問い方が、津久見の話し方に似てきていることに気づいたからだ。相手の使った言葉をそのまま受け取るだけでなく、その意味を確認するようになっていた。

「骨格だけを残し、湊原市に合わせて内容を組み替えた、ということでしょうか」

「近いと思います」

津久見は、机の上に置かれた二つの資料を見比べた。

「青葉市さんで機能していたものの中から、何を残し、何を削るかを考えました。項目を減らし、手順を簡略化し、担当者が少なくても続けられる形に変えた」

「現在は、その仕組みが定着したと評価されていますか」

「正直に言えば、これが湊原市のゴールでいいのか、今でも時々分からなくなります」

その「分からない」は、判断を避ける言葉には聞こえなかった。

今ある仕組みを完成形だと決めず、さらに良い答えがある可能性を残す言葉だった。

皆川は、発言だけでなく、そう感じたこともノートに記した。

夜、皆川と田丸は、宿泊先近くの食堂で合流した。

二人は向かい合って座り、それぞれの一日を報告し合った。

「先輩、これ、ただの偶然じゃないですよね」

田丸が、いつもより慎重に言葉を選びながら言った。

「何が?」

「津久見さんと来島さんです。やっていることは違うけど、どちらも、作って終わりじゃない」

皆川は頷いた。

「津久見さんも、青葉市の仕組みをそのまま持ってきたわけじゃなかった。湊原市に合わせて翻訳して、その後も定着を支援している」

「来島さんも言ってました。枠が機能するかどうかは、作った時点では分からない。だから、今も見続けているって」

二人は、しばらく黙った。

皆川が、先に言葉にした。

「津久見さんは、青葉市の仕組みを、湊原市で動く形に変えた。来島さんは、地域の人が役割を担える枠を作って、実際にどう動くかを見続けていた」

「少なくとも、湊原市には、その二人がいたんですね」

「そうだね」

田丸が、少し勢いづいて続けた。

「では、他の自治体でも同じなんでしょうか。翻訳する人と、担い続ける人。その両方がいないと、知見は根付かないとか」

皆川は、すぐには頷かなかった。

「まだ分からない」

田丸の表情が、わずかに曇った。

「湊原市の一事例だけで、そこまで一般化するのは早いと思う」

「でも、可能性はありますよね」

「可能性はある。ただ、今はまだ仮説だと思う」

田丸は少し残念そうに見えたが、それ以上は反論しなかった。

二人はその夜、初めて、一つのフィールドノートを共同で書いた。

フィールドノート⑧ 皆川・田丸共同記述

湊原市における知見の伝播は、制度のコピーではなく、地域の条件に応じた翻訳だった。

津久見氏は、青葉市の仕組みから骨格を抽出し、湊原市の人員や組織に合わせて簡素化した。その後も定着支援を続けている。

来島氏は、住民が役割を担える枠を設計し、その枠が実際に機能するかを現在も観察している。必要があれば、設計を修正する意向を持っている。

両者に共通するのは、導入や設計を完了と捉えず、その後の運用を見続けている点である。

仮説6:知見が根付くためには、地域の条件に合わせて翻訳する過程と、運用後も修正を続ける過程が必要なのではないか。

ただし、湊原市の一事例だけで一般化することはできない。反証事例の確認が必要。

今日、初めて二人で一つのノートを書いた。

この話のFM豆知識

(豆知識は準備中)

つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら