千々岩・宮野
この日は、市長室の隣にある小会議室を訪ねることになっていた。
住民説明会を終えたばかりだという宮野(四十代後半・企画政策課)が、資料の束を抱えて現れた。会場でパネルでも運んでいたのだろう。スーツの肩には細い埃が一本、線を引くように付いていた。
少し遅れて、千々岩(六十代前半・市長室秘書担当)も姿を見せた。事前に調べた経歴からは厳格な人物を想像していたが、実際は穏やかな物腰だった。
「お待たせしてすみません。さっきまで説明会の片付けをしていまして」
宮野は椅子に腰を下ろすと、大きく息をついた。
皆川は、まず宮野に尋ねた。
「住民説明会というのは、頻繁に行われるものなんですか」
「施設の統廃合が絡む時は必ずやります。毎回反応が違うので、何度やっても慣れませんね」
「答えに決まった型は、ないということですか」
宮野が答えるより先に、千々岩が口を開いた。
「毎回答えは違います。同じ説明をしても、地区によって聞かれることが全然違いますから」
「住民の関心が、地区ごとに違うということですか」
「そうですね。子育て世帯が多い地区と、高齢者が多い地区では、同じ施設でも心配される理由が違います」
皆川はフィールドノートの余白に書き留めた。
――千々岩氏。抽象論ではなく、具体例で説明する人。
皆川は話題を変えた。
「折原さんから、判断記録制度について伺いました。こうした説明会でも活用されているのでしょうか」
「もちろんです」
宮野が頷いた。
「前回、この地区で何を聞かれて、どう答えたか。その記録があるから、毎回ゼロから考えなくて済むんです」
少し笑って続けた。
「正直に言うと、記録があることで、私たち自身もかなり助けられています」
宮野は抱えていた資料の中から一枚を取り出した。
説明会で配布した資料だった。
表紙の下に、小さく一行だけ注記が入っている。
「この資料、何のために作ったかを、必ず一行だけ書くようにしているんです」
皆川は資料を見つめた。
「内容ではなく、作った理由を残すということですか」
「そうです。資料って、何年か経つと、どうして作ったのか忘れられるんですよ。内容だけ残ると、後から読む人が誤解することもあります。だから、この一行が意外と効くんです」
皆川は、長谷の「更新」、折原の「判断記録」と並べて考えた。
現状を更新する。
判断を残す。
そして、その判断を説明するための資料には、作成理由まで残す。
別々に見えていた取組が、一つの流れとしてつながり始めていた。
その時だった。
千々岩が、世間話でもするような調子で口を開いた。
「最近は、ほかの自治体さんからも、ちょこちょこ声を掛けられるんですよ」
皆川の手が止まった。
横で田丸も顔を上げている。
「湊原さんなんか、よく似たことをやっている市ですね」
「……湊原市ですか」
「ええ。詳しくは知りませんけど、似たような仕組みを、もっと小さい規模でやっていると聞いたことがあります」
皆川と田丸は顔を見合わせた。
皆川が静かに尋ねる。
「青葉市さんから、何か働きかけをされたんでしょうか」
「いえ。うちが教えたわけじゃありません」
千々岩は首を振った。
「向こうがどこかで知って、自分たちでも試してみたんでしょう。メルマガだったか、講演だったか、そのあたりだったと思います」
何気ない口調だった。
だが、皆川には、この日一番重い言葉だった。
長谷が言った、
「向こうから勝手に連絡してきます」
その意味が、初めて具体的な姿を持った。
知見は、誰かが計画的に広めたのではない。
どこかで知った誰かが、自分の自治体で試そうとした。
田丸が、小さく皆川へ視線を送った。
皆川も無言で頷く。
「湊原市について、ほかにご存じのことはありますか」
「いえ。それくらいですね」
千々岩は笑った。
「私も詳しいわけではありません」
面談は、その後、住民説明会での具体的なやり取りへ戻った。
しかし皆川の頭の中では、青葉市だけだった調査対象が、静かに広がり始めていた。
役所を出ると、駅前のベンチで二人は足を止めた。
田丸が先に口を開いた。
「先輩……これ、青葉市だけ調べるつもりだったのに、湊原市まで出てきましたね」
「うん」
皆川は頷いた。
「調査範囲を広げた方がいいかもしれない」
長谷。
折原。
宮野。
千々岩。
まだ、響矢と石末への聞き取りも残っている。
そこへ、新たに湊原市という調査対象が加わった。
一人で追うには、時間が足りない。
田丸がスケジュール帳を開いた。
「あかね先輩は予定どおり石末さんに会ってください。響矢さんは明日も時間が取れるはずです」
少し笑って言う。
「私、一人で行ってきます」
皆川は少しだけ迷った。
これまで、調査はいつも一人で進めてきた。
誰かに任せるという発想が、まだ十分に身についていない。
だが、田丸の表情には迷いがなかった。
「お願いできる?」
「もちろんです。先輩は湊原市の準備もしないといけませんから」
皆川は頷いた。
これが、この調査で初めての分担だった。
その夜、皆川はフィールドノートを開いた。
宮野の話を書き留める。
説明会資料には、「何のために作ったか」を一行記す運用がある。内容だけでなく、作成理由まで残す仕組みだった。
長谷の「更新」、折原の「判断記録」と合わせれば、知見を継承する一つの流れが見えてくる。
千々岩の言葉も、忘れないうちに書き加えた。
「湊原市」という自治体名が、初めて出てきた。
青葉市側は知見を積極的に広めてはいない。
「うちが教えたわけじゃありません」
それは、長谷の「向こうから勝手に連絡してきます」という言葉と重なっていた。
知見は、制度として配布されたのではなく、自治体同士が自発的に学び合う中で伝わっているのかもしれない。
次の調査対象に、湊原市を加える。
そして今日から、調査を分担することにした。
響矢への聞き取りは田丸。
石末への聞き取りは、皆川が担当する。
この話のFM豆知識
FMの教訓:他の自治体と資料を共有するときは、作った理由と、使える条件も伝える。
◆ 資料の数字と作った理由を説明できるようにする
施設の状態を調べる人、費用を計算する人、判断を記録する人が別なら、それぞれの資料がどこにあるかを共有します。問い合わせに答える人は、数字の根拠や、様式を作った理由を確認できる必要があります。資料に理由を一行添えることも、後から説明する人の助けになります。
◆ 研修会以外で教わったことも持ち帰って確かめる
他の自治体の仕事を知るきっかけには、公式の研修会や視察のほか、職員同士の問い合わせや勉強会もあります。そこで教わった方法を自分の仕事に使うときは、相手の職員数、施設数、決裁の手順を聞き、自分の自治体との違いを確かめます。
◆ 物語の場面
宮野は、説明会資料に作成理由を一行残す運用を紹介します。千々岩は、湊原市の取組について、自分たちが教えたわけではないと話します。この二つの話から、皆川たちは、資料が誰に渡り、受け取った人がどのように使ったのかを調べるようになります。
■ 担当者が行うこと
問い合わせや勉強会で、どの困り事に対して何を説明したかを残してください。資料を渡すときは、作成日、作った理由、使った条件、まだ解決していない点も伝えます。教わった方法を取り入れるときは、関係課と内容を確認し、実施する担当と承認する人を決めます。
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら
一般財団法人 建築保全センター