折原
判断記録制度を所管する部署は、長谷のいる資産経営部とは別の階にあった。
表札には、「企画政策課」とだけ記されている。
皆川と田丸が通されたのは、四人ほどで使う小さな会議室だった。
折原悠斗は、約束の時間より十分ほど早く現れた。
四十代半ば。制度紹介のウェブサイトに掲載されていた写真よりも、顔立ちの角が取れ、落ち着いた印象を受ける。ワイシャツの上に、グレーのカーディガンを羽織っていた。
差し出された名刺には、「企画政策課課長補佐」とある。
皆川が研究の概要を説明し終えると、折原は静かに頷いた。
「判断記録制度について調べていらっしゃるんですね」
「はい。制度を導入した後、どのように運用されてきたのかを伺いたいと思っています」
皆川は、長谷にも尋ねた問いから始めた。
「制度を運用する中で、最も大事だと感じていることは何でしょうか」
折原は、すぐには答えなかった。
考えているというより、複数ある答えの中から、今伝えるべき言葉を選んでいるように見えた。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「結果ではなく、判断そのものを残すことだと思います」
「結果ではなく、判断を残す」
折原は手元のファイルから一枚を抜き、皆川の方へ向けた。
用紙には、施設名、作成日、判断の結論、短い経緯が記されている。
「修繕したのか、廃止したのか、複合化したのか。結果だけなら、施設白書を見れば分かります」
折原は、用紙の中央を指した。
「でも、なぜその時に、その判断をしたのか。どの情報を見て、何を優先したのか。それが残っていなければ、次に似た状況を担当する人が、また同じところから悩むことになります」
皆川は、その言葉をメモに取りながら、もう一段踏み込んだ。
「具体的には、どのような形で残しているんですか」
「判断記録票という様式を使っています。長谷さんの部署が更新している施設情報と、財政課が持つ維持費や将来負担の数字を横断的に確認して、何を優先して判断したのかを一枚にまとめます。最終的に承認した職員の役職と氏名も記録します」
「制度としては、いつ頃から始まったのでしょうか」
「十年ほど前です。最初の頃は、どの案件を対象にするか、何を記載するか、誰が承認するか。それを決めるだけで、随分時間を使いました」
折原は、手元の記録票に視線を落とした。
「今は、項目を細かく整えることよりも、書くこと自体を止めない方が大事だと思っています」
隣でノートを取っていた田丸が、小さく頷いた。
皆川には、折原の説明が、これまで読んできた制度資料よりも、はるかに具体的に思えた。
様式や保存年限ではなく、制度が何を防ぐために存在するのかが、言葉の中にはっきり表れていた。
「書くことを止めない、という姿勢が、特に問われるのはどのような時ですか」
「担当者が替わる時です」
折原は、迷わず答えた。
「新しい担当者が過去の判断記録を読めば、なぜ今の状態になっているのかが分かります。読まなければ、また一から同じ資料を探して、同じ議論を繰り返すことになります」
「記録があるだけでは、足りないということですか」
「はい。見つけられて、読まれて、判断に使われて初めて、残っていると言えると思います」
皆川は、ペンを止めた。
長谷は、施設の情報を更新し続けていた。
折原は、その情報を使って下された判断の理由を残していた。
別々の取組ではない。
現状を更新し、その時点での判断を記録し、次の担当者が再び使う。二つの仕組みが、循環するようにつながっていた。
面談を終え、二人は礼を告げて会議室を出た。
廊下を歩きながら、田丸が口を開いた。
「先輩、今日の折原さんの話、かなり具体的でしたね」
「うん。長谷さんの部署とも、この後に伺う財政課とも、つながっていると言っていた」
「結果じゃなくて、判断を残す、ということですよね。データだけ残っていても、なぜその結論になったのかが分からなければ、次の人は使えない」
「そうだね」
皆川は頷いた。
これまでフィールドノートに書き留めてきた断片が、少しずつ一つの構造に近づいている感覚があった。
その夜、皆川はフィールドノートを開いた。
フィールドノート③
対象:折原氏
所属:青葉市企画政策課
主要発言:
「結果ではなく、判断そのものを残す」
制度の概要:
判断記録票という具体的な様式が存在する。
施設情報の更新データ、維持管理費、将来負担などを横断的に確認し、何を優先して判断したのかを一枚にまとめる。結論だけでなく、判断理由、参照した情報、承認者を記録する。
考察:
施設白書が示すのは、「現在、施設がどうなっているか」である。
判断記録票が残すのは、「その時、なぜその結論を選んだか」である。
担当者が替わっても、過去の判断理由を確認できれば、同じ調査と議論を一から繰り返さずに済む。
長谷氏の「更新を止めない」と、折原氏の「判断を残す」は、別々の仕組みではない。
現状を更新し、判断理由を記録し、次の担当者がそれを使う。
仮説3:
知見が根付くためには、情報を更新する仕組みだけでなく、判断理由を次の担当者が利用できる形で残す仕組みが必要である。
追加確認事項:
折原氏は「見つけられ、読まれ、使われて初めて、残っていると言える」と述べた。
記録の作成だけでなく、検索・閲覧・利用まで含めた運用が、制度定着の条件である可能性がある。
隣で田丸が、その一文を覗き込んでいた。
「先輩の考え方って、いつも整理されてますね。私も、こんな風に書けるようになりたいです」
皆川は、少し照れくさくなったが、悪い気はしなかった。
この話のFM豆知識
FMの教訓:判断の記録は、必要な人が探し出し、決めた理由を読み取れる形で保存する。
◆ 決めたことと、その理由を一緒に残す
例えば修繕を見送った場合、「今年度は実施しない」という結論だけでは、後任は理由を判断できません。建物の状態、比べた案、費用、見送った理由、その間に行う対応、再検討する時期を残します。後任は当時の条件と今の条件を比べ、同じ対応を続けてよいかを考えられます。
◆ 必要な記録を探せるようにする
記録を保存するときは、施設名、案件名、判断した日などから探せるようにします。根拠となった調査や見積りの保存先も記します。担当者だけが知るフォルダや個人の机に置いたままでは、別の人が必要なときに使えません。
◆ 物語の場面
折原は、結果だけでなく、どう判断したかを記録することを説明します。また、記録は見つけられ、読まれ、判断に使われる必要があると語ります。判断記録票を残す仕事には、記入のほかに、後任が探して内容を理解できるようにする仕事も含まれています。
■ 担当者が行うこと
過去の案件を一件選び、別の職員が記録を探し、決めた理由と再確認すべき条件を読み取れるか試してください。承認した記録と後日の追記は区別し、変更日と変更者を残します。記録を開いた回数だけで良否を決めず、必要な場面で探せて使えたかを確認します。
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら
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