長谷
青葉市役所の管財課は、ロビーから離れた庁舎の奥にあった。
エレベーターを降りると、案内表示の文字が少し褪せている。皆川は表示を追いながら廊下を進み、ようやく受付を見つけた。
「長谷さんに、お約束をお願いしています」
受付でそう告げ、田丸と並んで待った。
しばらくすると、廊下の奥から足音が近づいてきた。
カツ、カツ、と一定の間隔を保った、硬質な足音だった。
現れたのは、四十代半ばに見えるスーツ姿の男性だった。差し出された名刺には、「資産経営部長」という肩書きが小さく刷られている。
足元には、使い込まれた革靴。紐は、商品見本のように丁寧に結ばれていた。
事前に目を通していた庁内報には、作業着姿で現場に立つ写真が載っていた。掲載時から役職が変わったのだろう、と皆川は思った。
「お待たせしました。長谷です」
皆川は名刺を渡し、研究の概要を簡潔に説明した。
二、三の言葉を交わした後、長谷は二人を応接室へ案内した。テーブルの上には、すでに数冊のファイルが用意されていた。
「施設白書を、お見せできる範囲でということでしたので」
長谷が白書の最新版を開いた。
施設ごとに、利用率、維持管理費、老朽化の状況が整理されている。皆川はページをめくりながら、記録の細かさに目を見張った。
「これだけの情報を、今も更新し続けているんですね」
「更新するのが仕事なので」
長谷は、当然のことのように答えた。
皆川は事実関係を確認しながら、質問を続けた。
「白書は、長谷さんが中心になって作成されたと伺っています。作成や運用の中で、最も大事にされていることは何でしょうか」
長谷は少し考えてから答えた。
「計画を作るのは、確かに大変でした。ただ、一番大事なのは、更新を止めないことです」
「更新を止めない、というのは」
「個別施設計画は、作った瞬間から古くなっていきます。屋根の傷み具合も、利用率も、毎年変わる。だから年に一度、現状を見直して、新しい数字を反映させます。それだけのことですが、大事です。これをやっていない自治体は、案外多いんです」
皆川は、その言葉をできるだけ崩さずに書き留めた。
隣では、田丸もいつもより慎重にノートを取っている。
「更新の結果、施設の優先順位が変わることもありますか」
「よくあります。前回の調査では修繕で済むと考えていたものが、最新の調査では更新が必要な状態になっていることもある。現状を反映しなければ、優先順位が現実から外れていきます」
「その取組は、どなたかの方針や指示で始まったのでしょうか」
長谷は、わずかに間を置いた。
「……いえ。誰かが決めたというより、気づいたら、そういう習慣になっていました。見て学ぶ、というやつです」
そう言って、軽く笑った。
おかしさからではなく、何かを懐かしむような笑みに見えた。
皆川は、「見て学ぶ」という言葉について掘り下げようとした。しかし、その前に長谷が話題を戻した。
「青葉市の取組が、ほかの自治体へ広がっているか、というお話でしたね。よその自治体から問い合わせを受けることは、よくあります」
「青葉市の取組を参考にしたい、という問い合わせですか」
「そうですね。ただ、うちからは何も宣伝していません。向こうから勝手に連絡してきます」
謙遜しているようにも、迷惑がっているようにも聞こえなかった。
長谷は、単なる事実として話していた。
「青葉市として、特に外部へ情報発信しているわけではない、ということですか」
「していません」
それでは、相手はどこで青葉市の取組を知ったのだろう。
皆川はフィールドノートに、「発信していないのに、なぜ問い合わせが来るのか」と書いた。
今は答えを急がず、話を先へ進めることにした。
長谷が白書をめくり、後半のページを示した。
改修履歴の欄には、何年も前の判断と、その後に加えられた更新の跡が残っている。
「古い記録は消した方がいい、という話が出たこともあります。昔の失敗を、いつまでも残しておくのは格好が悪い、と」
「消さなかったんですね」
「残しました。特別な理由があったわけではありません。消す手間の方が面倒だった、というだけかもしれません」
そう言ってから、長谷は少し付け加えた。
「昔、上司によく言われました。『見えなかった穴が見えたのなら、次は埋めればよい。穴があることも知らずに進むより、はるかにましじゃ』と」
皆川は、その言葉を一言一句、丁寧に書き取った。
十年以上前の、誰かの言葉。
それが今も、この部署の判断基準として生き続けている。
「その方は、今もこちらに?」
「いえ。もう随分前に、退職しました」
長谷は、それ以上を語らなかった。
その後も質疑は続いた。
皆川は、準備してきた質問を一通り終えたことを確認し、礼を述べて応接室を出た。
別れ際、長谷が革靴の紐を、もう一度きゅっと結び直していた。
田丸は、その仕草を見逃さなかった。
「先輩、見ました?」
庁舎を出たところで、田丸が言った。
「話の内容とは関係ないですけど、長谷さんの靴紐、すごく丁寧に結んでいましたよね。きっと几帳面な人なんですよ」
皆川はフィールドノートの隅に、小さく書き加えた。
――長谷氏。几帳面な人物かもしれない。意味があるかは不明。観察事実として記録。
駅へ向かう道で、田丸が再び口を開いた。
「先輩。あれだけ問い合わせを受けているのに、『うちは何もしてませんよ』って。少し引っかかりませんでした?」
「うん。でも、今はまだ、長谷さんの言う『向こう』が誰なのか分からない。だから、いったん置いておく」
「なるほど、そうなんですね」
皆川は、田丸の口真似に思わず笑った。
その夜、皆川はフィールドノートを開いた。
長谷の言葉を、もう一度書き出す。
「一番大事なのは、更新を止めないこと」
優れた制度や計画そのものではなく、現状を毎年確認し、数字と優先順位を書き換え続ける運用こそが、取組を定着させる鍵なのかもしれない。
仮説を、そう書き改めた。
気になることも残った。
「うちからは何も宣伝していません。向こうから勝手に連絡してきます」
長谷のいう「向こう」が誰を指すのか、なぜ青葉市の取組を知っているのかは、まだ分からない。
答えが出るまで、そこには触れずにおくことにした。
この話のFM豆知識
FMの教訓:施設のデータは、誰が、いつ、何を直すかを決めて更新する。
◆ 工事や利用方法の変更をデータに反映する
施設の情報を一か所に集めても、内容が古ければ、修繕や予算の判断を誤ることがあります。例えば、修繕が終わったのに故障中のまま記録されていたり、利用時間が変わったのに以前の利用条件で比べていたりする場合です。データを作る仕事と、その後に直す仕事を分けて決めます。
◆ 入力する人と確認する人を決める
例えば、工事が終わったら担当課が工事内容と費用を入力し、管理担当が確認する、と決めます。利用者数のように定期的に集める項目は、報告日を決めます。更新担当者が休んだり異動したりしても、別の担当者が保存先を開き、内容を直せるようにします。
◆ 物語の場面
長谷は聞取りの中で、更新を止めないことが一番大事だと語ります。また、自分たちから宣伝していなくても、他の自治体から問い合わせが来ると話します。皆川たちは、青葉市で情報が更新される仕事と、その方法が他市へ伝わる経緯を調べていきます。
■ 担当者が行うこと
項目ごとに、入力する課、更新する時期や出来事、確認する人を決めてください。いつの情報か、何を根拠に入力したか、何を変更したかも残します。重要な変更は年度末まで待たずに反映します。予算要求や工事の検討時に、担当者が最新の情報を取り出せるかを確かめてください。
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら
一般財団法人 建築保全センター