成功自治体
一つの自治体を訪れるたびに、答えが少しずつ積み上がっていくことになるとは、この日の皆川はまだ知らない。
緑丘大学のキャンパスには、新しい棟と古い棟が混在していた。
公共政策学部棟は比較的新しく、ガラス張りの廊下からは、整備されたばかりの中庭が見渡せる。蓑輪研究室があるのは、その三階の角だった。
ゼミ室の中央には、年季の入った大テーブルが据えられている。研究室自体の歴史は浅いはずなのに、そのテーブルだけは妙な存在感を放っていた。
皆川茜、二十九歳。博士課程二年。
皆川はいつもの席でノートパソコンを開き、研究計画書を表示させたまま、蓑輪の様子をうかがっていた。前職時代からの習慣で、真っ直ぐに伸びた長い髪を、今日も後ろで一つにまとめている。動きやすさを優先したパンツスーツ姿には、社会人だった頃の名残があった。
「先生、よろしいでしょうか」
蓑輪がほかのゼミ生との話を終えたタイミングを見計らい、皆川は声を掛けた。
蓑輪直人、三十八歳。准教授。
眼鏡の奥の目は、いつもわずかに笑っているように見える。軽いジャケットを羽織った姿には、年齢より若々しい印象と、研究者らしい堅実さが同居していた。
皆川は蓑輪の向かいに座った。
「中間報告をまとめてみたんですけど」
ノートパソコンを蓑輪の方へ向ける。
画面には、「自治体間における公共施設マネジメント知見の伝播に関する研究」というタイトルが表示されていた。
つまり、ある自治体で生まれた考え方が、別の自治体へどう伝わり、そこで使われ続けるのか。
「拝見します」
蓑輪は画面に目を通したが、すぐには感想を口にしなかった。
しばらくして、ゆっくりと問いかけた。
「皆川さんは、この研究で何を確認したいのでしょうか」
直接的な問いだった。
皆川は一度、言葉を探した。
「……知見が、本当に根付くかどうかです」
「根付く、というのは」
「制度や仕組みが導入されただけで終わらず、その後も組織の中で生き続けるか、ということです」
蓑輪が小さく頷いた。
「では、まず前提を聞かせてください。今、多くの自治体が抱えている問題とは、どういうものでしょう」
おそらく、皆川自身の言葉で語らせるための問いだった。
皆川は、自分の言葉で答えた。
「高度経済成長期に集中して整備された公共施設が、今、一斉に老朽化を迎えています。人口は減少し、財政にも限りがある。これまでのように、すべての施設を維持し続けるという前提は、もう成り立ちません」
「ええ」
「ほとんどの自治体は、公共施設等総合管理計画をすでに策定しています。計画があること自体は、もう当たり前なんです」
「では、何が問題なのでしょう」
「計画が存在することと、それが現場で機能し続けることは、別の問題だと考えています」
皆川は、一度言葉を切った。
「担当者が変わる。市長が変わる。そうして数年後には、計画が形だけのものになっている。私は、そういう例を見てきました」
「それは、ご自身の経験と関係がありますか」
蓑輪は、変わらない柔らかな声で、皆川の研究の原点に踏み込んだ。
「……はい」
皆川は前職での出来事を思い出しながら答えた。
「コンサルティング会社にいた頃、ある自治体の施設再編計画を納品したことがあります。きれいにまとめることができた報告書でした。成功事例としても評価されました」
「それで」
「数年後、別の人から聞きました。その計画は、もう使われていない。実態に合っていなかった、と」
皆川は画面に表示された計画書へ視線を落とした。
「私が見ていたのは、計画が完成した直後の、一番きれいな一瞬だけだったんです」
蓑輪は、否定も同情もしなかった。
「それが、皆川さんの原点なのですね」
そして、そのまま研究テーマの核心へ踏み込んだ。
「では今回は、その逆を見たいということですね。計画が根付いた姿を」
「はい」
「根付いたと言うためには、何を確認できればよいのでしょう」
皆川は、すぐには答えられなかった。
根付いたかどうかを、何によって測るのか。それこそが、この研究で最も難しい部分だった。
「……まだ、うまく言葉にできません」
「なるほど。そうなのですね」
皆川は、自分の口癖が出たことに、少し遅れて気づいた。
あれだけ考えて絞り出した答えの後に、一番軽い言葉が返ってきたからだ。
蓑輪は問いを重ねるのをやめた。
「場所を変えましょうか」
蓑輪の個室はゼミ室の隣にあり、扉一枚で直接出入りできた。
紙の資料は少なく、デスクの上にはタブレットとノートパソコンが並んでいる。
「対象は決めていますか」
蓑輪が椅子を引きながら聞いた。
「正式な依頼はまだしてないんですが……自治体FMの関係者の間で、名前が挙がっている自治体があります」
「どこですか」
「青葉市です」
皆川は、現時点ではメルマガや業界内の口コミで耳にした程度の情報であることを丁寧に補足した。正式な実証研究は、まだ存在していない。
蓑輪は、しばらく黙って説明を聞いていた。
それから、いつものように問いを口にした。
「成功自治体なのですね。それは、青葉市だから起きたことなのでしょうか。それとも、条件が揃えば、ほかの自治体でも起きることなのでしょうか」
軽い問いではないことは、すぐに分かった。
「今のお話だけでは、まだ分かりませんね」
蓑輪は続けた。否定ではなく、条件を問う言い方だった。
「行ってみないと、分かりません」
皆川は答えた。
「そうですね」
蓑輪は、画面上のスケジュールを確認するような動きを見せた。
「ただ、行く前に、何を確認しに行くのか。それを今日のうちに固めておきましょう」
「発見するのではなく、確認する、ということですね」
皆川は、自分の立場を言葉にして同意を求めた。
「ええ。皆川さんは、発見者ではなく、検証者です」
その答えによって、皆川の研究上の立ち位置が、一段はっきりした。
その夜、皆川は使い込まれた手帳型のフィールドノートを開いた。
そこに、次のように書き込んだ。
フィールドノート①
対象:青葉市
情報源:業界内の評判。正式な調査文献なし。
仮説1:青葉市には、他自治体にはない特別な成功要因が存在する。
確認すべきこと:
①誰が
②何を
③なぜ続けてきたのか
一つでも「青葉市だから」という説明だけでは捉えきれない要素があれば、仮説は崩れる。
ゼミ室に戻ると、田丸結衣が大テーブルの隅で、リュックからノートを取り出しているところだった。
二十二歳。修士課程一年。
背は皆川より少し低く、ショートカットの髪が、動くたびに小さく跳ねる。リュックには、大学のロゴが入ったキーホルダーがいくつもぶら下がっていた。
「あ、茜先輩。お疲れさまです」
「お疲れさま、田丸さん」
「あ、それで先輩、聞いてください。さっき資料整理が終わったので、蓑輪先生に提出したんですけど……」
田丸が、いつもの早口で要点から話し始めた。
皆川は最後まで丁寧に聞いた。
その後、自分の研究の出発点についても、田丸に簡潔に説明することにした。
「……つまり、制度そのものではなく、作られた制度が、その後も続くかどうかを見たいということですか」
田丸が、彼女の言葉で言い換えた。
「なるほど。そういうことだね。蓑輪先生への説明は、田丸さんに任せればよかったかな」
皆川が笑うと、田丸も笑った。
「今度は呼んでください。それで、対象は青葉市ですか」
「まだ噂の段階だけど、そう決めた。来週、行ってみることにした」
田丸の表情が、わずかに動いた。
「……あの、先輩。私もついて行っていいですか」
皆川は、意外に思って田丸を見た。
「田丸さんの担当、ほかにもあったよね」
「それは後でも大丈夫です。一度くらい、先輩がヒアリングをしているところを見てみたくて」
その言い方には、どこか照れを隠すような響きがあった。
皆川は、それ以上は聞かなかった。
「分かった。じゃあ、一緒に行きましょう」
この話のFM豆知識
(豆知識は準備中)
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら
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