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第4巻 第5話

響矢

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ヒアリング先を一人で訪ねるのは、田丸にとって初めてだった。

受付で名乗り、少し緊張しながら待っていると、財政課長の響矢(四十代前半)が、自らロビーまで迎えに来た。

きちんと着こなしたパンツスーツに、無駄のない所作。眼鏡がよく似合う人だと田丸は思った。

「田丸さん、ですよね。皆川さんからお話は伺っています」

響矢は、忙しそうな課内を落ち着いた足取りで歩き、自席へ案内してくれた。

デスクの上には紙の資料がほとんどない。

画面を見ながら仕事をする人なのだ、と田丸はすぐに感じた。

「今日は、共有ファイルについて伺いたくて」

「ああ、あれですね。お見せします」

響矢は画面を田丸の方へ向け、一つのファイルを開いた。

一見すると、ごく古い形式の表計算ファイルだった。

シート名は年度だけが並び、一番古い年度は、長谷が管財課へ異動してきた頃まで遡っているという。

施設ごとの維持費、修繕費、更新費、複合化した場合の比較などが、年度ごとに積み重ねられていた。

「これ、長谷さんの更新データと連動しているんですか」

「ええ。長谷さんの部署で施設情報が更新されると、こちらで維持費や将来負担を計算し直します」

「毎年ですか」

「毎年です」

響矢は画面から目を離さないまま答えた。

「計画に数字がなければ、最後は声の大きい人の意見で決まってしまいます。だから、修繕した場合、更新した場合、それぞれの費用を計算します。LCC――ライフサイクルコスト。建設から維持管理、更新までにかかる総費用――も含めてです」

「数字があることで、優先順位も変わるんですか」

「変わります」

響矢は迷わず答えた。

「見た目だけだと、傷みが目立つ施設を優先したくなります。でも数字で見ると、劣化の初期段階で手を打った方が、結果的に費用を抑えられる施設も少なくありません」

田丸は、その話を頭の中で整理していた。

長谷は現状を更新する。

響矢は、その現状を数字へ置き換える。

折原は、その数字を踏まえて判断を記録する。

宮野は、その判断を住民へ説明する理由を残す。

別々に聞こえていた話が、一つの流れとしてつながり始めていた。

「こういう運用は、誰かが続けようと決めたんですか」

響矢は、小さく首を振った。

「決めた、というほどのことではありません。新しい担当者が来たら、前の担当者が、このファイルを見せる。それを繰り返してきただけです」

響矢が話題を変えた。

「皆川さんからヒアリングを任されたと伺いました」

「はい」

「信頼されているんですね。長く一緒に研究されているんですか」

田丸は少し照れながら笑った。

「まだ半年くらいです。今回は私から、一緒に行きたいってお願いしたんです。でも調べることが増えてきたので、今日は初めて一人で来ました」

「まだまだなんですけど、先輩の役に立ちたくて」

響矢は、画面から目を離し、熱心にメモを取る田丸を見た。

柔らかく笑った。

「いいですね」

そして、小さく続けた。

「少し、羨ましいです」

その理由は、それ以上語られなかった。

田丸が顔を上げた時には、響矢はもう画面へ視線を戻していた。

話題も自然に、共有ファイルの運用へ戻っていった。

帰りの電車の中で、田丸はスマートフォンに、その日の出来事を書き留めた。

見たこと、聞いたこと、そして、自分が少し気になったこと。

視覚的な記憶が薄れないうちに、そのまま残しておく。それが田丸の記録の仕方だった。

「響矢さんの『羨ましい』って、何のことだったんだろう」

田丸は、小さくつぶやいた。

「あの時、少し笑ってたよね」

答えは分からない。

だから、そのまま記録しておく。

「分からないことも残しておこう。任せてくださいって言ったんだから」

その夜、皆川と合流すると、田丸は一気に報告した。

共有ファイルのこと。

数字の更新のこと。

そして、響矢が最後に見せた表情のことまで。

皆川は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。

それからフィールドノートを開き、書き始める。

「これは、田丸さんから聞いた話だから」

そう前置きしてから、ペンを走らせた。

自分が直接確認した事実と、伝聞を区別する。

それが皆川の研究のルールだった。

フィールドノート⑤

(田丸さんからの報告。伝聞情報)

長谷が現状を更新し、響矢がそれを数字に変える。折原が判断を記録し、宮野が説明の理由を残す。

青葉市では、別々の担当者が役割を分け持ちながら、一つの運用の輪を作っているように見えた。

書きながら、もう一つ気になる言葉を思い出した。

響矢が田丸に、「少し羨ましいです」と漏らしたという。

何を指しての言葉なのか、今はまだ分からない。

皆川はそのことも、書き留めるだけにした。

この話のFM豆知識

FMの教訓:施設の調査、費用の計算、判断の記録を分担し、資料を渡す相手と期限を決める。

◆ 施設の状態と費用を一緒に比べる

どの施設を先に直すかを考えるには、故障や劣化の状態と、その対応に必要な費用を確認します。工事費や維持費を比べるときは、見積りの時期、計算の対象、今後使う期間も確かめます。費用とともに、故障した場合の安全や利用者への影響を示すことで、予算を配分する人が案を比べられます。

◆ 調べた結果を次の担当へ渡す

青葉市では、長谷が施設の状態や利用状況のデータを更新し、響矢が予算の検討に使う費用などの数字を整理します。折原は判断を記録し、宮野は説明資料を作った理由を残します。一人で全部を行うのではなく、それぞれが前の担当の資料を受け取り、自分の仕事に使えるようにしていました。

◆ 物語の場面

響矢への聞取り内容から、青葉市の取組を複数の職員が分担していることが分かります。施設の情報を集める仕事、費用を説明する仕事、判断や資料の作成理由を記録する仕事を確かめると、誰か一人の手柄という説明では分からなかった仕事が見えてきます。

■ 担当者が行うこと

調査、費用計算、案の比較、承認、記録、実施後の確認について、担当者を書き出してください。渡す資料、渡す日、受け取った人が確かめる項目を決めます。実施後に分かった費用や不具合は、調査と計画の担当へ戻します。休暇や異動のときに代わりを務める人も確かめてください。
つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら