響矢
ヒアリング先を一人で訪ねるのは、田丸にとって初めてだった。
受付で名乗り、少し緊張しながら待っていると、財政課長の響矢(四十代前半)が、自らロビーまで迎えに来た。
きちんと着こなしたパンツスーツに、無駄のない所作。眼鏡がよく似合う人だと田丸は思った。
「田丸さん、ですよね。皆川さんからお話は伺っています」
響矢は、忙しそうな課内を落ち着いた足取りで歩き、自席へ案内してくれた。
デスクの上には紙の資料がほとんどない。
画面を見ながら仕事をする人なのだ、と田丸はすぐに感じた。
「今日は、共有ファイルについて伺いたくて」
「ああ、あれですね。お見せします」
響矢は画面を田丸の方へ向け、一つのファイルを開いた。
一見すると、ごく古い形式の表計算ファイルだった。
シート名は年度だけが並び、一番古い年度は、長谷が管財課へ異動してきた頃まで遡っているという。
施設ごとの維持費、修繕費、更新費、複合化した場合の比較などが、年度ごとに積み重ねられていた。
「これ、長谷さんの更新データと連動しているんですか」
「ええ。長谷さんの部署で施設情報が更新されると、こちらで維持費や将来負担を計算し直します」
「毎年ですか」
「毎年です」
響矢は画面から目を離さないまま答えた。
「計画に数字がなければ、最後は声の大きい人の意見で決まってしまいます。だから、修繕した場合、更新した場合、それぞれの費用を計算します。LCC――ライフサイクルコスト。建設から維持管理、更新までにかかる総費用――も含めてです」
「数字があることで、優先順位も変わるんですか」
「変わります」
響矢は迷わず答えた。
「見た目だけだと、傷みが目立つ施設を優先したくなります。でも数字で見ると、劣化の初期段階で手を打った方が、結果的に費用を抑えられる施設も少なくありません」
田丸は、その話を頭の中で整理していた。
長谷は現状を更新する。
響矢は、その現状を数字へ置き換える。
折原は、その数字を踏まえて判断を記録する。
宮野は、その判断を住民へ説明する理由を残す。
別々に聞こえていた話が、一つの流れとしてつながり始めていた。
「こういう運用は、誰かが続けようと決めたんですか」
響矢は、小さく首を振った。
「決めた、というほどのことではありません。新しい担当者が来たら、前の担当者が、このファイルを見せる。それを繰り返してきただけです」
響矢が話題を変えた。
「皆川さんからヒアリングを任されたと伺いました」
「はい」
「信頼されているんですね。長く一緒に研究されているんですか」
田丸は少し照れながら笑った。
「まだ半年くらいです。今回は私から、一緒に行きたいってお願いしたんです。でも調べることが増えてきたので、今日は初めて一人で来ました」
「まだまだなんですけど、先輩の役に立ちたくて」
響矢は、画面から目を離し、熱心にメモを取る田丸を見た。
柔らかく笑った。
「いいですね」
そして、小さく続けた。
「少し、羨ましいです」
その理由は、それ以上語られなかった。
田丸が顔を上げた時には、響矢はもう画面へ視線を戻していた。
話題も自然に、共有ファイルの運用へ戻っていった。
帰りの電車の中で、田丸はスマートフォンに、その日の出来事を書き留めた。
見たこと、聞いたこと、そして、自分が少し気になったこと。
視覚的な記憶が薄れないうちに、そのまま残しておく。それが田丸の記録の仕方だった。
「響矢さんの『羨ましい』って、何のことだったんだろう」
田丸は、小さくつぶやいた。
「あの時、少し笑ってたよね」
答えは分からない。
だから、そのまま記録しておく。
「分からないことも残しておこう。任せてくださいって言ったんだから」
その夜、皆川と合流すると、田丸は一気に報告した。
共有ファイルのこと。
数字の更新のこと。
そして、響矢が最後に見せた表情のことまで。
皆川は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
それからフィールドノートを開き、書き始める。
「これは、田丸さんから聞いた話だから」
そう前置きしてから、ペンを走らせた。
自分が直接確認した事実と、伝聞を区別する。
それが皆川の研究のルールだった。
フィールドノート⑤
(田丸さんからの報告。伝聞情報)
対象:響矢氏(青葉市・財政課)
主要内容:
長谷氏の更新データを基に、維持費、更新費、LCC等を毎年再計算する運用が続いている。
数字を更新し続けることで、感覚や声の大きさではなく、客観的な優先順位を示すことができる。
考察:
長谷(現状の更新)
↓
響矢(数字への変換)
↓
折原(判断の記録)
↓
宮野(説明理由の記録)
青葉市では、それぞれ別の担当者が役割を受け持ちながら、一つの運用サイクルを形成している可能性が高い。
備考:
響矢氏は田丸さんに対し、「少し羨ましいです」と発言したという。
意味は現時点では不明のため、判断を保留する。
この話のFM豆知識
(豆知識は準備中)
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら
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