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第3巻 第6話

温泉の町

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岩井浦地区の温泉施設は、57棟の方針の中で「民間活力導入」というパターンを試す事案として選ばれていた。

発注に先立ち実施したサウンディング調査の結果は、応募ゼロだった。

「市場性がない、ということですか」

応募ゼロ、という結果を見て、梶原は安堵した。民間活力の導入は、事務的な負担は大きく、契約も簡単ではない。市場性がなければ廃止以外の選択肢が消えることになる。

「市場性がない、と決めつけるのは、まだ早いです」津久見が資料をめくった。「事業者に個別に聞き取りをしました。需要変動のリスクを、事業者側が負いたくない、というのが実情のようです。冬場の宿泊客数が、天候で大きく変わる。安定した収益の見込みが立たないと、応募自体を見送る、という声が複数ありました」

「リスクを、事業者が負いたくない、というのは」

「発注者――市が、そのリスクの一部を引き受ける設計にすれば、応募は増える可能性があります。需要保証や、最低収入保証のような仕組みです」

可能性があるなら、仕方がない。梶原は、津久見の案を、翌週の会議に持ち込むことにした。

「発注者側でリスクを負う、という提案ですが」奥田副市長が、資料をめくりながら言った。「これは、認められません」

「理由を伺えますか」

津久見が理由を確認した。

「三つあります」奥田は、指を折りながら続けた。「一つ、温泉施設は生存基盤ではありません。ガソリンスタンドや診療所とは違います。選択的な施設に、市がリスクを負う理由がありません」

「二つ目は」

「前例になります。一つの施設に市がリスク保証を認めれば、他の同種の施設からも、同様の要求が出ます。歯止めが利かなくなります」

「三つ目は」

「立地です。岩井浦は、幹線からも外れています。市がリスクを負っても、採算が確保できる見込みが薄い。将来世代に負担を残すだけの保証を、議会に説明できません」

津久見が、指摘を、資料に書き留めていた。

「妥当な判断だと思います」

津久見が、そう答えたのが、奥田には、意外そうだった。

「反論はないんですか」

「ありません。生存基盤ではない施設に、市がリスクを負う理由は、私にも作れません」

市長は、それ以上何も言わず、資料に判を押した。

「温泉施設は、廃止とする」

会議室を出たあと、梶原は、津久見に確認をとった。

「あっさり、受け入れましたね」

「生存基盤ではない施設に、市がリスクを負う前例は作れません。奥田さんの言った通りです」

梶原は頷いた。だが、次に温泉組合の人たちに、この結論を伝える役目は、自分にある。代替案のない結論を伝えるのは、これまでのどの案件よりも厳しい条件だった。

ただ、梶原には、津久見が奥田副市長から、敢えて反対の理由を聞き出していたように思えた。それが不思議だった。

その夜、津久見は、資料を開き、奥田の言葉を、もう一度読み返した。生存基盤ではないから、市はリスクを負えない。その言葉は、裏返せば――生存基盤であれば、市がリスクを負える――理由になる。

温泉施設が廃止されたのは、「この施設を市が守る特別な理由」を説明できなかったからだ。生存基盤を守ることは特別な理由になるかもしれない。港ノ浦の診療所は、他に代替がない、命に関わる施設だ。

だが、特別を理由に、本来なら通らないような予算を通す自治体を見たことがある。安易な線引きで禍根を残さないために、市がどこまで費用と事業リスクを負い、地域がどこまで運営責任を担うのか。その線引きを住民と合意する必要がある。住民との合意形成――自分にはない専門性が要る。津久見は梶原に相談することにした。

「生存基盤に直結する施設については、市によるリスク分担を提案しようと思います。それには、住民との対話設計が必要ですが、私には、その専門性がありません」

「それは、専門家の助けが必要、ということですか」

「私は制度は作れます。法令も整理できます。数字も示せます」

津久見は静かに続けた。

「でも、それを住民が自分たちの答えとして受け入れる場は作れません」

「制度は作れます」

「合意は作れません」

少し間を置いて言った。

「そこは、私の専門外です」

数日後、梶原は大阪のRFSC事務所に、桐島衛所長を訪ねた。

「住民対話の専門家を探しているんですが」

「専門家、というと、具体的なイメージはありますか」

「いえ。津久見さんが持っていないものを補える人、というだけです」

「来島さんという人がいます」桐島は、すぐにその名前を出した。「ただ」

「何かあるんですか」

桐島は、言葉を選んでいるようだった。

「簡単には勧められない、という意味です」

「それは、来島さんに問題があるんですか」

「来島さん自身に問題はありません」

桐島は言った。

「津久見くんにも問題はありませんでした」

梶原が顔を上げる。

「では、何が問題だったんですか」

「二人とも、自分の専門では正しかったんです」

桐島は続けた。

「津久見くんは制度を作った」

「来島さんは住民との対話を設計した」

「どちらも間違っていませんでした」

少し間を置く。

「でも、最後に誰が決めるのかが、決まっていなかった」

「……」

「住民は迷いました」

「行政も迷いました」

「結局、何も決まりませんでした」

「専門家が増えれば、答えが良くなるとは限りません」

「最後に責任を持って決める人が必要なんです」

桐島が一度、言葉を切った。そして、尋ねてきた。

「それでも、来島さんを呼びますか」

「呼ばなければ、どうなりますか」

梶原の問いに、桐島が答えた。

「対話設計の問題は、津久見くんが一人で抱えることになります」

梶原は少し考えた。

来島を呼べば、また意見が割れるかもしれない。

津久見と対立するかもしれない。

住民説明は、もっと難しくなるかもしれない。

それでも、今のままよりは前へ進める。

「呼んでください」

梶原は頭を下げた。

「様子を見ましょう、では、もう間に合わないと思います」

その言葉は、自分の口癖を手放すものだった。そして、逡巡しながらも、自分で選び、前に進むことを選んだ瞬間だった。

「失敗するかもしれません」

「それでも、決めないままよりはいいと思っています」

来島礼子が湊原市役所に到着したのは、その一週間後だった。

津久見が数字で制度を組み立てる専門家なら、

来島は、人が答えを選べる場を設計する専門家だった。

「津久見さん、お久しぶりです」

来島が笑った。

津久見は小さく会釈した。

「また一緒になりますね」

「そうですね」

それだけだった。

二人の間に流れた数秒の沈黙を、梶原は津久見の少し後ろに立ち、何も言わずに眺めていた。自分が呼んだ二人が、これから何を生み出すのかはわからない。ただ、同じ失敗を繰り返さないために、自分がすればいいことはわかっている。

「民間活力導入」というパターンの検証は、応募ゼロという結果で終わった。温泉は、法と数字だけで、行政として結論を出せた。

だが港ノ浦診療所は違う。

法も数字も答えを示せる。

それでも住民が答えを受け入れられるとは限らない。

そこから先は、

津久見一人では届かない領域だった。

この話のFM豆知識

(豆知識は準備中)

つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら