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第3巻 第4話

誰も来ない図書館

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住民説明会から、一週間が経っていた。

津久見は、湊原市役所の会議室で、最後の報告書を綴じていた。表紙には「公共施設再編方針・最終版」とある。57棟のうち、廃止23棟、転換12棟、維持22棟。数字は確定済みだ。だが、その下の一文だけは、何度書き直した。今でも、他に良い言葉があるように感じる。

「本方針における『転換』とは、行政が用途を変えて維持することのみを指さない。地域運営組織、民間事業者その他の主体への移行を含む」

その一文だけが、最後まで書き直し続けた言葉だった。今日、納品すれば、もう言葉は変えられない。法と数字だけで答えを出していた頃の自分なら、この一文を書く必要すら感じなかっただろう。

「次の任地は、決まったんですか」

梶原が、報告書を受け取りながら聞いた。

「まだです。RFSCへの依頼の中で、湊原と似た財政力指数の自治体が、もう三つ控えています」

「三つも……それは、こんなに大変な仕事を、また」

「大変かもしれません。これまでは、枠の中だけが対象でした。でも、これからは、湊原での経験を糧に、枠の外にあるものも背負うつもりです。どちら

浦崎地区の図書館分館は、五十七棟の再編方針の中で、「機能の統合」を検証する事案として選ばれていた。

湊原市中心部の本館から車で十五分。沿岸部の住宅地の一角に建つ、小さな平屋の建物だった。

「年間貸出数は、二千百冊です」

津久見が、その数字を読み上げた。

「一冊当たりのコストは三千二百三十八円。本館の約十二倍になります」

「分かっていますよ。それくらいは」

梶原は、資料を見ずに答えた。

数字は、見飽きるほど何度も見ている。

問題は、数字ではなかった。

「分かっているなら、何が課長の判断を止めているんですか」

津久見の問いに、梶原は手元の案文を見せた。

住民説明会の開催通知。

三日前から、書き出しの数行だけで止まっている。

「これです。説明会の通知ですよ」

「途中で止まっていますね。何を書けばいいか分からない、ということですか」

「書くべきことは分かっています。分館を廃止して、本館へ機能を統合する。それ自体を書くのは簡単です」

梶原は、白い部分の多い案文を見た。

「でも、廃止した後、この地区の人の暮らしがどう変わるのか。それを伝える言葉が出てこないんです」

津久見は資料を開いた。

「代替手段であれば提示できます。移動図書館を定期運行する。予約した本を地区集会所で受け取れるようにする。高齢者向けには宅配サービスを組み合わせる。図書館法上の整理も確認しています。統合による維持費の削減額も示せます」

「そういう代替手段の問題だけではないんです」

「数字や代替手段を並べても、説明にならないということですか」

津久見に問われ、梶原は、自分がどこで詰まっていたのかに気づいた。

書けなかったのは、代替策の内容ではない。

住民の生活がどう変わるのか。

何が失われ、何が残り、何を新しく作るのか。

それを住民が理解できる言葉で、どう伝えるかだった。

「廃止を告げるだけなら簡単です。でも、移動図書館を走らせますと言えば、それで納得してもらえるとは思えない」

「なぜですか」

「本を借りるという行為だけなら代替できます。でも、分館まで歩いてきて、職員と話して、新聞を読んで帰る。その時間まで代替できるかは分からないからです」

津久見は、資料をめくる手を止めた。

梶原が、いつものように「もう少し様子を見ましょう」と言わなかったからかもしれない。

「その言葉は、私には作れません」

津久見は資料を閉じた。

「私が扱えるのは、数字と法律、それから制度として成立する代替策です。住民が生活の変化をどう受け止めるかを、私が代わりに言葉にすることはできません」

梶原は、わずかに肩を落とした。

津久見は続けた。

「ただし、私に作れないからといって、検討から外してよいとは思いません」

「では、どうすればいいんですか」

「それを考えるのは、課長の仕事です。課長は、この市で二十年、住民と話してきたのでしょう」

梶原は答えなかった。

「言い方が分からない」

その言葉も、「様子を見る」の言い換えかもしれない。

自分は二十年間、何度も同じ場所で立ち止まってきた。

数字は持っている。

理由も分かっている。

代替案もある。

それでも伝える言葉が見つからないと言って、判断を先へ送ってきた。

それは能力の問題なのか。

それとも、伝えた後に起きる反発から逃げるための、別の言い訳なのか。

梶原自身にも、まだ分からなかった。

その日の夕方、梶原は一本の電話をかけた。

以前、別の案件の資料を調べていた時に知った窓口だった。

受話器の向こうの声は、最初、少し戸惑っていた。

「企画政策課の折原です」

「突然すみません。図書館分館の廃止について、住民説明会を開くことになりまして」

梶原は、そこまで話してから言葉を止めた。

何を聞くべきかさえ、まだ整理できていなかった。

「青葉市では、施設を廃止する時の住民説明を、どう進めましたか」

少し間があった。

折原が、受話器の向こうで問いを整理しているように感じられた。

「進め方そのものは、特別なものではありませんでした」

「では、何が違ったんですか」

「説明会の目的を変えました」

「目的を?」

「廃止に納得してもらうための説明会には、しませんでした」

梶原は、メモ用紙にペンを置いた。

「では、何のための説明会ですか」

「廃止後の暮らしを、住民と一緒に確認するためです」

折原は、ゆっくりと続けた。

「廃止の判断を変えられない部分は、変えられないと説明する。その上で、廃止後に何を残すか、どの代替手段なら使えるか、運行時間や受取場所をどうするか。住民と一緒に決められる部分を示しました」

「結論への賛否を聞くのではなく、結論の後を話し合う」

「そうです。ただし、住民が失うものを先に聞きました。行政が代替できると思っているものと、住民が失うと感じているものは、同じとは限りませんから」

梶原は、メモを取った。

折原が続けた。

「うちの管財課長が、似た案件で言っていたことがあります」

「何と」

「直せる施設なら、『どう直すかを話しましょう』と言える。廃止する施設なら、『なくなった後を説明しましょう』に変えるしかない、と」

簡単な言葉だった。

だが、その違いは大きかった。

電話を終えた後、梶原は白紙の多い案文を開いた。

最初に書いた題名を消した。

「浦崎地区図書館分館の廃止に関する住民説明会」

しばらく考えた後、新しく書いた。

「浦崎地区の図書サービスと、今後の利用方法に関する意見交換会」

廃止という事実を隠すつもりはない。

通知本文の最初には、分館を廃止する方針を明記する。

その上で、住民に聞くことも書いた。

現在、分館をどのように使っているか。

分館がなくなった場合、何に困るか。

移動図書館はどこに、何曜日に来れば使いやすいか。

予約本の受取場所をどこに設けるか。

本を借りる以外に、分館が果たしてきた役割は何か。

梶原の手が、ようやく動き始めた。

機能統合の制度設計は、すでにできていた。

だが、制度上の統合案ができたことと、地域で統合が成立することは同じではない。

この事案で検証すべきものは、維持費の削減額だけではなかった。

建物を閉じた後も、図書サービスが住民の生活の中で使われ続けるか。

その形を、住民と一緒に作れるか。

そこまでできて、初めて「機能の統合」というパターンは、他の地区にも応用できるものになる。

梶原は、案文の最後に一文を加えた。

「分館廃止後の図書サービスについて、皆様の生活への影響を確認し、具体的な運用方法を一緒に検討します」

書き終えると、梶原は文書を最初から読み返した。

十分な言葉かどうかは、まだ分からなかった。

住民が納得するかどうかも分からない。

それでも、三日前までの白紙とは違った。

「様子を見る」のではない。

説明しに行く。

そして、聞きに行く。

梶原は開催日を入力し、案文を保存した。

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(豆知識は準備中)

つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら