公民館の鍵
灘町地区公民館は、五十七棟の再編方針の中で、「公有から民有への移管」を検証する最初の事案として選ばれていた。
港ノ浦とは別の沿岸部にあり、湊原市の中心部から車で二十分ほど離れた住宅地に建っている。
「ここで移管の手順を一度確立できれば、同じ条件の施設に応用できます」
津久見は、梶原にそう説明していた。
「応用できれば、ということは、まだ手順は確立していないんですね」
「ええ。今回が最初の事例です」
応用できる手順を確立する。
津久見は、その言い方を気に入っていた。
一つの現場で得た知見を、別の現場でも使える形にする。それは、津久見がRFSCへ転職して以来、信じ続けている価値だった。
一つの町だけのために働くのではない。自治体の中で培った経験を横断的に使い、多くの町を同時に救う。
その確信が、ここまで津久見を支えてきた。
公民館の鍵は、いつも同じ場所に掛けられていた。
事務室の壁に打たれた釘。そこに束ねられた鍵の一つを、門脇君子が外して見せた。
「これ、もう二十年近く、私が開け閉めしているんですよ」
門脇は七十二歳。元小学校教員で、民生委員を十二年務めている。
鍵を持つ手は、年齢を感じさせないほど確かだった。
「二十年というと、毎日ですか」
「毎日ではありません。週に三回くらいです。でも誰かがここを使う日は、必ず私が開けています」
津久見が持つ資料には、稼働率二十二パーセントと書かれていた。
築四十六年。
Is値、〇・三八。
耐震性は基準を大きく下回っている。
建物の壁には、長年繰り返されてきた修繕の跡が、塗装の微妙な色の違いとして残っていた。
「耐震改修を含めて直す場合、概算で一億二千万円です」
津久見が言うと、門脇は手の中の鍵を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「高いですね」
「高いというのは、市として負担できない金額だという意味ですか」
津久見が尋ねると、門脇は鍵から目を離さずに答えた。
「出せるかどうかは、市役所が決めることでしょう。私が言いたいのは、それとは別です」
「別というと」
「ここで集まっている人たちは、どこへ行けばいいんでしょう」
門脇が顔を上げた。
「お金を出せないなら、ここはなくなるんですよね」
津久見は、資料をめくる手を止めた。
「建物が残るかどうかではなく、ここで行われている交流が続くかどうか、という話ですね」
「そうです」
「交流を続けられるなら、別の場所でも構わないのでしょうか」
門脇は初めて、答えを探すような顔をした。
「考えたことがありませんでした」
短い沈黙があった。
門脇は、公民館の中を見渡した。
長机の並ぶ小さな和室。
週に一度、近所の高齢者が集まり、編み物をしたり、お茶を飲んだりする場所だった。
壁際には、使い込まれた湯飲みが伏せて置かれている。誰のものか分かるように、それぞれ違う模様が付いていた。
「この場所が、というよりは」
門脇が、ぽつりと言った。
「この時間が続いてほしいんです」
「この時間、とは」
「決まった曜日に、決まった人たちが、決まった場所に集まる。それだけのことです」
門脇は和室を見たまま続けた。
「それが続くなら、場所が変わってもいいのかもしれません。でも場所が変われば、来られなくなる人もいます。歩いてここまで来ている人もいますから」
津久見は、その言葉を手帳に書き留めた。
この時間が続いてほしい。
しかし、場所が変われば来られない人がいる。
活動と建物は分けて考えられる。
だが、完全に切り離すことはできない。
これもまた、数字に置き換えにくいものだった。
門脇の言葉が示すものを検討の外に置けば、移管の手順は容易に整理できる。
建物の評価。
譲渡条件。
修繕負担。
運営主体の選定。
条例廃止。
財産処分。
それらを順番に並べれば、制度としての手順は完成する。
しかし、その手順だけでは、ここに毎週集まる人たちの時間が続くかどうかは分からない。
地域が大切にしているものを、手順の外へ置いたまま、手順だけを完成させていいのか。
津久見は、その懸念をまだ言葉にできなかった。
市役所へ戻ると、津久見は梶原に論点を整理して示した。
「市有施設として廃止する場合、設置条例の廃止について議会の議決が必要です。その後、建物を地域団体へ譲渡または貸し付ける手続きに進みます」
「移管そのものは可能なんですね」
「制度上は可能です」
「制度上は、ということは」
「建物の所有と運営を、市から地域側へ移す手順は作れます。ただし、受け手となる団体が継続的に運営できることが前提です」
「修繕費は誰が負担するんですか」
「移管条件によります。無償譲渡にするのか、一定期間は市が修繕を支援するのか。耐震改修を行ってから渡すのか、現状有姿で渡すのか。それぞれ財政負担と責任の所在が変わります」
梶原は資料を見ながら尋ねた。
「門脇さんたちが願っていたことも、その手順で守れますか」
津久見は、すぐには答えなかった。
「制度上できることと、門脇さんが願っていたことは、同じではありません」
「やはり違いますか」
「はい。今お伝えしているのは、建物を移管するための制度です。門脇さんが求めているのは、毎週集まる時間が続くことです」
「建物を渡しても、続くとは限らない」
「そうです。地域団体が建物を引き受けても、修繕費を負担できず、数年後に閉鎖する可能性があります。反対に、建物を手放しても、近隣に代替の場所があり、そこまで移動できるのであれば、活動は続くかもしれません」
「では、今回は公有から民有への移管を試す案件ではないんですか」
「その検証はします。ただし、移管を目的にしてはいけないと思います」
津久見は資料の余白に、言葉を書き加えた。
建物の移管。
活動の継続。
参加できる人の維持。
三つは、同じではない。
「最初に確認すべきなのは、建物を誰が持つかではありません」
津久見は言った。
「ここで守るべきものが何かです。その上で、建物の移管が最適な手段かを判断します」
梶原が津久見を見た。
「これまでの津久見さんなら、先に制度を整理していたんじゃないですか」
「今も制度は整理します。そこは変わりません」
津久見は一度、言葉を止めた。
「ただ、制度に入らないものを、なかったことにはできないと分かってきました」
この案件で確立しようとしていた「移管の手順」は、手続きとしては形にできる。
だが、門脇が言葉にした願いは、その手順だけでは扱えなかった。
一つの事例から、他の自治体でも使える共通の型を作る。
それが津久見の仕事だった。
しかし共通の型を作ろうとすればするほど、その土地にしかない事情が削ぎ落とされていく。
応用できるものと、応用してはいけないもの。
標準化できる手続きと、その場所でしか成立しない時間。
津久見はその晩、報告書に「公有から民有への移管手続」と書いた。
しばらく考えた後、その下に新しい項目を加えた。
「移管後に継続すべき地域活動と、参加条件の確認」
書きながら、津久見は思った。
応用できる手順を作るだけでは足りない。
手順を適用する前に、何を手順の外へ落としてしまうのかを、確認する必要がある。
それもまた、別の町へ持ち運ぶべき知見なのかもしれなかった。
この話のFM豆知識
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※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら
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