ep118

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第1巻 第18話

11年前の敗北

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深夜。

本庁舎の非常階段。

石末は踊り場に腰を下ろし、缶コーヒーを片手に夜空を見上げていた。

雲に覆われ、星は一つも見えない。

長谷は隣へ座った。

地下資料室では、諫山と萬代がまだ話をしている。

「石末さん」

「何だ」

「諫山さんが役所を辞めた理由、知っていたんですか」

石末は缶を見つめた。

「……薄々はな。だが、本人の口から聞いたのは今夜が初めてだ」

「技術的には正しかった。でも予算を動かす権限がなくて、組織を変えられなかった」

長谷は少し間を置いた。

「それだけじゃないんですよね」

石末は答えなかった。

「学校で天井材が落下した事故のとき、修繕の優先順位を決めた責任は自分にあると主張して、一人で処分を受けた」

「そこまで聞いたのか」

「萬代さんから、少しだけ」

石末は缶コーヒーを一口飲んだ。

「事故のあと、諫山課長は突然いなくなった。俺たちには、詳しい説明もなかった」

「本当に諫山さん一人の責任だったんですか」

「そんなわけがない」

石末の声が低くなった。

「修繕の順番は、技術だけで決まらない。予算をつけた部局も、見送った部局も、査定した財政も、組織として決裁した上層部もいる」

「では、なぜ一人で」

「しばらくして、教育委員会にいた同期から聞いた」

石末は夜空を見上げた。

「事故後の会議で、上は現場の点検不足を問題にしようとしたらしい。そのとき、諫山課長が言ったそうだ」

石末は一度言葉を切った。

「『修繕の順番を決めたのは私だ。責任は私にある』とな」

「でも、どの建物で先に事故が起こるかなんて、誰にもわかりません」

「ああ。諫山課長にも、わからなかったはずだ」

石末は手の中の缶を握った。

「それでも、自分が後回しにした施設で事故が起きた。その事実を、あの人は自分から切り離せなかったんだろう」

「なぜ、石末さんたちに何も言わなかったんでしょう」

「言えば、俺たちは黙っていなかった」

石末は短く答えた。

「処分の経緯を調べようとした。上層部と衝突したかもしれない。諫山課長は、それを避けたかったんだと思う」

「自分だけが辞めれば、部下は残せると」

「本人に確認したわけじゃない」

石末は長谷を見る。

「だが、あの人なら、そう考える」

再び缶へ口をつける。

「あの人はな。正論で勝てたことがほとんどない」

「……」

「だが、一度も正論を曲げなかった。それが諫山直だ」

長谷は石末の横顔を見た。

「石末さんの話し方、諫山さんに似ていますね」

「そうか」

「言い回しも、考え方も」

「長く下にいたからな。気づけば似ただけだ」

「尊敬していたんですね」

「余計なことを言うな」

長谷も空を見上げた。

「俺は、諫山さんを完璧な人だと思っていました」

「掲示板で答えを教えてくれたからか」

「はい。教わったことは、全部正しかった。何を調べればいいのか、どこへ進めばいいのか、いつも示してくれました」

「完璧じゃない」

石末は即座に否定した。

「住民感情を読まなかった。議会を動かせなかった。首長の立場も考えなかった。正しさを示せば、人間は従うと思っていた」

「本人も、そう言っていました」

「そして知識だけでは組織を変えられないことを、自分で証明してしまった」

石末は立ち上がった。

「だが、お前は違う」

「何がですか」

「森下さんに怒鳴られた。坂本さんにも詰め寄られた。倉持議員とも話した。それでも逃げずに、相手の話を聞いた」

「一人では何もできませんでした」

「それでいい」

石末は長谷を見下ろした。

「諫山さんには技術があった。お前には、技術を持つ人間と、住民や議員をつなぐ力があるかもしれない」

「まだ、そんなものはありません」

「あるかどうかは、これからわかる」

石末は階段を下りかけて、足を止めた。

「お前は廃墟マニアだろう」

「はい」

「何百棟も、役目を失った建物を見てきた。その目で、今の諫山さんを見たらどう見える」

長谷は考えた。

「……まだ、用廃ではないと思います」

石末が振り返る。

「個人事務所に仕事が少ないのも、仕事を取るより、俺みたいな若い職員へ情報を送り続けていたからかもしれません」

長谷は続けた。

「諫山さんは、役所を辞めても、この問題を諦めていなかった」

石末は小さく頷いた。

「そうだな」

地下資料室へ戻ると、諫山はタフブックを開き、既に作業を始めていた。

長谷が入ってきても、画面から目を離さない。

「遅かったな」

「すみません」

「石末から、何を聞いた」

長谷は少し迷った。

「諫山さんが、正論のまま敗れた理由を」

諫山の指が止まった。

「それで?」

「俺は、同じ轍を踏まないようにします」

諫山が顔を上げた。

「その言葉を信じるかどうかは、これからのお前次第だ」

画面を長谷の方へ向ける。

複数の財政推計が並んでいた。

「見ろ」

鴇田市長が公約に掲げた施設再整備を、複数の条件で試算した表だった。

全施設を順次建て替える案。

主要施設だけを建て替える案。

既存計画と組み合わせる案。

「全施設を現在の機能と規模のまま建て替えた場合、起債残高は十年後に現在の二倍を超える」

「二倍……」

「その後も元利償還と維持管理費が増え続ける。人口と税収が一定以上増えなければ、収支不足は拡大する」

「これを市長に見せれば――」

「私の時も、数字は見せた」

諫山が遮った。

「見せれば人は動くと思っていた。結果はどうだった」

長谷は黙った。

「数字は必要だ。だが、数字だけを突きつければ、市長の公約を否定する資料に見える」

「では、どう届けるんですか」

「市長の公約を守りながら、財政も守れる第三案を出す」

諫山は別の表を開いた。

「鴇田市長が本当に欲しいものは、全施設を建て替えたという事実ではない」

「人口流出を止めたという実績……」

「そうだ。街が変わったと市民に感じさせる、象徴的な成果だ」

長谷は画面を見た。

「包括管理委託による削減効果と、個別施設計画による将来負担の縮減を組み合わせる。その一部を、目玉施設への重点投資に使う」

「大筋はそれでいい」

「市長の公約を逆手に取る」

「違う」

諫山の声が鋭くなった。

「相手を出し抜く発想をするな」

長谷は姿勢を正した。

「市長は街の活力を取り戻したい。お前たちは財政破綻を避けたい。両者が重なる案を作るんだ」

「目的の共通点を探す」

「それが行政だ」

諫山は画面を閉じた。

「ただし、これをお前が直接持っていっても、門前払いだ」

「千々岩さんを通す」

「そうだ」

「でも、千々岩さんはごみ処理施設へ異動しています」

「萬代が動く」

萬代が珈琲カップを置いた。

「収には、わしから話す」

「戻ってきてもらえるんですか」

「わしが命令するわけではない」

萬代は静かに答えた。

「資料を見せ、判断を求めるだけじゃ。動くかどうかは、収自身が決める」

机の端に置かれた黒い冊子の表紙は、暗い灰色だった。

漆黒よりは明るい。

だが、まだ光を吸い込むような重い色を残している。

諫山はタフブックを閉じ、外套を羽織った。

萬代が懐中時計を見る。

既に日付が変わっていた。

「直。今夜は泊まっていきなさい。朝から続きをすればよい」

「断る」

「この時間から戻るのか」

「珈琲がもっと美味ければ、考えてもよかった」

萬代が小さく笑った。

「相変わらず口が悪いな」

横で石末が、今夜二度目の笑いを隠しきれなかった。

翌朝。

地下資料室。

諫山は早朝からタフブックへ向かっていた。

長谷が資料を整理し、石末が劣化データを確認している。

萬代は、三人分の珈琲を用意していた。

「昨夜の試算へ、包括管理委託の削減効果と、個別施設計画で圧縮できる将来負担を加えた」

諫山が画面を示す。

「見ろ」

包括管理委託による維持管理費の削減見込み。

施設の統合、複合化、除却による更新費の圧縮。

地方債と補助制度。

年度ごとの財政負担。

その上で、重点的な再整備へ使える金額が試算されていた。

長谷は表を追う。

「全施設を一斉に建て替えることはできない。でも既存計画を継続し、管理費と将来負担を抑えれば、重点施設への投資枠を作れる」

「一棟か、条件次第で二棟だ」

諫山は答えた。

「少なくとも、市長の任期中に一つの目に見える成果を出せる」

「青葉市民ホールですか」

「候補の一つだ」

諫山は古い調査記録を開いた。

「私が在職中から記録していた外壁のひび割れ幅と漏水履歴がある。現在の調査結果とつなげれば、劣化の進行と再整備の緊急性を説明できる」

石末が横から資料を覗いた。

「全施設を一斉に建て替える案は、財源だけでなく施工体制でも無理だ」

「職人不足か」

「ああ。設計者も施工者も足りない。仮に予算があっても、同時には動かせない」

諫山が長谷を見る。

「建設業の就業者数、年齢構成、直近の入札不調率を集めろ」

「全面建て替えが、財政的だけでなく実施能力の面でも成立しないことを示す」

「否定するためではない」

諫山が念を押した。

「優先順位をつけなければ、市長が求める成果さえ出せないと説明するためだ」

「これを、誰が市長へ持っていくんですか」

「千々岩だ」

「本当に来てくれるでしょうか」

「萬代が連絡した。今日の午後に来る」

午後。

地下資料室の扉が開いた。

千々岩収が、ごみ処理施設の作業着姿で入ってきた。

顔には疲労が残っている。

だが、目の鋭さは変わっていなかった。

室内の諫山を見た瞬間、わずかに表情が動く。

「叔父さんに呼ばれて来ました」

千々岩は諫山を見た。

「まさか、諫山さんまでいるとは思いませんでした」

「久しぶりだな、千々岩」

「個人事務所には、随分余裕があるようですね」

「閑古鳥の話なら聞き飽きた。座れ」

千々岩は萬代へ目を向けた。

萬代は、何も言わず空いた椅子を示す。

千々岩が座ると、長谷は資料を前へ置いた。

「千々岩さん。見てください」

「何の資料だ」

「鴇田市長の公約を、実行可能な形にする提案です」

千々岩は表紙を開いた。

一ページずつ確認する。

包括管理委託の削減効果。

施設再編による将来負担の圧縮。

目玉施設への重点投資。

全施設一斉建て替えに必要となる財源と施工能力。

ページをめくる速度が、次第に遅くなった。

「……包括管理による削減額と、既存計画による更新費の圧縮分を組み合わせる」

千々岩が数字を追う。

「その範囲で、市長の任期中に象徴的な施設を一棟、条件が整えば二棟再整備する」

「はい」

「全施設を同時に建て替える案は、財政面だけでなく、施工者不足でも実行できないと示す」

「そうです」

千々岩は資料を閉じなかった。

「公約を撤回させるのではなく、重点投資という形に置き換える案か」

「市長が求めている成果を、実行できる規模にします」

長谷は答えた。

千々岩が言った。

「これを、俺に市長へ持っていけということか」

「はい。お願いします」

「叔父さんに頼まれたから動け、と?」

長谷は萬代を見なかった。

「違います」

「何が違う」

「千々岩さん自身に、判断してほしいんです」

長谷は続けた。

「萬代さんに言われたから動いたのでは、新市長との間に信頼は生まれません」

千々岩は黙っている。

「この提案が街のためになると、千々岩さん自身が思えるなら、持っていってください。そう思えないなら、断ってください」

「……お前、いつからそんなことを言うようになった」

「諫山さんに教わりました」

諫山が眉を寄せる。

「私がいつ、そんな言い方を教えた」

「相手の目的と、自分たちの目的が重なる場所を探せ、と」

千々岩が諫山を見る。

「こいつを、どう評価していますか」

「まだ足りん」

「それだけですか」

諫山は長谷を一瞥した。

「方向は間違っていない」

千々岩がわずかに笑った。

「諫山さんが、他人についてそこまで言うのは珍しい」

「褒めていない。観察結果だ」

千々岩は再び資料を開いた。

しばらく数字を確認したあと、静かに閉じる。

「わかった」

長谷は姿勢を正した。

「俺自身の判断で動く」

「ありがとうございます」

「ただし、条件がある」

「何ですか」

「市長へ説明する場に、お前も来い」

「俺がですか」

「俺だけでは、劣化データや施工能力の詳細までは答えられない。市長が数字を突いてきたとき、説明できる人間が必要だ」

「前と同じように、正面から否定されるかもしれません」

「お前は、市長を説得しようとするな」

千々岩は言った。

「技術的な質問にだけ答えろ。政策としてどう提示するかは、俺が引き受ける」

「役割分担ですね」

「そうだ」

「わかりました」

翌日。

市長室。

鴇田市長の前に、千々岩と長谷が並んで立っていた。

鴇田は千々岩の作業着を見た。

「千々岩。お前は、まだごみ処理施設の管理事務所にいるはずだな」

「はい」

「なぜ、市長室にいる」

「市長の公約を実行可能にする提案を持ってきました」

鴇田の目がわずかに動いた。

「私の公約を?」

「施設再整備と街の活性化を、財政面で成立させる案です」

「……聞こう」

千々岩は資料を開いた。

「まず、施設の保守点検、清掃、軽微な修繕をまとめる包括管理委託を、試行結果を検証したうえで段階的に拡大します」

「いくら削減できる」

「試行では、同一範囲の維持管理費が前年度比で一八パーセント減少しました。ただし、市全体へ単純に同じ率を当てはめることはできません」

鴇田が長谷を見る。

「では、いくらだ」

長谷は答えた。

「対象業務と施設規模を精査した保守的な試算では、全市展開後の年間削減額は二千万円から三千万円です」

「その程度で建て替えができるのか」

千々岩が答えを引き取った。

「包括管理だけでは足りません」

次のページを示す。

「既存の個別施設計画に基づく統合、複合化、除却を継続することで、今後の更新費を圧縮します。地方債や補助制度も組み合わせ、その一部を重点施設の再整備へ振り向けます」

「つまり、施設を減らして作った金で、別の施設を建て替える」

「役割を終えた建物を整理し、市民に必要な機能と、街の象徴となる施設へ投資を集中します」

鴇田は資料をめくった。

「私は全施設の再整備を掲げた」

「全施設を同時に建て替えることは、財政面だけでなく、施工能力の面でも実行できません」

「根拠は」

長谷は別紙を差し出した。

「市内と周辺地域の建設技能者数、直近の公共工事の入札不調率、設計者と施工者の稼働状況です」

鴇田が資料を見る。

「予算を確保できたとしても、同時に発注すれば、人材と資材を奪い合い、工事費がさらに上がります」

「では、何棟ならできる」

「市長の任期中に、重点施設一棟を確実に再整備する案です。財源と施工体制が整えば、二棟目へ着手します」

鴇田は椅子へ深く座り直した。

「目玉施設を絞れということか」

千々岩が答えた。

「優先順位をつけなければ、市長が市民へ示せる成果そのものが出ません」

「候補は?」

「青葉市民ホールを含む複数案を用意します。施設の象徴性、利用の可能性、周辺開発との連動、劣化の緊急性を比較します」

「市民ホールは、倉持が守れと言っている施設だな」

「はい。老朽化は深刻ですが、再整備を街の活性化へつなげられる余地があります」

鴇田は、しばらく資料を読んだ。

市長室に沈黙が続く。

午後の光が、窓から斜めに差し込んでいた。

「……包括管理で経費を削る」

鴇田が独り言のように言う。

「役割の薄い施設は整理する。その代わり、市民に見える施設へ重点投資する」

「はい」

「私の再整備方針を、縮小する提案ではないんだな」

千々岩は答えた。

「実行できる形にする提案です」

再び沈黙した。

やがて鴇田が資料を閉じる。

「検討する」

長谷は息を止めたまま待った。

「千々岩。詳細を詰めろ。管財課、財政課、都市計画部門を入れた資料を一週間以内に出せ」

「承知しました」

「ただし」

鴇田は二人を見た。

「私は、施設削減の計画をそのまま認めたわけではない。市民に示せる成果が出る案にしろ」

「その前提で作成します」

市長室を出た。

廊下へ出た瞬間、長谷は壁に背を預け、息を吐いた。

千々岩が短く言う。

「第一関門を通っただけだ」

「はい」

「ここから、財政課も各部局も議会も入ってくる。提案書どおりに進むと思うな」

「わかっています」

長谷は姿勢を戻した。

「千々岩さん。来ていただいて、ありがとうございました」

「感謝は結果が出てからにしろ」

千々岩は歩き始めたが、数歩先で足を止めた。

「それと、長谷」

「はい」

「地下で、お前が言ったことは正しかった」

「萬代さんに頼まれたからではなく、千々岩さん自身で判断してほしい、という話ですか」

「ああ」

千々岩は振り返らなかった。

「俺は、誰かに動かされる形では新市長の前へ出なかった。お前は、それをわかっていた」

「今まで見てきましたから」

「そうか」

それだけ言い、千々岩は先に廊下を歩いていった。

長谷は、その背中を見送った。

鴇田市長は、まだ了承していない。

個別施設計画も、正式に復活したわけではない。

ただ、「白紙」と言い切った市長が、初めて資料を読み、検討すると答えた。

諫山が、財政の限界を数字にした。

石末が、施工能力という現場の制約を加えた。

千々岩が、市長へ届く形に組み替えた。

響矢から学んだ、弱点を隠さず、必要なことだけを伝える答弁も生きていた。

森下の怒りも、田中の静かな諦めも、坂本の問いも。

これまで向き合ってきた人々の顔が、長谷に安易な説明をさせなかった。

一人で市長を動かしたわけではない。

それぞれが、自分にできる役割を担った。

その結果として、閉じていた扉が、わずかに開いた。

この話のFM豆知識

(豆知識は準備中)

つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら