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自治体FM物語第1巻 › 第19話
第1巻 第19話

冷徹な数字の限界

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地下資料室。

鴇田市長との会談から数日が過ぎていた。

諫山は、長谷と向かい合って座っている。

萬代は衝立の奥で本を読み、石末は壁に背を預けていた。

「市長は、検討すると言った」

諫山は机上の提案書を指で叩いた。

「だが、詳細を詰める段階で必ず突かれる。準備しておけ」

「どこを突かれると思いますか」

「包括管理委託が地元企業へ与える影響。削減効果の根拠。重点投資する施設の選び方」

諫山は三本の指を立てた。

「どれも、扱いを間違えれば政治的な爆弾になる」

「地元企業については、坂本さんたちとの意見交換を踏まえて、仕様書を見直しています。削減効果には試行結果があります」

長谷は少し間を置いた。

「重点施設の選定は、優先度マトリクスを使って――」

「最終的に決めるのは市長だ」

諫山が遮った。

「そこを間違えるな」

「でも、FMの観点から優先すべき施設があります。劣化の緊急性や、利用状況、代替性を無視されたら――」

「だから、提案する」

諫山は長谷を見た。

「技術的な評価を示し、選択肢ごとの結果を説明する。それがお前たちの役目だ。決定権まで自分たちにあると思うな。越権になる」

長谷は頷いた。

しばらくして、以前から抱いていた疑問を口にした。

「諫山さん。一つ聞いてもいいですか」

「何だ」

「現役時代、首長へ直接説明する場を作らなかったんですか」

諫山の表情が少し硬くなる。

「何度も作った」

「それでも届かなかった」

「前に話したとおりだ」

「では、今回も同じではないんですか」

長谷は続けた。

「なぜ、鴇田市長には届く可能性があると思えるんですか」

諫山は、少し考えてから答えた。

「入口が違う」

「入口?」

「私は、首長の計画を否定するところから入った」

諫山は机上の財政試算を見た。

「『その政策は間違っている』『このままでは財政が破綻する』。正しい数字を並べ、相手に撤回を迫った」

「今回は、千々岩さんが『市長の公約を実現可能にする提案』として持ち込んだ」

「そうだ」

「目指している結果は、同じですよね」

「大きくは同じだ。施設を安全に保ち、将来負担を抑える」

「手段が違うだけで、これほど結果が変わるものなんですか」

「変わる」

諫山は即答した。

「行政は、技術だけでは動かない。技術は必要条件だが、十分条件ではない」

長谷は黙って聞いた。

「私は、技術で住民を説得しようとした。議員にも、首長にも、数字を理解させればよいと思っていた」

諫山は続けた。

「だが、お前は住民のところへ行った。怒られ、拒まれ、それでも話を聞いた。相手が守ろうとしているものを知ろうとした」

「それでも、何度も失敗しました」

「失敗しても、関係を切らなかった」

諫山の声が少し低くなった。

「私には、それができなかった」

石末が自動販売機で買った缶コーヒーを、諫山へ差し出した。

諫山は黙って受け取る。

「諫山さん。俺も聞いていいですか」

「何だ」

「あの事故のとき、学校側の管理責任を問う声が出ていた。そこで、自分が修繕の順番を決めたと言って、処分を引き受けた」

石末は諫山を見た。

「後悔していますか」

「していない」

諫山は迷わず答えた。

「でも、役所を辞めることになった。全庁的な修繕計画も途中で終わった」

「途中で終わったのは事実だ」

諫山は缶を開けた。

「だが、現場で異常を報告していた教職員へ責任を押しつけることはできなかった」

「諫山さん一人の責任でもなかった」

「組織としての責任はあった」

諫山は言った。

「それでも、修繕の優先順位を技術的に評価したのは私だ。後回しにした施設で事故が起きた。その判断から逃げる気はなかった」

「続けていれば、何かを変えられたかもしれません」

「変わったかもしれん。変わらなかったかもしれん」

諫山は缶コーヒーを一口飲んだ。

「仮定の話に答えはない。今を変える。それだけだ」

衝立の奥から、萬代が姿を現した。

珈琲を手に、空いている椅子へ座る。

「直。わしも一つ聞いてよいかね」

「お前に聞かれたら、答えないわけにはいかんな。何だ」

萬代は、机の端に置かれた黒い冊子へ目を向けた。

「この冊子がお前の前に現れていたら、どう使ったと思う」

諫山は、すぐには答えなかった。

「……おそらく、数字だけを見た」

「そして?」

「財政がどれほど危険かを示す証拠として、議会や首長へ突きつけた」

「動いたと思うか」

「動かなかっただろう」

諫山は自嘲するように息を吐いた。

「だから、冊子は私の前には現れなかった。そういうことかもしれんな」

長谷が冊子を見た。

「なぜ俺の前に現れたのかは、今もわかりません」

「理由はどうでもいい」

諫山は言った。

「現に、お前の手元にある。使え」

「はい」

「ただし、冊子の数字に振り回されるな」

「振り回される?」

「数字が悪化すれば絶望し、改善すれば成功したと思い込む。それが一番危険だ」

諫山は黒い表紙を指した。

「この冊子の数字が結果だとしても、そこへ至る過程はお前たちの仕事の中にある」

「結果だけを見てはいけない」

「覚えておけ」

そのとき、長谷の携帯電話が鳴った。

千々岩からだった。

「長谷。市長が、提案の詳細協議に応じることになった」

「本当ですか」

「来週、正式な政策協議を設定する。管財課として提案書を完成させろ」

千々岩は続けた。

「それと、諫山さんにも専門家として同席をお願いしたい」

「外部の人間を、市長との協議に入れられるんですか」

「公共施設再整備に関する専門的な助言を受けるため、正式な手続を取る。資格と実績は十分だ」

「報酬や契約は?」

「総務と整理する。そこは俺に任せろ」

電話が切れた。

長谷は諫山を見る。

「来週の協議に、専門家として同席していただけますか」

諫山は腕時計を見た。

「その日は仕事を入れている」

「難しいですか」

「予定を変える」

壁際の石末が口を挟んだ。

「閑古鳥の鳴く事務所に、予定なんかあるんですか」

「うるさい」

萬代は何も言わず、珈琲を飲んでいた。

翌週。

市長室。

鴇田市長の向かいに、千々岩、長谷、諫山が座っていた。

諫山は、公共施設再整備に関する外部専門家として同席している。

長谷は提案書を開いた。

「包括管理委託を段階的に市全体へ拡大し、維持管理費と発注事務を削減します」

鴇田は資料を見たまま尋ねた。

「削減した財源は、何に使う」

「市長が重点的な再整備を求める施設へ投資します」

長谷は次のページを示した。

「全施設を同じ時期に建て替えることは、財源と施工能力の両面で実行できません。しかし、施設再編による将来負担の縮減と、包括管理による経費削減を組み合わせれば、重点施設一棟、条件によっては二棟の再整備が可能です」

「削減額の根拠は」

「試行事業の実績です」

長谷は慎重に続けた。

「ただし、試行対象と全市施設では条件が異なるため、同じ削減率をそのまま適用していません。業務内容と施設規模を見直し、保守的に試算しています」

鴇田が諫山へ視線を向けた。

「諫山さん。技術的には、どう評価しますか」

「試算の考え方は妥当です」

諫山は答えた。

「ただし、包括管理委託は導入すれば終わりではありません」

「問題があると?」

「民間事業者へ任せる範囲が広がるほど、行政職員が現場の劣化を直接把握する機会が減ります」

諫山は資料の一項目を示した。

「定期報告だけでなく、行政側の技術職による立入確認、緊急時の情報共有、修繕履歴の所有権を契約上明確にする必要があります」

鴇田が長谷を見る。

「その体制は作れるか」

「仕様書に盛り込みます」

長谷は答えた。

「行政側の技術職による定期確認も継続します。判断まで民間へ委ねる考えはありません」

鴇田は資料を閉じなかった。

しばらく、数字ではなく窓の外を見ていた。

「長谷くん」

「はい」

「君たちは、十年後、二十年後の市民を見ている」

「そのつもりです」

「それは正しい」

鴇田は椅子へ深く座り直した。

「私が五十年後を軽視していると思っているかもしれない。だが、私が言いたかったのは、未来の話だけでは今の市民を動かせないということだ」

長谷は黙って聞いた。

「私は、今日、市役所の窓口へ来る市民も見なければならない」

鴇田は言った。

「今、雨漏りする体育館を使っている子どもがいる。坂道を上れず、施設へ行けない高齢者がいる。活動場所を失う住民もいる」

「はい」

「その人たちへ、『将来のために我慢してください』とだけ言う政策は通らない」

千々岩は口を挟まず、鴇田を見ていた。

「だから、数字で私を説得しろ」

鴇田は提案書を指した。

「未来の負担を、今の市民にも説明できる形にしろ。施設を減らすなら、代わりに何が良くなるのかを示せ」

「できなければ?」

「中止する」

鴇田は明確に答えた。

「市民へ説明できない計画を、政治判断として通すつもりはない」

「重点施設の選定については」

「最終的には、私が決める」

「承知しました」

「ただし、候補ごとの効果、費用、危険性はすべて示せ。都合の悪い数字も隠すな」

「はい」

市長室を出た。

廊下で、千々岩が長谷に言った。

「第一段階は通った」

「計画を説明できるところまでは来ました」

「ただし、懸念がある」

「何ですか」

「市長が選ぶ重点施設が、FM上の優先順位と一致するとは限らない」

「劣化が深刻ではなくても、見栄えや政治的効果の大きい施設を選ぶ可能性がある」

「それが政治だ」

千々岩は言った。

「そのときは、データを示して提言する」

「最終的に市長が別の施設を選んだら?」

「決定権は市長にある」

千々岩は長谷を見る。

「だが、提言する義務は管財課にある。お前が黙れば、技術的な問題は存在しなかったことになる」

「黙りません」

「それでいい」

数か月後。

包括管理委託は、対象施設と業務を分けながら、段階的に拡大された。

最初の拡大対象について、削減効果が集計された。

管財課。

長谷が報告書を確認している。

「維持管理費は、修正後の試算とほぼ同じ削減率です」

石末が隣で尋ねた。

「現場の確認体制は」

「技術職による立入確認を月二回実施しています。緊急修繕の記録も、管財課のシステムへ保存されています」

「現場を民間へ渡しっぱなしにはしていないな」

「はい」

響矢も報告書を覗き込んだ。

「財政課としても、来年度の査定資料に使えます。重点施設の再整備に向けた積立も始められます」

管財課に、久しぶりに明るい空気が戻っていた。

――ようやく、ここまで来た。

長谷がそう思いかけた頃だった。

地下資料室。

萬代は、黒い冊子を開いていた。

表紙は、再び薄い灰色へ変わっている。

長谷は部屋へ入った。

「萬代さん。数字は改善していますか」

「財政に関する指標は良くなっておる」

萬代は答えた。

「施設の健全度も、少しずつ上がっている」

「では――」

「だが、最後のページを見なさい」

萬代は冊子を長谷の方へ向けた。

これまで開かなかった、最後のページだった。

そこにあったのは、数字の列ではない。

一枚の絵だった。

道路は整然と舗装されている。

危険な建物は撤去され、必要と判断された施設は修繕されている。

新しい施設も、いくつか建っていた。

財政的にも、施設管理上も、整った街に見える。

だが、人がいない。

昼間であるはずなのに、公園で遊ぶ子どもはいない。

公民館の入口は閉じたまま。

商店街に客の姿はなく、図書館の前にも自転車が一台もない。

建物はある。

道路もある。

しかし、人の気配だけが消えていた。

長谷は、絵を見つめた。

「……何ですか、これは」

「わしにもわからん」

萬代は静かに答えた。

「未来の光景なのか。警告なのか。冊子が見せる比喩なのか」

「施設は残っているのに、誰もいない」

「財政は破綻していないように見える。建物も整理されておる」

萬代は絵の中の無人の広場を指した。

「だが、人が去った」

「なぜ……」

長谷は言葉を失った。

「俺たちは、必要な施設を残そうとしてきました。使われない施設を減らし、必要な場所に投資した」

「行政が必要だと判断したものは、残っておるのかもしれん」

萬代は答えた。

「だが、住民が自分たちの街に必要だと感じるものと、行政がデータから必要だと判断したものが、完全に一致するとは限らん」

「利用者数や、代替性も見ました」

「既存のデータで捉えられるものはな」

萬代は絵を見た。

「街への愛着。偶然人と出会う場所。用事がなくても立ち寄れる空間。自分もこの街の一員だと思える感覚」

「そういうものは、マトリクスに入っていない」

「入れ方が、まだわかっていないのじゃろう」

長谷は無人の公園を見た。

「公共施設が多ければ、街が幸福になるわけではない」

「そうじゃな」

「でも、財政的に正しい施設だけを残しても、人が住み続けるとは限らない」

萬代は答えなかった。

翌日。

地下資料室に、長谷、諫山、石末、萬代が集まった。

諫山は最後のページを長く見つめていた。

「……これが、仕組みの限界か」

長谷が尋ねる。

「どういうことですか」

「私たちは、建物の状態を測った。利用者数を集めた。維持費を計算し、代替施設も調べた」

諫山は絵の中の無人の街を指した。

「その結果、財政的には持続できる形を作った。危険な施設も減った」

「それでも、人がいなくなった」

「この絵が示しているのが、一つの可能性だとすればな」

諫山は慎重に続けた。

「行政の評価では拾いきれない価値があったということだ」

「住民が、自分たちの街に必要だと感じるもの……」

「それを、私たちは利用人数や費用で代用していた」

石末が腕を組み、絵を見た。

「俺が見てきたのは、建物の劣化だった」

低い声で言う。

「ひび割れも、浮きも、漏水も、叩けばわかる」

石末は無人の公民館を指した。

「だが、人が来なくなった建物には、打診しても異常は出ない」

「壊れていないのに、役目を失う」

「誰も危険だと言わない。誰も直せとも言わない」

石末は続けた。

「ただ、人が来なくなる。俺のハンマーでは、それは診断できない」

萬代が珈琲カップを置いた。

「新しい問題が見えたのなら、これまでと同じじゃ」

「同じ?」

「答えを探しに行けばよい」

長谷は、もう一度挿絵を見た。

施設はある。

財政も守られている。

それでも、人がいない。

自分たちは、何のためにFMをしてきたのか。

財政指標を良くするためか。

建物を長持ちさせるためか。

それらは必要だ。

だが、目的そのものではない。

街に人が来る。

誰かと出会う。

活動し、笑い、また戻ってくる。

その営みを支えるために、施設がある。

長谷は絵から目を離さなかった。

「必要な建物を残すだけでは、足りない」

諫山が長谷を見る。

「では、次に何を見る」

長谷は、無人の街並みを見つめた。

「人が、なぜその場所へ来るのか」

言葉を探しながら続けた。

「なぜ、その街に住み続けたいと思うのか。それを調べます」

この話のFM豆知識

(豆知識は準備中)

つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら