ポピュリズムの嵐
新市長就任から三日後。
市長室。
鴇田建志市長(55歳)は、大きな執務机の向こうに座っている。整った顔立ちには、相手を押し切ることに慣れた者特有の強さがある。
机の上には、長谷たちが作成した個別施設計画が置かれていた。
長谷と石末は、机の前に並んで立っている。
鴇田は計画書の表紙を指で叩いた。
「管財課の計画は読んだ」
「ありがとうございます」
「施設を減らす。統合する。学校へ押し込む」
鴇田はページをめくった。
「要するに、住民の居場所を減らすことしか書いていない」
「削減だけを目的にした計画ではありません」
長谷は答えた。
「施設が担っている機能を残しながら、将来も維持できる量へ見直す計画です。ライフサイクルコストの観点でも――」
「本日をもって、この計画の執行を凍結する」
長谷の言葉が止まった。
「凍結……ですか」
「全面的に見直す」
鴇田は計画書を閉じた。
「私は、施設を残し、街へ投資すると訴えて当選した。前市長の縮小方針を、そのまま引き継ぐつもりはない」
長谷は財政フレームを取り出した。
「市長。少なくとも、将来負担の試算をご確認ください。この計画を白紙にし、全面的な建て替えを進めれば、五十年間で必要となる費用は――」
「五十年後?」
鴇田は眉を上げた。
「私は、今ここに暮らしている市民から選ばれた。五十年後の数字を理由に、現在の市民へ我慢を求めるつもりはない」
「五十年後に突然負担が生じるわけではありません。建設すれば、すぐに維持費と将来の更新費が発生します」
「街が活性化し、人口と税収が増えれば、前提は変わる」
鴇田は長谷を見た。
「君たちの試算は、街が衰退し続けることを前提にしている。私は、その前提を変えるために市長になった」
石末が一歩前へ出た。
「市長。建て替える施設を先に決めれば、本当に危険な建物への対応が遅れる」
鴇田が石末へ視線を向けた。
「現場の劣化状況を見ずに、目立つ施設ばかり建て替えれば、いつか外壁や天井が落ちる。人が死んでからでは遅い」
「言葉を慎め」
鴇田の声が低くなった。
「技術的な意見を述べることは認める。だが、政策を決めるのは市長だ」
「建物は、政策を待って壊れてはくれません」
「これ以上、政治判断へ公然と逆らうなら、人事上の措置も考える」
石末の表情が硬くなった。
長谷は再び口を開いた。
「市長。計画を採用していただけなくても構いません。せめて、基礎となった劣化データだけは見てください」
「必要な資料は、こちらから指示する」
鴇田は机の書類へ目を戻した。
「管財課は、全施設の再整備案と来年度の予算案を作れ。私が求めるのは、できない理由ではなく成果だ」
「全面的な再整備には、財源が――」
「財源を考えるのも行政の仕事だ」
鴇田は顔を上げなかった。
「以上だ」
市長室を出た。
廊下を歩きながら、石末は強く拳を握っていた。
「……あの市長、本気だぞ」
「はい」
「お前、どうする」
長谷は一度、市長室の扉を振り返った。
「諦めません」
「正面からぶつかれば、千々岩と同じように飛ばされる」
「わかっています。市長を言い負かす方法ではなく、市長が受け入れられる方法を探します」
「そんなものがあるのか」
長谷は少し迷ってから答えた。
「萬代さんが言っていました。役所の外から、本物を呼び戻すと」
石末の足が止まった。
「……まさか」
「中性化さんへ連絡します」
その夜。
長谷は掲示板の公開スレッドではなく、中性化のアカウントへ初めて直接メッセージを送った。
「突然の連絡で申し訳ありません。
新市長が就任し、個別施設計画と財政フレームの執行が凍結されました。新市長は施設の全面的な再整備を公約に当選しています。
データを示しましたが、説得できませんでした。正面から反対すれば、計画に関わった職員ごと排除される可能性があります。
どう進めればよいのか、わかりません。力を貸してください」
三十分ほどして、短い返信が届いた。
「萬代から聞いている。明後日の夕方、地下資料室へ来い」
長谷は画面を見つめた。
――萬代から聞いている。
やはり、萬代と中性化はつながっていた。
だが、「地下資料室へ来い」という言葉の意味まではわからなかった。
翌日。
新市長の方針が、正式に各部局へ通知された。
公共施設等総合管理計画と個別施設計画は、再検討に入る。
推進委員会の開催は、当面見送る。
各部局は、所管施設の再整備要望を取りまとめる。
日常点検について廃止の指示はなかった。
しかし、推進委員会による進捗確認がなくなったことで、各部局の運用は再び止まり始めていた。
夕方。
響矢が管財課へ来た。
「各部局の動きが変わりました」
長谷は作業の手を止めた。
「教育委員会もですか」
「はい。田村係長が進めていた点検記録の整備も、課長から新しい指示があるまで拡大しないよう言われたそうです」
「田村さんまで……」
「田村さんの意思ではありません」
響矢は淡々と答えた。
「組織では、個人の考えより、上位の方針が優先されます。田村さんを責めるべきではありません」
「わかっています」
長谷は机上の点検実施率一覧を見た。
「わかっているんですが……」
響矢は少し黙った。
「悔しいですよね」
長谷は顔を上げた。
響矢が、自分の感情をそのまま言葉にするのは珍しかった。
「はい」
「私も同じです」
それだけ言うと、響矢は資料を机に置いた。
その夜。
長谷は、みどり児童館の前に立っていた。
自分でも、なぜここへ来たのかわからなかった。
館内の照明は消えている。
館長に渡した日常点検シートは、今も使われているだろうか。
天井の染みに気づいた職員は、営繕課へ連絡してくれるだろうか。
長谷は何もせず、暗い建物を見ていた。
翌日。
管財課の廊下。
石末が、長谷を呼び止めた。
「長谷。一つ聞いていいか」
「何ですか」
「お前、折れそうか」
長谷は、少しも考えずに答えた。
「折れたいです」
石末は黙っていた。
「正直に言えば、全部投げ出したいです。何か月もかけて作った計画が、三日で止まりました」
長谷は息を吐いた。
「でも、折れません」
「なぜだ」
「田中さんにも、森下さんにも、みどり児童館の館長にも、次へつなぐと伝えました」
長谷は石末を見た。
「俺が折れたら、あの人たちにした説明まで嘘になります」
石末は小さく頷いた。
「そうだな」
翌々日の夕方。
地下資料室。
長谷は、約束の時刻より早く到着していた。
萬代は、テーブルに珈琲を二杯用意している。
長谷はカップを見た。
「萬代さん。もう一杯は?」
「もうすぐ来る」
しばらくして、資料室の扉が勢いよく開いた。
戸口に、がっしりとした体格の老人が立っていた。
色褪せた防寒作業着。
脇には、使い込まれた堅牢型のノートパソコン。
白髪交じりの短髪。
日焼けした顔には深い皺が刻まれている。
年齢を重ねても、建設現場で鍛えた身体の厚みは失われていなかった。
老人は、部屋へ入るなり萬代を睨んだ。
「博物。勝手に人の事務所へ連絡してきやがって。何事かと思ったぞ」
「久しぶりじゃな、直。まず座りなさい」
老人は、長谷を一瞥した。
頭の先から靴まで、値踏みするように見る。
「こいつが例の若造か。締まりのない顔をしているな」
「あの……初めまして。長谷巡です。出先に二年、管財課に二年。採用四年目です」
「経歴は聞いていない」
老人はタフブックを机に置いた。
「お前が、毎晩くだらん書き込みで私のログを汚している爆裂か」
長谷は固まった。
「私のログ」
その言葉の意味を理解するまで、数秒かかった。
「え……」
老人の顔を見る。
掲示板で送られてきた、無数の助言。
LCC。
予防保全。
施設白書。
EBPM。
優先度マトリクス。
包括管理委託。
「あなたが……中性化さん?」
「まあ、座りなさい」
萬代が言った。
「順番に話せばよい」
そのとき、廊下から工具の触れ合う音がした。
石末が資料室へ入ってくる。
老人の顔を見た瞬間、手にしていた工具袋を床へ落とした。
「い……諫山課長」
老人が石末を見た。
「石末か。久しぶりだな」
「どうして、ここに……」
「まず工具を拾え。床を傷つける」
「は、はい」
石末が慌てて工具袋を拾った。
長谷は老人と石末を交互に見た。
「諫山……」
中央地区公民館の古い修繕記録。
二十年以上前から、補修の必要性を訴え続けた職員の印。
石末が、化け物じみた知識と技術を持っていたと語った元上司。
そして、掲示板で長谷へ助言を送り続けた中性化。
ばらばらだったものが、一人の人物へ収束していく。
「諫山直さん……」
「そうだ」
「中性化さんが、実在している……」
「当たり前だ。自動応答だと思っていたのか」
長谷の中で、驚きと感動が一気に膨れ上がった。
思わず諫山へ手を差し出す。
「中性化のアニキ! 本物が――」
諫山は、差し出された手を即座に払いのけた。
「現実でもアニキと呼ぶな」
「でも――」
「掲示板で何度言わせる。私はお前の兄ではない」
「す、すみません」
「謝罪は要らん。ログを汚すな」
隣で石末が、堪えきれず小さく笑った。
萬代は、何事もないように珈琲を飲んでいる。
諫山が石末を睨む。
「何がおかしい」
「いえ。諫山課長が、掲示板でアニキと呼ばれていたとは思わなくて」
「笑うな」
長谷は小さくなって席へ着いた。
諫山も向かいの椅子へ腰を下ろす。
「それで」
腕を組む。
「何が起きた。最初から話せ」
長谷は、新市長の就任から個別施設計画の凍結までを説明した。
鴇田の公約。
全面的な再整備方針。
推進委員会の停止。
千々岩の異動。
各部局が再び動かなくなったこと。
諫山は、一度も口を挟まずに聞いていた。
説明が終わる。
「全面建て替えを公約にして当選した市長を、データだけでは説得できませんでした」
長谷は言った。
「正面から反対すれば、計画に関わった職員ごと排除されます。どうすればいいのか、わかりません」
諫山が尋ねた。
「今の説明で、何が抜けているかわかるか」
「……わかりません」
「鴇田市長の立場だ」
「市長の立場?」
「お前は、自分たちの計画を守る話しかしていない」
諫山は机を指で叩いた。
「鴇田は、なぜ全面建て替えを公約にした」
「人口流出を止めるためだと」
「それだけか」
「市民に我慢を求める市政を終わらせる。夢を語れる街にする、とも言っていました」
「それを、多くの市民が支持した」
「はい」
「なら、その目的を否定するところから入るな」
長谷は黙った。
「鴇田も、街を破綻させたいわけではない。全面建て替えで財政が持たなくなれば、自分の政策も続けられない。それは市長にとっても困る」
「では、市長の公約を守りながら、財政負担も抑える案を作る……」
「ようやく頭が動き始めたか」
諫山は続けた。
「包括管理で生み出せる財源がある。施設の統合や複合化で削減できる将来負担もある。全部を守れと言われたなら、全部同じように建て替える必要はない」
「市長の目玉となる施設には投資する。一方で、目立たない部分では管理方法や施設配置を見直し、財源を生み出す」
「そうだ」
「市長の公約を、逆手に取るんですね」
「違う」
諫山の声が鋭くなった。
「相手を陥れる発想をするな」
長谷は姿勢を正した。
「市長の目的と、お前たちの目的が重なる場所を探すんだ。市長は街の活力を取り戻したい。お前たちは街を破綻させたくない」
諫山は長谷を見た。
「両方を満たす案を作れ。それが行政の仕事だ」
石末が口を開いた。
「諫山さん」
「何だ」
「なぜ、役所を辞めたんですか」
室内の空気が変わった。
石末は続けた。
「当時、俺たちには何も説明がありませんでした。突然いなくなって、懲戒処分だという噂だけが残った」
諫山は答えなかった。
初めて、言葉を選ぶような間が生じた。
「……今夜は、その話もしておく必要がある」
諫山は長谷へ目を向けた。
「爆裂。お前にも聞かせる」
「はい」
諫山は珈琲に手を伸ばし、一口飲んだ。
「私は現役時代、技術的に正しいことがすべてだと思っていた」
静かに話し始める。
「LCCの計算も、劣化予測も、今見ても大きくは間違っていない。修繕の必要性を示す資料としては、十分だった」
「それでも、計画は動かなかった」
「誰も、私の話を聞かなかった」
諫山はカップを置いた。
「いや。正確に言えば、聞かせることができなかった」
長谷は黙って聞いていた。
「住民感情を、非合理的な雑音だと思っていた。議会の動きも、首長の立場も考えなかった。正しい数字を見せれば、合理的な人間なら従うはずだと思っていた」
「技術的には正しくても、人を動かせなかった……」
「そうだ」
諫山は長谷を見た。
「もう一つは、権限の問題だ」
「権限?」
「営繕課長は、建物が危険だと言うことはできる。修繕方法も示せる。だが、予算を持っているのは所管部局だ」
諫山は指を折った。
「学校は教育委員会。公民館は生涯学習部門。福祉施設は福祉部門。私は全体を見ていたつもりだったが、各部局を動かす仕組みを持っていなかった」
「今の推進委員会のような体制がなかった」
「公共施設を全庁で管理するという考え方自体、まだ庁内に根づいていなかった」
諫山は目を伏せた。
「私は、正しさで壁を壊そうとした。壊れたのは、壁ではなく私の方だった」
石末が尋ねる。
「それが、退職の理由ですか」
諫山はすぐには答えなかった。
「それだけではない」
低い声だった。
「だが、続きは働きながら話す。昔話だけで夜を潰すほど暇ではない」
諫山は長谷へ視線を戻した。
「お前も、同じ轍を踏みかけた」
「はい」
長谷は答えた。
「響矢さんや千々岩さんが、相手へ届く言葉を教えてくれなければ、俺も数字だけを押しつけていたと思います」
「気づいているなら、まだ使える」
諫山は椅子から立ち上がった。
「明日から、市長へ出す再整備案を作り直す」
「一緒に動いてくれるんですか」
「助けるとは言っていない」
諫山はタフブックを脇へ抱えた。
「お前が使えるかどうか、見極めるだけだ」
「ついていきます」
「死ぬ気でついてこい」
長谷も立ち上がった。
「はい!」
諫山は長谷を見た。
返事はなかった。
ただ、値踏みするようだった目が、ほんのわずかに細くなった。
「直」
萬代が静かに声をかける。
「珈琲が冷めておるぞ」
諫山は萬代を一瞥した。
「お前が話を長引かせたんだろうが」
そう言いながら、冷めた珈琲を飲み干した。
石末は、今度こそ笑いを隠さなかった。
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