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第1巻 第16話

ハコからマチへ

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一

老朽化した市営住宅。

外壁の一部では、鉄筋の腐食による爆裂が進み、剥がれたコンクリートが地面に落ちていた。

長谷と石末は、規制線の内側で外壁を確認していた。

「爆裂の範囲が広がっています」

長谷は劣化箇所を図面に記入した。

「早急な対応が必要です。個別施設計画の次の優先対象として提案します」

「進行は速い」

石末が外壁を見上げた。

「修繕するなら、今年度中に調査と設計へ入った方がいい」

「これまで集めた劣化データと、中央地区公民館での経験を使えば、この住宅も立て直せます」

石末は答えなかった。

外壁ではなく、その向こうに広がる街並みを見ていた。

「長谷」

「はい」

「少し、高いところから見てみろ」

石末は、市営住宅の背後にある高台へ向かった。

長谷も後を追う。

坂を上り切ると、地区全体が見渡せた。

市営住宅の周辺には、空き家が点在している。

商店街では、半数以上の店がシャッターを下ろしていた。

道路は整備されている。

公園もある。

しかし、歩いている人の姿はほとんどなかった。

「この地区の人口は、十年前の三分の一だ」

「知っています」

長谷は市営住宅を見下ろした。

「だからこそ、残っている住民のために、この建物を——」

「住宅だけをきれいに直して、どうする」

石末が遮った。

「この地区では、道路も水道管も老朽化している。商店も減った。公共交通も縮小している。全部を今のまま維持する予算はない」

「だからといって、今ここに住んでいる人たちを放置するわけにはいきません」

「放置しろとは言っていない」

石末は街を指した。

「建物だけを見るなと言っている」

「建物だけ……」

「お前は、ずっと一棟ずつ救おうとしてきた。それは必要な仕事だ。だが、建物単体を見る虫の目だけでは、この地区は救えない」

石末は、離れた場所にある駅前の市街地へ視線を移した。

「住民が減った地区で、住宅も道路も水道も、昔と同じ密度で維持するのは無理だ。どこを生活の拠点として残すのか。住民が移りやすい住宅をどこに確保するのか。その中で、この市営住宅を直す意味があるのか」

「地区全体の再編から考える……」

「鳥の目を持て」

石末は長谷を見た。

「この住宅を直すことが、地区を支えることにつながるなら直せ。数年後に住民の移転が必要になるなら、全面修繕以外の方法も考えろ」

「マチが縮小しているのに、建物だけを元の形へ戻しても、同じ問題を繰り返す」

「そういうことだ」

二人は黙って高台から街を見た。

長谷は、これまで巡ってきた廃墟を思い出した。

廃校。

閉鎖された工場。

使われなくなった旅館。

無人になった団地。

建物が役目を失った背景には、必ず建物の外側の変化があった。

人がいなくなった。

産業が衰えた。

交通の流れが変わった。

地域そのものが、以前の形を保てなくなっていた。

建物だけの問題ではなかった。

——俺は、ずっと建物を見ていた。

だが、本当に見なければならなかったのは、その建物を支える街だったのかもしれない。

長谷は市営住宅を見下ろした。

「石末さん」

「何だ」

「今年度の全面修繕を、すぐに決めるのは止めます」

石末が長谷を見る。

「安全対策と緊急補修は進めます。そのうえで、この地区の人口推計や住宅政策、インフラの維持計画と重ねて、修繕範囲を決めます」

石末は小さく頷いた。

「それでいい」

地下資料室。

萬代は、壁一面に広げた都市計画図の前に立っていた。

長谷が部屋へ入る。

「来たか。若い管財官」

「石末さんに、虫の目だけではなく、鳥の目を持てと言われました」

「それで、何が見えた」

長谷は都市計画図へ近づいた。

「これまで俺は、劣化した建物を一棟ずつ直そうとしていました。でも、人口が減り続ける地区では、建物だけ直しても支えきれません」

道路網。

水道管。

学校。

公民館。

市営住宅。

商業施設。

地図の上には、街を支えるさまざまな機能が重なっていた。

「どこを生活の拠点として残すのか。どこへ施設や住宅を集めるのか。建物の修繕だけではなく、街の骨格から考える必要があります」

「コンパクトシティという考え方がある」

萬代が言った。

「居住と都市機能を、交通の利便性が高い拠点へ緩やかに誘導する。限られた財源で、行政サービスやインフラを維持しやすくするための考え方じゃ」

「拠点に集約するということは、集約されない地域が生まれるということでもあります」

「そうじゃ」

萬代は迷わず答えた。

「地図の上では、効率の悪い地区を縮小するだけに見える。だが、そこには今も人が住んでおる」

長谷は、森下の顔を思い出した。

大浜公民館の修繕を後へ回すと伝えたときの、怒りに満ちた顔。

「森下さんに説明した時のことを思い出します」

「忘れんことじゃ」

萬代は都市計画図の一角へ手を置いた。

「覚悟とは、何も感じなくなることではない。自分の判断によって不利益を受ける人間の顔を覚えたまま、それでも選ぶことじゃ」

長谷は地図を見た。

点在する公共施設。

減少を続ける人口。

地区を結ぶ道路と公共交通。

老朽化した上下水道。

一棟ずつ見ていたときには分からなかった関係が、少しずつ見えてきた。

「これからは、この街全体の形を考えます」

「うむ」

「建物の最適解ではなく、街の中での最適解を探します」

管財課へ戻ると、長谷は優先度マトリクスと都市計画図を机に並べた。

施設ごとの評価を、地区ごとの人口、交通、住宅、インフラのデータと重ねていく。

建物単位の計画から、地域単位の集約計画へ。

響矢が近づいてきた。

「長谷さん。キーボードの音が変わりました」

「音?」

「さっきまでより速いです。迷っている音ではありません」

「石末さんに、建物だけを見るなと言われました」

「どういう意味ですか」

「建物が役目を失うのは、建物だけの問題ではないということです。人口が減り、商店がなくなり、交通が弱くなれば、建物だけ直しても地域は戻らない」

長谷は都市計画図を示した。

「これからは、どこへ人と機能を集めるのかまで考えます」

響矢は地図を見た。

「仕事の範囲が、また広がりましたね」

「はい」

「……当分、飽きることはなさそうですね」

長谷は顔を上げた。

響矢は既に、背中を見せていた。

二

深夜。

長谷は掲示板へ書き込んだ。

「施設ごとの修繕だけでは、人口減少が進む地域を支えられない。都市計画や住宅政策、交通、インフラと連動させ、街全体を人口規模に合わせて再編する必要があると思う。

施設の総量を減らすだけでなく、拠点へ機能を集めるスマートシュリンクが必要だ」

しばらくして、中性化からレスが付いた。

「ようやく気づいたか、爆裂。

一つの施設をどう直すかだけを考える段階は終わりだ。人口動態、交通、住宅、インフラを重ね、街全体の施設配置を見直せ。

維持すべき拠点へ投資を集中し、役割を終えた施設は畳む。建物単体の最適化ではなく、都市全体を持続させるための総量マネジメントへ進め」

続けて、もう一つ届いた。

「ただし、行政にとって合理的な集約でも、対象となる地区の住民は、自分たちが見捨てられたと感じる。

効率だけを語るな。

移転できない者をどう支えるのか。

集約後も、どのようにサービスを届けるのか。

失われる地域の記憶をどう残すのか。

数字と人間を、両方抱えて進め」

そこで文章が一度途切れた。

数分後、新しい書き込みが現れた。

「……私が現役だった頃には、そこまでできなかった」

長谷の手が止まった。

中性化が、自分の過去について触れたのは初めてだった。

「現役だった頃」

役所の人間だったのか。

あるいは、公共施設に関わる別の立場だったのか。

長谷は質問を書きかけた。

だが、投稿者の表示は既に消えていた。

机の端には、黒い冊子が置かれている。

表紙は、以前よりわずかに明るく見えた。

長谷は手を伸ばしかけ、止めた。

まだ何も実現していない。

街全体を見ると決めただけだ。

それだけで数字が良くなるとは思えなかった。

翌朝。

管財課。

長谷は、地区別の集約計画を作り始めた。

都市計画図と優先度マトリクスを重ねる。

人口密度。

高齢化率。

公共交通。

生活サービス。

災害リスク。

上下水道の更新費。

周辺施設の余剰空間。

一棟の修繕費だけを見ていたときには、見えなかった選択肢が現れる。

市営住宅を全面改修する。

別の住宅へ段階的に住民を移す。

一部だけを改修し、地域の生活拠点として使う。

周辺の福祉施設や診療機能を集約する。

建物を直すのではなく、街の骨格を組み直す。

長谷は、ここ数か月で最も強い手応えを感じていた。

——これが、本当のFMなのかもしれない。

そのとき、管財課の扉が勢いよく開いた。

千々岩が入ってきた。

普段は崩さない呼吸が、わずかに乱れている。

「長谷。作業を止めろ」

「何かあったんですか」

「向井市長が、健康上の理由で退任を表明した」

管財課の空気が止まった。

「退任……」

「議会への正式な説明はこれからだが、来月にも市長選挙になる」

長谷は、机上の集約計画を見た。

「市長が代われば、この計画はどうなるんですか」

「新しい市長の判断次第だ」

「でも、個別施設計画も財政フレームも、推進委員会で——」

「行政の計画は、政治的な意思があって初めて動く」

千々岩は低い声で言った。

「新しい市長が方針を変えれば、見直しになる。最悪の場合、白紙だ」

響矢が長谷の横へ来た。

「庁内の足音が変わっています」

「どう変わりましたか」

「多くの人が、急いでいるのに前へ進んでいません」

「どういうことですか」

「次の市長が決まるまで、誰も責任のある判断をしたくない。様子見が始まっています」

三

夕方。

駅前広場。

市長選挙への立候補を表明した鴇田建志が、街頭演説を行っていた。

五十五歳。

新市街地の開発を訴え、地元経済界の一部から強い支援を受けている候補者だ。

長谷と千々岩は、聴衆の後方に立っていた。

鴇田が声を張る。

「私は、市民に我慢ばかりを求める市政を終わらせます!」

聴衆から拍手が起きた。

「人口が減るから。

財政が厳しいから。

そう言って施設を減らし続ければ、この街から活力そのものが失われます」

鴇田は広場を見渡した。

「公民館も、図書館も、児童館も、市民の暮らしと地域のつながりを支える場所です」

「そうだ!」

聴衆の中から声が上がる。

「行政の役割は、市民に諦めろと言うことではありません。暮らしを守る方法を、最後まで探すことです」

鴇田の声が、さらに強くなった。

「今の市民を守れない行政に、未来への責任を語る資格はない!」

大きな歓声が起きた。

「老朽化した施設は、未来へ誇れる施設に建て替える。新しい文化施設を造り、若者が戻りたくなる街をつくる」

「建て替えろ!」

「鴇田さん!」

「縮小均衡では、街は死にます。人口流出を止めるには、夢を語り、未来へ投資する行政が必要です」

長谷は、思わず呟いた。

「全面的に建て替えれば、将来負担が——」

「黙って聞け」

千々岩が低く制した。

鴇田の演説は続いた。

「目玉となる事業で人を呼び込み、地域経済を動かす。それが私の答えです。一緒に、夢のある青葉市を取り戻しましょう!」

拍手と歓声が広場を満たした。

演説が終わり、聴衆が少しずつ散っていく。

長谷と千々岩は、駅前通りを並んで歩いた。

「反論できるか」

千々岩が尋ねた。

「全面建て替えは、長期的な財政負担を増やします」

「それだけか」

長谷は黙った。

鴇田が語ったことのすべてが、間違いというわけではない。

施設を減らすだけでは、人口流出は止まらない。

街に希望がないと感じれば、若い世代は戻ってこない。

長谷たちの計画でも、施設に関する指標は改善したが、人口流出率は上昇したままだった。

「……一理あると思います」

「それが厄介なんだ」

千々岩は前を向いた。

「鴇田の主張は、単なるばらまきではない。縮小だけでは街を再生できないという部分は正しい」

「でも、すべてを建て替える財源はありません」

「五十年後の財政負担より、今使っている施設を守ってほしいという声の方が強い」

「未来より、現在が優先される」

「それが選挙だ」

長谷は尋ねた。

「どうすればいいんでしょう」

千々岩はしばらく答えなかった。

「……わからない」

長谷は思わず横を見た。

「千々岩さんでも、わからないことがあるんですか」

「しょっちゅうある」

千々岩は表情を変えずに答えた。

「外で言わないだけだ」

選挙期間中。

長谷は地区別集約計画の作業を続けた。

しかし、庁内の決裁は目に見えて遅くなった。

響矢が一覧表を見ながら言った。

「推進委員会の委員が関係する起案は、平均滞留日数が以前の一・七倍になっています」

「誰も止めるとは言わない。でも、誰も決めない」

「はい。次の市長が誰になるかわからない段階で、自分の判断を記録に残したくないのでしょう」

「書類上は動いているように見えて、実態は止まっている」

「首長交代のリスクです」

投票日の夜。

管財課。

長谷と石末は、テレビの開票速報を見ていた。

画面に速報が流れる。

「鴇田建志氏、当選確実です」

長谷は画面を見たまま動かなかった。

「……来たか」

石末が低く呟いた。

「鴇田さんは、施設の積極的な建て替えを公約にしています」

「わかっている」

「本当に実行すれば、財政フレームが崩れます」

「それも、わかっている」

管財課の電話が鳴った。

長谷は受話器を取った。

千々岩だった。

「長谷。人事の内示が出た」

「内示?」

「私は明日付で、ごみ処理施設の管理事務所へ異動になる」

「それは……」

「事実上の更迭だろうな」

長谷は言葉を失った。

「千々岩さん」

「諦めるな」

千々岩の声は、いつもと変わらなかった。

「市長が代わっても、施設の劣化と財政の数字は変わらない。計画の必要性まで消えるわけではない」

「でも、推進委員会も個別施設計画も——」

「まだ終わっていない」

千々岩は言った。

「ただし、明日からは前提が変わる。今夜のうちに、覚悟だけはしておけ」

電話が切れた。

深夜。

地下資料室。

長谷は重い足取りで扉を開けた。

萬代は、机の上の冊子を見つめていた。

その表紙は、再び黒くなっていた。

以前の漆黒よりも、さらに光を吸い込むような深い黒だった。

「萬代さん……」

萬代は顔を上げなかった。

「冊子は、どうなっていますか」

ゆっくりとページを開く。

長い沈黙が続いた。

「財政余力を示す数字が、急激に悪化し始めておる」

長谷は冊子を覗き込んだ。

改善していた複数の指標が、反転している。

将来負担。

施設更新費。

人口流出率。

数字が、下方へ向かって動いていた。

表紙の隅には、黒い染みのようなものが広がっている。

「政治が変わっただけで、これまでの仕事が全部無駄になるんですか」

萬代は、静かに冊子を閉じた。

「まだ、無駄になったと決まったわけではない」

「でも千々岩さんは更迭されました。計画も止まるかもしれない」

「だからこそ、準備をしなければならん」

萬代が長谷を見た。

その目には、これまでにない厳しさがあった。

「役所の外から、本物を呼び戻す」

「本物……?」

「準備をしておきなさい。若い管財官」

「誰を呼ぶんですか」

萬代は答えなかった。

長谷の頭に、一つの名前が浮かんだ。

二十年以上前、修繕要求を繰り返した技術者。

石末が、化け物じみた知識と技術を持っていたと語った元上司。

懲戒処分の噂とともに、役所を去った男。

——諫山。

萬代が言う「本物」が誰なのか。

まだ、確証はなかった。

この話のFM豆知識

FMの教訓:一つの建物だけでなく、住む人の分布と移動手段を見て施設の場所を考える。

◆ 人が住む場所と、施設の場所を地図で確認する

施設の修繕だけを検討する前に、どこに何人が住み、今後どう変わるかを確認します。道路、バス、住宅、ほかの公共施設や民間施設も地図に重ねます。施設をまとめるなら、利用者が行ける場所か、必要なサービスを提供できるかを調べます。

◆ 遠くなって通えない人への方法を考える

施設をまとめると維持費が下がっても、自動車を使えない人などが通えなくなる場合があります。例えば、移動の支援や近くへの出張サービスを、費用と合わせて比較します。建物の廃止でなくなる行事や記録についても、残す方法を住民と考えます。

◆ 物語の場面

中性化は長谷に、一つの施設の修理だけでなく、市全体の施設の数や配置を考えるよう求めます。同時に、移転できない人への支援や地域の記録を残すことも指摘します。施設をまとめる判断には、利用者がその後どう暮らすかの確認も必要です。

■ 担当者が行うこと

人口、交通、生活圏、公共・民間の施設を地図で確認します。集約先に通いにくくなる人と、その人が使える代わりの方法を調べてください。変更後は、利用者数、移動の負担、維持費を担当課が確認し、予定したサービスを続けられているかを見直します。
つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら