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第1巻 第14話

データの嘘と本当

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本庁・議会棟。

予算委員会。

長谷は説明席に立ち、個別施設計画の進捗と、優先度マトリクスの評価方法を説明していた。

「横軸の施設利用状況については、現在の利用統計に加え、十年前に実施された市民アンケートの集計データを補助的に使用しています」

倉持議員が身を乗り出した。

「確認したい。十年前のデータを使ったというのは、どういうことだ」

「現在の利用統計は、紙の受付簿と利用者の自己申告をもとにしています。施設によって集計方法が異なるため、それだけでは実態を正確に比較できません。そのため、過去のアンケートを――」

「つまり、今の住民の利用状況を、十年前の数字で補正したということか」

倉持の声が強くなった。

「そんな不確かなデータで、施設の命運を決めているのか」

「データが完全ではないことは認識しています。しかし、正確な利用実態を改めて調査するには、相当の時間が必要で――」

「不完全なデータで、いい加減な判断をするくらいなら、何もしない方がましじゃないのか」

長谷は言葉に詰まった。

建物の劣化については、石末たちが集めた比較的確かなデータがある。

だが、施設の利用や必要性を示す横軸には、推計や古い調査結果が含まれている。

倉持の指摘は、間違ってはいなかった。

沈黙が続いた。

「……申し訳ありません。説明を整理し、改めて回答します」

委員長が議事を引き取った。

「この件については、次回、資料を整理したうえで回答を求めます。本日はここまでとします」

委員会終了後。

議会棟の廊下で、千々岩が長谷を呼び止めた。

「正直に答えすぎだ」

「でも、データが不完全なのは事実です」

「事実を隠せとは言っていない」

千々岩は足を止めずに言った。

「正直に答えることと、自分の説明を自分で崩すことは違う。今日のお前は、相手の疑問に答える前に、自分から資料の信頼性を否定した」

「嘘をつくわけにはいきません」

「だから、嘘をつけとは言っていない」

千々岩が長谷を見る。

「限界を認めたうえで、なぜそのデータを使い、どう判断したのかを答えろ。自信がないように見せれば、正しい説明も届かない」

それだけ言うと、千々岩は先に歩いていった。

後から響矢が近づいてきた。

「今の話を聞いていました」

「響矢さんも、俺の答え方が悪かったと思いますか」

「はい」

即答だった。

「長谷さんは、データが不完全であることを説明しました。でも、不完全なデータを使って判断する理由を説明していません」

「どう答えればよかったんですか」

「私なら、こう答えます」

響矢は少し考えてから口を開いた。

「『データには限界があります。しかし、精度の高い調査を待つ間にも施設の老朽化は進みます。現時点で利用できる最善の根拠を使い、判断を更新していくことが必要です』」

「限界を認めたうえで、判断しないリスクも示す……」

「はい。行政が選ぶのは、完全な判断と不完全な判断のどちらかではありません。不完全な情報で判断するリスクと、判断を先送りするリスクのどちらを取るかです」

長谷は委員会室の扉を振り返った。

「議場に立ったら、頭が真っ白になりました」

「準備と訓練の問題です」

「響矢さんなら、間違えないんでしょうね」

「読み違えることはあります」

長谷は思わず響矢を見た。

「響矢さんも?」

「あります」

響矢は平然と答えた。

「ただし、答えに詰まったようには見せません」

そこへ石末が合流した。

「議会でやられたか」

「古いデータの信頼性を突かれました」

「正直に答えたんだろ」

「はい」

「それでいい」

石末は言った。

「取り繕って、あとで数字の穴を見つけられる方がまずい。ただ、正直に話すなら、最後まで説明しろ。穴があることだけ言って黙ったら、穴しか残らん」

翌日。

管財課では、次の委員会に向けた答弁練習が行われていた。

長谷の横に、響矢と石末がいる。

原稿を読み上げた。

「古いデータを使用する不完全さは認識しています。しかし、実態に近いデータが揃うまで待つ間にも、施設の老朽化と事故のリスクは増大します。そのため、利用可能な最善のエビデンスに基づき――」

「長い」

石末が遮った。

「議員は途中で聞くのをやめるぞ」

「では、どこを削れば」

「俺に聞くな。そういうのは響矢の仕事だ」

響矢が原稿を受け取り、数か所に線を引いた。

「三文で十分です」

「三文?」

「一つ目。データの限界を認める。二つ目。判断を待つリスクを示す。三つ目。今後更新すると説明する」

書き直した答弁を長谷へ渡す。

「ここも、もう少し短くできますよね」

「そこを削ると、次の文に意味がつながりません」

「では、次の文も変えます」

「……容赦ないですね」

「議員は、長谷さんの努力を評価するために質問しているわけではありません」

長谷は、修正された原稿を繰り返し読み上げた。

石末と響矢は少し離れた場所から、その様子を見ていた。

石末が小声で尋ねる。

「響矢が、他の課の職員にここまで付き合うのは珍しいな」

「珍しいですか」

「昨日は、俺の後輩が持ってきた予算要求を、三分で突き返したと聞いた」

「必要な指導と、必要でない指導を分けているだけです」

「今回は必要なんだな」

響矢は、答弁を読む長谷へ視線を向けた。

「……今のところは」

石末は小さく笑った。

「長谷」

声をかけられ、顔を上げる。

「昔、俺も課長に議会答弁を任されたことがある。散々だった」

「石末さんもですか」

「技術屋は、正確に話そうとして言葉が足りなくなる。諫山さんも、似たようなものだったと聞いた」

石末は腕を組んだ。

「お前も同じ道を通っているということだ」

数週間後。

再び予算委員会。

倉持議員が、前回と同じ論点を取り上げた。

「改めて聞く。十年前のデータを使って施設の優先順位を決めることについて、どう説明する」

長谷は、資料を見ずに答えた。

「利用データに限界があることは認識しています。しかし、精度の高い調査を待つ間にも、施設の老朽化は進みます。現時点で利用できる最善のデータを使って判断し、今後の調査結果に応じて評価を更新します」

倉持は、しばらく長谷を見た。

「……屁理屈のようにも聞こえるが、筋は通っているな」

「補足しますと、この評価手法は、国の指針でも――」

そのとき、隣に座っていた響矢が、長谷の袖をわずかに引いた。

長谷は言葉を止めた。

「以上です」

倉持は小さく頷き、次の質問へ移った。

委員会終了後。

廊下へ出た長谷は、響矢に尋ねた。

「なぜ止めたんですか。続きを説明できる流れだったと思います」

「あそこで続ければ、倉持議員は、自分が言い負かされたと感じます」

「勝ちを譲れ、ということですか」

「勝ち負けではありません」

響矢は答えた。

「相手が納得する速度を、こちらが決めることはできないという話です」

「でも、理解してもらうには説明が必要です」

「必要な説明と、今すべき説明は同じではありません」

長谷は、委員会室の方を見た。

倉持の「筋は通っている」という言葉が、わずかな前進だったことに、ようやく気づいた。

数日後。

長谷は、倉持の地元事務所を訪ねた。

「管財課が直接来るとは珍しいな。何の用だ」

「先日の委員会では、説明が足りませんでした。青葉市民ホールについて、直接お話ししたいと思いまして」

倉持は少し長谷を見たあと、椅子を示した。

「……座れ」

長谷は資料を開いた。

「倉持議員が最も心配されているのは、青葉市民ホールだと思います」

「そうだ」

「市民ホールの屋上防水は、既に耐用の限界を超えています。昨年の大雨でも、大規模な雨漏りがあったと聞いています」

倉持の表情が変わった。

「……バケツが足りなくなったという話は聞いた」

「早い段階で修繕していれば、部分的な補修で済んだ可能性があります。しかし、現在は全面的な改修が必要です。屋根形状が複雑なことも、工事費を押し上げています」

長谷は劣化写真を示した。

「放置すれば、天井材だけでなく、外壁や躯体から部材が落下する危険も高まります」

「だから統廃合の検討対象にする、と」

「はい。ただし、統廃合の検討対象にすることと、直ちに廃止することは同じではありません」

倉持は長谷の説明を遮った。

「わかった。言いたいことはわかった」

少し間を置く。

「検討対象に入れることまでは認める。だが、廃止には反対させてもらう」

「承知しました」

「簡単に引くんだな」

「今日、結論を出していただくために来たわけではありません。施設の状態を共有するために来ました」

倉持は、しばらく長谷を見ていた。

「お前、前の委員会とは話し方が変わったな」

「響矢さんに鍛えられました」

「響矢……あのとき、お前の袖を引いた財政課の職員か」

「気づいていたんですか」

「見えていたよ」

倉持は鼻で笑った。

「あれには助けられた。お前がもう一押ししていたら、私は意地でも反対に回っていた」

「そこまで考えていたんでしょうか」

「あの子は怖いぞ。こっちが、どこで意地を張るかまで読んでいた」

倉持は資料を閉じた。

「今は、お前の仕事に興味があるらしいな。飽きられないようにしろ」

管財課へ戻ると、響矢が長谷に声をかけた。

「倉持議員は、どうでしたか」

「完全に納得したわけではありません。でも、検討対象に入れることまでは認めてもらえました」

「そうですか」

「それと、委員会で響矢さんが止めたことにも気づいていました。助かったと言っていました」

響矢の手が一瞬止まった。

「気づかれていましたか」

「どこまで計算していたんですか」

「半分くらいです」

「半分?」

「長谷さんなら、流れが来たと思って説明を重ねるところまでは予想していました」

「褒めているんですか。けなしているんですか」

「行動傾向から予測しただけです」

深夜。

長谷は掲示板に書き込んだ。

「EBPMを進めようとしても、データだけでは人は動かなかった。議員も住民も、数字だけで判断しているわけではない。それでも行政は、どうEBPMと向き合えばいい」

中性化からレスが付いた。

「EBPMを、データで人間を従わせる方法だと思うな。

データは判断の根拠だ。だが、その根拠を理解し、受け入れるのは人間だ。

同じ数字でも、議会では答弁が必要になる。住民には、その施設が生活にどう関わるかを伝える必要がある。反対する人間とは、個別に話さなければならないこともある。

データを使いながら、人間と向き合え。それができなければ、EBPMは資料作りで終わる」

管財課。

長谷の机に、個別施設計画の最終草稿が積まれていた。

各施設の修繕、更新、統廃合、複合化について、今後十年間の時期と方針を示したものだ。

何度も差し替えた跡があり、ページの端には付箋が重なっていた。

計画作成を始めてから、何か月が過ぎただろう。

森下に怒鳴られた。

倉持に議会で追及された。

南小学校との複合化は、SNSで炎上した。

データの信頼性も問われた。

それでも、計画は一つの形になった。

石末が草稿を手に取り、ページをめくった。

「今日は、俺に意見を聞かないんだな」

「石末さんの基準は、もうわかっています」

「言ってみろ」

「今壊れたとき、誰がどれだけ危険にさらされるか」

石末がわずかに目を細めた。

「それだけか」

「いいえ。石末さんの危険度評価に、利用状況、代替性、応急対応の可否を重ねました」

長谷は計画表を開いた。

「でも、安全性を最初の条件にしたのは、石末さんの考え方です」

石末は、しばらくページを確認した。

「技術的な根拠は通っている」

草稿を閉じる。

「これなら、俺たちが現場で動ける」

響矢も計画を受け取り、費用推計のページを確認した。

「財政面について、一点あります」

「何ですか」

「今後十年間の修繕、除却、複合化に必要な費用は、現在と同じ予算水準では三割不足します」

「三割……」

「計画どおり進めるには、毎年度の予算要求で増額を確保するか、事業費を減らす必要があります」

「予算要求は一度で終わらない、ということですね」

「はい。計画が完成しても、財源が自動的についてくるわけではありません」

長谷は計画書を見た。

「それでも、全体の枠組みがなければ、予算折衝の場にも出せません。まず緊急度の高い施設から事業を具体化し、費用を精査します」

響矢は小さく頷いた。

「順番としては正しいです」

地下資料室。

長谷は、完成した草稿を萬代へ差し出した。

「個別施設計画ができました。見ていただけますか」

萬代は計画を受け取り、ゆっくりとページをめくった。

途中で止まることなく、最後まで目を通した。

長い沈黙のあと、顔を上げる。

「よく、ここまで作ったな。若い管財官」

「まだ完成とは言えません」

長谷は答えた。

「必要な財源が三割足りません。計画どおり実行できるかも、わかりません」

「計画ができたから、足りないものが三割だとわかった」

萬代は穏やかに言った。

「何もなければ、足りないことさえ説明できなかったじゃろう」

「穴が見えたなら、埋めればいい」

「そのとおりじゃ」

長谷は、黒い冊子へ目を向けた。

「冊子は、どうなっていますか」

萬代は、机の引き出しから冊子を取り出した。

表紙は、最初に見た漆黒から、薄い灰色へ変わっていた。

萬代がページを開く。

「数字は動いておる」

「改善していますか」

「建物に関する指標のいくつかは、良くなっている」

萬代は別のページを示した。

「だが、人口流出率は上がっておる。空き施設率も、ほとんど変わっていない」

「施設を直しても、街の問題は解決しない……」

「建物は、街を支える器じゃ。器を直せば、中身まで戻るとは限らん」

萬代は冊子を閉じた。

「わしは三十年、この街を見てきた。直したのに使われなくなった建物もある。きれいなまま、誰も来なくなった施設もある」

「施設の問題と、街の問題は同じではない」

「そういうことじゃ」

長谷は、灰色の表紙を見つめた。

建物を守れば、すべてが解決する。

どこかで、そう考えていたのかもしれない。

だが、施設を使う人が減り、街そのものが衰えていけば、建物だけを残しても意味はない。

その言葉を、聞き流すことはできなかった。

管財課へ戻ると、千々岩から呼び出しがあった。

市長秘書室。

千々岩は、個別施設計画の費用推計を見ながら言った。

「財源が三割足りない」

「はい。毎年度の予算折衝で、必要額を積み上げていきます」

「それでは、十年間の計画ではない」

千々岩は計画書を閉じた。

「予算が取れれば実行するというだけなら、根拠のない希望だ。議会は認めない」

「では、何が必要ですか」

「十年間の財政フレームを作れ」

「財政フレーム?」

「年度ごとの事業費。現在の予算との差。複合化や施設削減による効果。地方債や補助制度。維持管理方法の見直し」

千々岩は長谷を見た。

「来年度予算と一緒に示せる形にしろ。期限は来月末だ」

「一か月で?」

「絵空事ではなく、実際の予算に落とし込め」

千々岩は計画書を長谷へ返した。

「そこまでできれば、議会を通すのは俺の仕事だ」

夜の管財課。

多くの職員が帰ったあとも、長谷と響矢の席には明かりがついていた。

二人は並んで、十年間の財政フレームを作っていた。

年度ごとの修繕費。

建て替えと除却に必要な費用。

南小学校との複合化による延床面積の縮減効果。

包括的な施設管理を導入した場合の維持管理費。

地方債を使う場合の元利償還。

数字を入力しては、条件を変えて計算し直す。

しばらく作業を続けたあと、響矢が尋ねた。

「長谷さん。一つ聞いてもいいですか」

「何ですか」

「なぜ、廃墟が好きなのに、管財課にいるんですか」

長谷の手が止まった。

「どうして、今それを?」

「前から疑問でした」

響矢は画面を見たまま続けた。

「建物そのものが好きなら、設計事務所や施工会社の方が向いているように思います。なぜ行政を選んだんですか」

長谷は少し考えた。

「俺が好きなのは、寿命を全うした建物の廃墟なんです」

「寿命を全うした建物?」

「そこには、一緒に生きた人の暮らしが残っています。壁の傷も、使い込まれた床も、置き去りにされた物も、その建物が役目を果たした証拠です」

長谷は、財政フレームの向こうに置かれた施設一覧を見た。

「でも、この街の公共施設は違いました。まだ役目があるのに、修繕されずに壊れかけている。手を入れれば使える建物まで、先送りの結果として廃墟に近づいている」

「だから、行政を変えようとした」

「はい」

長谷は小さく笑った。

「最初は、まだ使える建物を守りたいだけでした。でも今は、建物を使う人や、その場所に残された時間も守りたいと思っています」

響矢は、しばらく答えなかった。

「……そうですか」

再び、キーボードの音だけが続いた。

窓の外が少しずつ白み始めた頃、財政フレームの草稿が完成した。

長谷と響矢は、並んで紙コップのコーヒーを飲んでいた。

二人とも、疲れた顔をしている。

「できましたね」

響矢が言った。

「……ええ、今年度版は」

長谷は画面を見ながら、小さく息をはいた。

「施設の状態も、単価も、財政状況も変わります。来年には、また全部見直さなければならない」

「それでいいんです」

響矢は答えた。

「変わらない計画の方が、不自然です」

長谷は横を向き、響矢を見た。

「朝まですみません」

「業務ですから」

「そろそろ、俺に付き合うことに飽きてきたんじゃないですか」

「問いの対象が明確ではありませんが、飽きていません。今のところ」

「……どちらへの答えなんですか」

響矢は、紙コップを机に置いた。

「聞かれたことへの答えです」

それだけ言うと、響矢は立ち上がり、管財課を後にした。

何を言えばいいのかわからないまま、長谷はその背中を見送った。

始業時間を待って、完成した財政フレームを千々岩へ提出した。

千々岩は、年度別事業費、財源内訳、削減効果を順に確認した。

最後まで目を通すと、静かに資料を閉じた。

「……使える」

「本当ですか」

「推進委員会に諮る」

千々岩は資料に手を置いた。

「ここから先、議会を通すのは俺の仕事だ」

「ありがとうございます」

「感謝は、結果が出てからにしろ」

長谷は頭を下げ、市長秘書室を出た。

管財課へ戻る途中、鞄の中で何かが動いたような気がした。

席に着き、黒い冊子を取り出す。

表紙の灰色が、またわずかに明るくなっている。

ページを開く。

施設の健全度。

修繕実施率。

将来負担比率。

複数の数字が、明確に改善していた。

だが、人口流出率は上がっている。

一つの問題を前へ進めても、街のすべてが良くなるわけではない。

長谷は冊子を閉じた。

それでも、今日は――。

「前に進んだ」

小さく呟き、次の資料を手に取った。

この話のFM豆知識

(豆知識は準備中)

つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら