記録が語ること
大浜公民館。
建物には使用制限がかかり、一部の部屋が閉鎖されていた。
石末は、先日行った応急処置の状態を確認しながら、雨漏り箇所や外壁を点検している。
長谷も台帳と図面を手に、建物の状態を調べていた。
使用制限をかけた。
応急処置を行った。
次年度の優先候補として、個別施設計画にも記載した。
だが、この建物は今も老い続けている。
長谷は、古い廊下を歩いた。
壁には、地域行事の写真が並んでいる。
夏祭り。
子ども会。
老人クラブの集会。
色褪せた写真の中に、この建物で積み重ねられてきた時間が残っていた。
長谷は、これまで何百棟もの廃墟を見てきた。
使われなくなり、看取られることもなく朽ちていく建物にも、人が生きていた痕跡は残る。
閉鎖中の会議室へ入った。
椅子と机は、使用を止めた日のまま並んでいる。少し前まで、誰かがここで会議をしていたことがわかる。
長谷は図面を開き、現在の壁や柱の位置と照らし合わせた。
部屋の隅に、古い書類棚があった。
館長の許可を得て中を確認すると、竣工当時の図面や建設資料が残されていた。
その一冊を開く。
設計者が書いたと思われる手書きのメモが、図面の余白に残っていた。
「昭和五十一年三月。基礎工事完了。予算内に収めるため設計変更を調整中。集会室の面積は死守できそうだ」
別のファイルには、当時の自治会の議事録が綴じられていた。
「公民館建設に関する住民投票を実施。賛成八十二パーセント。この施設を地域の核とし、子どもから高齢者まで利用できる場所とする。そのため、地域として応分の負担を受け入れる」
長谷は、しばらく資料から目を離せなかった。
当時の設計者は、限られた予算の中で、地域のために最善を尽くした。
住民も、自分たちの負担を受け入れて、この場所を作った。
誰も間違っていたわけではない。
それでも、時代が変わり、建物は老いた。
そして今、長谷たちは修繕の順番を決め、大浜公民館を後へ回した。
――二十年後、自分たちも同じように見られるのかもしれない。
そのとき、石末が会議室へ入ってきた。
「何かあったか」
「建設当時の資料です」
長谷は、設計者のメモと自治会の議事録を見せた。
「設計者も住民も、この建物が地域のためになると信じていました」
「そうだろうな」
石末は資料に目を落とした。
「俺が若い頃に見た建物も同じだ。造ったときには、必要だった。人口も増えていたし、利用者もいた」
「それが、時代が変われば重荷になる」
「建物は変わらなくても、街の方が変わるからな」
長谷は壁の写真を見た。
「その建物を壊す判断をするのが、俺たちの仕事なんでしょうか」
「壊すか残すかを決めるだけじゃない」
石末は答えた。
「そこで担っていた役割を、次にどうつなぐかを考えるのも仕事だ」
「大浜公民館については、まだ次の形を示せていません」
「だから、点検と応急処置を続ける。次年度の判断から外さない。今のお前にできるのは、それだ」
長谷は設計者のメモを見つめた。
「この建物を造った人たちに、恥ずかしくない判断をしないといけませんね」
「そうだな」
管財課へ戻ったあと、長谷は地下資料室を訪れた。
萬代は、ソファで黒い冊子を開いていた。
「萬代さん」
「どうした、若い管財官」
「この冊子の数字は、なぜ変わるんでしょう」
萬代は冊子から顔を上げた。
「わしにもわからん」
「三十年、この資料室にいたのに?」
「だからこそ、最初に見たときは驚いた」
「でも、今はあまり驚いていないように見えます」
萬代は冊子を閉じた。
「驚き続けても、何もわからんからな」
ドライエリアから差し込む光が、黒い表紙を斜めに照らしていた。
「この冊子が何を示しているにせよ、お前のすることは変わらん」
「俺のすること……」
「数字を集める。現場を見る。そこにいる人間の話を聞く。そして、判断する」
萬代は冊子の表紙に手を置いた。
「冊子の数字は、その結果についてきているだけなのかもしれん」
「建物を作った人の思いまで、数字に入っているんでしょうか」
「それはわからん」
萬代は穏やかに答えた。
「だが、数字に入っていないからといって、忘れてよいわけではない」
長谷は、大浜公民館で見た設計者のメモを思い出した。
「俺が廃墟を巡ってきたのも、似た理由だったのかもしれません」
「そうかもしれんな」
長谷は地下資料室を出た。
階段を上がりながら考えた。
まだ使える建物を、廃墟にしたくない。
それが、始まりだった。
だが今、自分がしているのは、守る建物と、後へ回す建物を選ぶ仕事だ。
すべてを守ることはできない。
だからといって、選ばなかった建物や、そこで過ごした人の時間を忘れてよいわけではない。
森下の顔。
設計者のメモ。
祭りの写真。
そのすべてを抱えたまま、決め続けるしかない。
長谷は階段を上り切った。
「……続けよう」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
数日後。
南小学校との複合化について、教育委員会と市長部局が正式に基本方針を発表した。
その日のうちに、SNSへ投稿が相次いだ。
「不特定の大人を学校に入れるのか」
「不審者対策はどうする」
「子どもの安全より施設削減を優先するのか」
「子どもを人質にして、公民館を閉鎖するな」
一部の投稿は急速に拡散された。
説明会で示した動線分離や安全管理の内容はほとんど触れられず、「学校へ大人が自由に出入りする計画」として情報が広がっていた。
管財課。
響矢が廊下へ目を向けた。
「上層部の足音が変わりました」
「どう変わりましたか」
長谷は尋ねた。
「市長室と教育委員会の間を、何人も速い足取りで行き来しています。複合化との距離を取りたい人が増えていると思います」
長谷は、画面上に並ぶ投稿を見た。
「千々岩さんに相談します」
市長秘書室。
千々岩は、長谷がまとめたSNS上の反応と、問い合わせ状況を確認した。
「炎上している最中に正面から反論すれば、さらに広がる」
「では、何もしない方がいいんでしょうか」
「何もしなければ、反対意見だけが世論として残る」
千々岩は資料を机に置いた。
「今すぐ計画を撤回するのも、正面から反論するのも悪手だ。少し時間を置きながら、正確な情報が届く経路を作る」
「公式に説明を出しますか」
「当然出す。安全対策、利用時間、動線分離、管理責任を整理して公表しろ」
千々岩は続けた。
「それだけでは足りない。説明会では、複合化を評価する住民もいたはずだ」
「いました」
「その人たちが意見を述べられる場も用意しろ」
長谷は少し迷った。
「行政が、支持する住民に発言を求めるということですか」
「支持意見を書けと頼むのは駄目だ」
千々岩は即座に答えた。
「計画に賛成でも反対でも、意見を提出できる場を作る。説明会の記録も公開する。関係団体には、意見募集を始めたことを平等に知らせる」
「声を上げる機会を知らせるだけ……」
「そうだ。何を言うかは住民が決める」
千々岩は長谷を見た。
「反対する者だけが住民ではない。黙っている者の意見も、政策判断には必要だ」
長谷は、中央地区公民館の利用団体を訪ねた。
最初は、囲碁クラブの代表だった。
「市が意見募集を始めます。複合化について感じていることを、賛成でも反対でも構いませんので、聞かせてください」
代表はゆっくり頷いた。
「私は、南小学校なら悪くないと思っています。歩いて行けますし、子どもの声を聞きながら碁を打つのも一興でしょう」
「その意見を、提出していただけますか」
「構いません。ただ、安全面で心配する人の気持ちもわかります。その点は、市にきちんとしてもらわないといけません」
次に、子育てサークルの代表と会った。
「放課後に使えるなら、今より便利になる可能性はあります」
代表は少し迷ってから言った。
「でも、賛成だと言うと、子どもの安全を軽く考えていると思われそうで、言いにくかったんです」
「安全への不安も含めて、そのまま書いてください」
「賛成か反対か、どちらか一方を選ばなくてもいいんですか」
「はい。条件付きの賛成でも、懸念の表明でも構いません」
自治会長は、資料を読みながら答えた。
「公民館がなくなるのは寂しい。ただ、何も残らないより、南小学校に新しい場ができる方がいい」
「市の意見募集について、地域にも知らせていただけますか」
「知らせます。ただし、賛成を取りまとめるつもりはありません。それぞれが考えて出せばいい」
「それでお願いします」
市は、複合化計画の説明資料をウェブサイトで公開した。
児童と地域利用者の動線。
利用可能な曜日と時間。
防犯設備。
受付方法。
責任分担。
寄せられた主な質問への回答。
同時に、賛否を問わず意見を提出できる窓口を設け、説明会の議事概要も公開した。
数日後。
反対意見は依然として多かった。
「対策を書いても、事故が絶対に起きないとは言えない」
「学校は教育だけに使うべきだ」
そうした声は消えなかった。
一方で、これまで表に出ていなかった意見も届き始めた。
「中央地区公民館の活動場所が残るなら、複合化を支持する」
「南小学校は近く、移動の負担が少ない」
「安全対策が実施されるなら、地域と学校がつながる機会になると思う」
「賛成だが、夜間の騒音対策は必要」
単純な賛否だけではなく、条件や懸念を伴った意見が増えていった。
SNS上の反応も、少しずつ変わった。
強い言葉だけが拡散されていた状態から、計画の具体的な内容や、安全対策を確かめようとする投稿が見られるようになった。
響矢が、意見集計の画面を見ながら言った。
「反対意見がなくなったわけではありません」
「はい」
「でも、反対だけが住民の総意だとは言えなくなりました」
「千々岩さんの言ったとおりでしたね」
響矢は少し考えた。
「最初は、行政が支持者を使っているように感じました」
「俺も少し抵抗がありました」
「でも、市は賛成意見を書かせたわけではありません。意見を出せることを、関係者に知らせただけです」
響矢は、条件付き賛成の意見を開いた。
「実際に書いた人たちは、自分の懸念も一緒に書いています。誰かに言わされた文章ではありません」
「声を上げたのは、住民自身です」
「はい」
響矢は頷いた。
「行政がしたのは、黙っていた意見にも届く経路を作ったことです」
長谷は、集まった意見を見た。
反対だけではない。賛成も、迷いも、条件付きの意見も、ようやく同じ場所に並んでいた。
この話のFM豆知識
(豆知識は準備中)
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら
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