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第1巻 第12話

優先度の選択

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管財課。

長谷の机いっぱいに、個別施設計画の草稿が広がっていた。

市内すべての施設について、修繕、更新、統合、複合化、用途変更の時期を示す計画だ。

施設ごとに、優先順位を決めなければならない。

それは同時に――どの施設を後へ回すかを決めることでもあった。

石末が長谷の机へ近づき、草稿を覗き込んだ。

「優先順位をつけ始めたか」

「はい。まず、劣化が進んでいる施設を抽出しました」

長谷はマトリクスを指した。

「ただ、今年度の修繕予算で対応できる施設には限りがあります。全部を同時にはできません」

「当たり前だ。どこかで選ぶしかない」

優先的な対応が必要と評価された施設は、十二棟。

今年度の予算で、大規模な修繕ができるのは三棟。

三棟を選ぶということは、残る九棟を今年度は選ばないということだ。

劣化の程度。

事故が起きた場合の被害。

利用者数。

代替施設の有無。

応急対応で持たせられる期間。

どの項目を重く見るかによって、答えは変わる。

長谷は、画面に並んだ施設名を見つめたまま動かなかった。

響矢が、その様子に気づいて近づいてきた。

「長谷さん。さっきから、同じ画面を見ています」

「選べないんです」

「なぜですか」

「三棟を選べば、九棟は後回しになります」

「予算に限りがある以上、仕方がありません」

「仕方がないでは済まないかもしれない」

長谷は画面を見たまま答えた。

「後回しにした施設で事故が起きたら、選ばなかった判断が問われます」

響矢は少し黙った。

「その可能性も含めて、判断するしかありません」

「響矢さんなら、割り切れますか」

「割り切れません」

響矢は即答した。

「でも、割り切れないことと、決めないことは別です」

長谷は石末にも尋ねた。

「石末さんなら、何を最優先にしますか。劣化が一番進んでいる施設ですか。利用者が多い施設ですか。それとも、事故の可能性が高い施設ですか」

「基準ごとに、違う答えが出る」

「どれが正しいんですか」

「全部だ」

石末は腕を組んだ。

「技術職として俺が最初に見るのは、事故が起きたときの被害だ。今壊れたら、誰がどれだけ危険にさらされるか」

「でも、それだけでは決められません。利用者数も、代替施設の有無も、行政サービスとしての必要性もあります」

「だから、お前たち管財課がいる」

石末は草稿を指した。

「俺は建物の危険度を示す。財政課は予算を示す。各部局は施設の役割を示す。それを全部引き受けて、順番にするのがお前の仕事だ」

「最終的には、誰かが決めなければならない……」

「そういうことだ」

深夜。

長谷は掲示板に書き込んだ。

「優先順位を決めることは、後回しにする施設を決めることでもある。どの基準を使っても、誰かが不利益を受ける。それでも選ばなければならない。どう考えればいい」

中性化からレスが付いた。

「全部を同時に救えない。それが資源制約だ。

重要なのは、判断基準を先に決めることだ。結論を出してから都合のいい理由をつけるな。

安全性。

劣化の進行度。

利用・必要性。

代替可能性。

応急対応の可否。

それぞれの評価方法と重みを公開しろ。そのうえで選び、なぜ選んだのか説明できるようにしろ。それがEBPMだ」

少しして、続きを知らせる表示が出た。

「ただし、選んだ施設だけを見るな。

後回しにした施設について、何年後に対応するのか。それまで、どう安全を確保するのか。誰が状態を確認するのか。

そこまで決めなければ、優先順位ではなく、単なる放置になる」

長谷は、その文章を何度も読み返した。

翌朝。

長谷は、石末、響矢、財政課、各所管部局の担当者と評価結果を確認した。

安全上の緊急性。

劣化の進行。

利用者への影響。

代替施設の有無。

応急措置によって延命できる期間。

基準ごとに施設を評価し、今年度に修繕する三棟を選定した。

長谷一人の判断ではない。

それでも、その判断を説明する役目は長谷にあった。

選ばれなかった九施設についても、応急対応、点検頻度、翌年度以降の予定を一覧にした。

その中の一つが、北部地区集会所だった。

高齢者を中心とした地域団体が利用している、小さな施設だ。

長谷が訪れると、管理者の田中庄一が迎えてくれた。七十代の、穏やかな男性だった。

「今年度の大規模修繕についてですが、北部地区集会所は、優先施設に入らないことになりました」

田中は、すぐには答えなかった。

「……そうですか。理由を聞いてもいいですか」

「今回選んだ三施設は、安全上の危険性が高く、応急対応が難しい施設です。そのうち二施設は、周辺に代替となる場所もありません」

長谷は資料を開いた。

「北部地区集会所も劣化は進んでいます。ただ、現時点では応急補修によって使用を続けられると判断しました。また、徒歩十分ほどの場所に南部集会所があります」

「南部集会所か」

田中は小さく息を吐いた。

「あそこは南部の人たちの場所なんだよ。使わせてもらえたとしても、私たちには少し居づらい」

「利用時間や部屋を分ける方法は、南部側と調整します」

「数字の上では、代わりがあることになるんだろうね」

田中は穏やかに言った。

「でも、建物が近いことと、自分たちの居場所であることは、同じじゃないんだ」

長谷は返す言葉を探した。

「……おっしゃるとおりです」

「怒っているわけじゃないよ。限られた予算で選ばなきゃならないこともわかる」

田中は少し笑った。

「仕方がないね」

その言葉が、長谷には重かった。

「ただし、放置はしません」

長谷は次の資料を差し出した。

「今年度は雨漏り箇所の応急補修を行い、三か月ごとに状態を確認します。次年度以降の修繕候補としても、計画に明記します」

田中は資料を受け取った。

「書いて残してくれるなら、少し安心できる」

集会所を出たあと、長谷は夕暮れの道を一人で歩いた。

田中は怒らなかった。

怒られなかった分だけ、胸に残った。

判断の筋は通っている。

それでも、田中たちが長年使ってきた場所を、別の施設で代替できると評価した。

物理的な代替はできても、居場所の感覚までは置き換えられない。

長谷は石末に電話した。

「石末さん。理由を説明できる判断をして、それでも相手を傷つけたとき、どうすればいいんでしょう」

石末は少し間を置いて答えた。

「傷つけなかったことにするな」

「……」

「合理的な判断だったと言い訳して、相手の顔を忘れるな。決めた側は、結果から逃げない。それしかない」

「はい」

「それから、今年できないなら、来年の計画に残せ。点検も応急処置も続けろ」

「後回しと、放置は違う」

「やっとわかったか」

電話が切れた。

長谷は、北部地区集会所の計画欄に、点検時期と応急補修の内容を追記した。

優先施設の一つは、東部小学校だった。

築四十二年。

校舎の外壁には、広い範囲で浮きが確認されている。

石末がテストハンマーで外壁を叩き、長谷が図面と修繕履歴を照合していた。

コン、コン。

乾いた音が続く。

ある場所で、鈍い音に変わった。

「ここも浮いている」

石末はチョークで壁に印をつけた。

「校庭側だけじゃない。通学動線に面した部分にもある。剥落すれば、登下校中の児童に当たるおそれがある」

「必要な工事費は」

「外壁補修で千二百万円。屋上防水も同時にやれば、合計で千八百万円ほどだ」

「予算内に収まりますか」

「ぎりぎりだ」

石末が図面を畳みかけて、手を止めた。

「ただ、同じ地区の大浜公民館も劣化が進んでいる」

「状況は?」

「雨漏りが始まっている。今すぐ天井が落ちる状態ではないが、このままなら一年か二年で悪化する」

「東部小学校を今年度に修繕すれば、大浜公民館は後になる」

「そういうことだ」

「応急補修と使用制限で、次年度まで持たせられますか」

「定期的に確認することが条件だ。雨漏りの範囲が広がれば、途中でも使用を止める」

長谷は計算表を見た。

東部小学校を優先する。

大浜公民館は、今年度の全面修繕を見送る。

北部地区集会所で見た、田中の顔が浮かんだ。

それでも、判断を変える根拠はなかった。

翌日。

長谷は大浜公民館を訪れた。

管理者の森下稔は、地域の自治会長も務めている六十代の男性だった。

説明を始める前から、表情は険しい。

「今年度、大浜公民館は応急補修までとし、全面的な修繕は次年度以降とする方針になりました」

「東部小学校を先に直すからですか」

「はい。外壁が通学路側へ落下する危険があり、早急な対応が必要と判断しました」

森下の声が強くなった。

「子どもが大事で、老人は後回しということですか」

「年齢で判断したわけではありません」

「同じことだろう」

森下は机を叩いた。

「私たちは、ここで何十年も活動してきた。子どもも高齢者も、同じ市民じゃないのか」

「おっしゃるとおりです」

「なら、なぜこちらが待たされる」

「東部小学校は、外壁が剥落した場合、重い事故につながる可能性があります。大浜公民館は雨漏りが始まっていますが、現時点では応急補修と点検を続けることで、一定期間使用できると判断しました」

「役所は、いつもそうだ」

森下は吐き捨てるように言った。

「予算がない。順番だ。検討する。そう言って、最後には忘れる」

長谷は言葉に詰まった。

森下の怒りは、今年度の修繕だけに向けられたものではない。

過去に何度も繰り返された先送りへの怒りだった。

「今回も、同じだと思われているんですね」

森下が長谷を睨んだ。

「違うと言えるのか」

長谷は資料を机の上に置いた。

「言葉だけでは、言えません」

「……」

「今年度は、屋上の応急補修を行います。雨漏り箇所は三か月ごとに確認し、範囲が広がれば使用制限をかけます。次年度の修繕候補として、個別施設計画にも明記します」

「来年度には必ず直すのか」

長谷は、すぐには答えられなかった。

「必ずとは約束できません」

森下の表情がさらに険しくなる。

「予算と議会の議決が必要だからです。ただ、今年のように、理由も記録もないまま先送りにはしません。状況と必要性を残し、次年度の判断に引き継ぎます」

「そんな話で納得しろと言うのか」

「納得していただけないことは、わかっています」

長谷は頭を下げた。

「それでも、今お伝えできることを隠さず説明するしかありません」

森下は答えなかった。

長谷は公民館を後にした。

管財課へ戻り、石末に報告した。

「森下さんに怒鳴られました」

「そうか」

「子どもを優先して、高齢者を後回しにするのかと言われました」

「理のある怒りだ」

「判断基準は間違っていないと思います」

「それでも怒る理由はある」

石末は長谷を見た。

「判断が正しいことと、相手が傷つかないことは別だ」

長谷は深く息を吐いた。

「これが、優先順位をつけるということなんですね」

「そういうことだ」

「慣れるしかないですか」

「慣れるな」

石末は低い声で答えた。

「慣れたら、数字だけで人を切るようになる。だが、怖くなって決めることから逃げるな」

長谷は頷いた。

「大浜公民館の応急補修を、すぐに進めます。次年度の計画にも、優先候補として明記します」

「それでいい」

数日後。

長谷は再び大浜公民館を訪れた。

石末が屋上の応急補修を行う日だった。

森下は、作業を見上げながら立っていた。

「本当に来たんだな」

「応急処置だけですが、これ以上の浸水を抑えます」

「来年度の修繕は」

「次年度の優先候補として、計画に記載しました。予算要求も行います」

「約束ではないんだな」

「はい。実現を保証するとは言えません」

長谷は森下を見た。

「でも、忘れません。状況を確認し続けます。次の判断から外さないために、記録にも残します」

森下はしばらく長谷を見ていた。

「役所の人間が、できないことをできると言わないのは珍しいな」

「申し訳ありません」

「褒めているわけじゃない」

森下は、屋上で作業する石末へ目を向けた。

「だが、何もしないで帰ったわけでもない。それは見ておく」

長谷も屋上を見上げた。

石末から、携帯電話に短いメッセージが届いた。

「詰まり除去完了。防水の応急処置に入る」

全部を同時に救うことはできない。

それでも、選ばなかった施設を忘れてはならない。

理由を説明する。

安全を確認する。

次の計画へ残す。

決めた後も、関わり続ける。

それが、優先順位をつける側の責任だった。

地下資料室。

萬代は、黒い冊子を開いていた。

一つの指標が、わずかに改善している。

別の指標は、少し悪化していた。

萬代はしばらく数字を眺め、静かにページを閉じた。

「一つを支えれば、別の場所に重みがかかる」

誰に聞かせるでもなく呟き、黒い表紙に手を置いた。

「街とは、そういうものかもしれんな」

この話のFM豆知識

(豆知識は準備中)

つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら