ep109

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第1巻 第9話

ハコを片付ける技術

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本庁大会議室。

スクリーンに、優先度マトリクスが映し出されていた。

長谷は説明席に立ち、後方の壁際では石末が腕を組んでいる。

「縦軸は建物の健全度、横軸は施設の利用状況と行政サービス上の必要性です」

長谷はスクリーンを指した。

「このマトリクスは、すべての施設を同じ基準で廃止するためのものではありません。修繕、更新、統合、用途変更など、今後の取扱いを議論する出発点です」

委員たちは、画面上に並んだ施設名を見ていた。

自分の部局が所管する施設が、どこに配置されているのか。

誰もが、まずそれを探している。

「なお、横軸のデータには、調査時点が古いものや、施設ごとに集計方法が異なるものが含まれています。その限界を踏まえ、今後の調査で精度を高める必要があります」

長谷は一度、委員たちを見渡した。

「そのうえで、個別施設計画の最初の検討対象を提示します」

次の資料を映そうとしたとき、椅子を引く激しい音がした。

教育委員会の課長が、机に手をついて立ち上がっていた。

「ふざけるな!」

会議室の空気が張り詰める。

「中央地区公民館が、なぜ右下の領域に入っている。検討対象と言いながら、実際には廃止する施設を決めたということだろう」

「廃止を決定したわけではありません。建物の劣化が進み、利用状況も――」

「名指しでスクリーンに映された時点で、所管部局にとっては決定と同じだ」

課長は画面上の施設名を指した。

「あの公民館には、何十年も通い続けている住民がいる。その人たちの気持ちは、この表のどこに入っているんだ」

「それは、今後の検討で――」

「冷酷に施設を削るだけが、ファシリティマネジメントなのか」

他の委員たちも、次々と声を上げた。

福祉部長が身を乗り出す。

「今回は公民館だが、次は高齢者施設が同じ扱いを受けるのではないか」

建設部長も続いた。

「効率だけで判断するな。建物には、数字に表れない地域の役割がある」

長谷は説明を続けようとした。

しかし、反論の声が重なり、言葉が届かない。

壁際の石末は、腕を組んだまま長谷を見ていた。

千々岩が静かに手を上げる。

「そこまでです」

ざわめきが収まった。

「本日は、マトリクスの考え方と評価結果の共有までとします。各部局は、評価方法と個別施設の取扱いについて、意見書を提出してください」

委員会は閉会した。

幹部たちが、険しい表情のまま大会議室を出ていく。

一人で資料を片づけていると、石末が近づいてきた。

「どう見た」

「反発はありました。でも、マトリクスを使うこと自体が否定されたわけではありません」

「それで?」

長谷はスクリーンを見た。

既に投影は消え、白い幕だけが残っている。

「教育委員会の課長が言ったことが、頭に残っています」

「冷酷に削るだけがFMなのか、か」

「はい」

石末は短く頷いた。

「その引っかかりは、大事にしておけ」

深夜。

長谷の自宅。

長谷は掲示板に書き込んだ。

「委員会で、施設の取扱いを検討するためのマトリクスを提示した。廃止を決めたわけではないのに、激しい反発を受けた。

『冷酷に削るだけがFMなのか』という言葉が、頭から離れない」

しばらくして、中性化からレスが付いた。

「勘違いするな、爆裂。施設を減らすことは、単なる破壊ではない。限られた資産を次の世代へ引き継ぐための総量マネジメントだ。

高度経済成長期に整備された施設を、今の人口と財政のまま全部維持することはできない。何も決めなければ、必要な施設まで共倒れになる」

少し間を置いて、続きが投稿された。

「だが、数字だけを示して『廃止する』と迫れば、反発されて当然だ。

建物には、そこで過ごした人間の時間がある。お前はそれを知っているはずだ。なぜ廃墟を巡ってきたのか、原点を思い出せ」

数字では見えない、人間の時間。

長谷の中に、かつて巡った廃墟の光景が蘇った。

朽ちた教室に残された子どもの落書き。

棚の奥に置き去りにされた写真。

錆びた流し台。

誰かが貼ったままになっていた予定表。

建物は役目を終えても、そこで人が生きた痕跡を残していた。

長谷が廃墟を巡ってきたのは、壊れた建物が好きだったからだけではない。

消えていくものの中に残された、人の時間を見届けたかったからだ。

中央地区公民館にも、数字の向こう側がある。

それを知らないまま、次の形を決めてはいけない。

長谷は、公民館の歴史を調べることにした。

翌日。

長谷は地下資料室を訪れ、萬代に中央地区公民館の資料を探してほしいと頼んだ。

「昭和四十年代の資料か。地下の奥に、未整理の箱があったはずじゃ」

萬代は棚の奥へ入り、古い段ボール箱を引き出した。

中には、中央地区公民館の建設当時の資料が詰め込まれていた。

設計図。

建設委員会の議事録。

開館式を伝える新聞記事。

設計者と市職員の打合せ記録。

長谷は一枚ずつ確認していった。

その中に、小さな手書きの紙片が挟まっていた。

「これは……」

細かい字で、各年度の修繕要求と、その結果が記録されている。

昭和六十三年度。

外壁調査実施。補修必要。予算要求――見送り。

平成七年度。

屋上防水限界。全面改修要求――見送り。

平成十五年度。

外壁の一部で爆裂進行。緊急補修のみ実施。根本的な解決には至らず。

それぞれの記録の脇に、小さな印が押されていた。

――諫山。

長谷は、何度も紙面を読み返した。

二十年以上前から、この建物を直そうとした職員がいた。

異常を調べ、記録し、予算を求め続けていた。

だが、抜本的な修繕は実現しなかった。

今日の深刻な劣化は、突然起きたものではない。

小さな見送りが積み重なり、現在まで運ばれてきた結果だった。

長谷はメモを持ったまま、しばらく動けなかった。

その日の閉館後、中央地区公民館を訪れた。

長谷は古い資料と台帳を持ち、各室を見て回った。

廊下の壁には、長いひび割れが走っている。

外壁側の柱には錆汁が流れ、別の箇所には白い析出物が浮いていた。

天井には漏水跡が広がり、窓枠の周囲には補修を繰り返した痕跡がある。

躯体の劣化は、想像していたより深刻だった。

このまま使い続ければ、安全を確保するために多額の改修費が必要になる。

集会室へ入る。

壁には、色褪せた写真が並んでいた。

盆踊り。

子ども会。

成人式。

文化祭。

写真の中の人々は、まぶしいほど楽しそうに笑っていた。

時代も、人も変わった。

その間、この建物だけが同じ場所に立ち続けてきた。

建設当時、限られた予算の中で住民のために設計した人がいた。

ここへ通い、活動し、思い出を重ねた市民がいた。

劣化に気づき、何度も修繕を求めた職員がいた。

だが、予算には限りがあった。

別の事業も必要だった。

利用者も少しずつ減っていった。

誰か一人の悪意で、ここまで老いたわけではない。

その時々の判断が積み重なり、誰かが決めなければならないところまで来た。

長谷は、壁の写真を見つめた。

この建物を、何の説明もなく壊して終わりにはしたくない。

残せないのなら、ここにあった時間と役割を、次の形へ引き継がなければならない。

次の推進委員会。

長谷は、新たな資料を準備して説明席に立った。

傍聴席には、中央地区公民館の取扱いを確認するため、倉持議員の姿もあった。

「前回は、評価データだけをお示ししました」

長谷は委員たちを見渡した。

「今日は、その数字の向こうにあるものを説明します」

スクリーンに、昭和四十年代の写真が映し出された。

建設工事の様子。

開館式。

大勢の住民で埋まった集会室。

地域行事で使われているホール。

「中央地区公民館は、昭和四十七年に開館しました。限られた予算の中で、地域の活動拠点となることを目指して整備され、多くの市民に利用されてきました」

次に、諫山のメモを映す。

「一方で、建物は少しずつ老朽化しました。二十年以上前から、修繕の必要性を訴え続けた職員がいました」

昭和六十三年度。

平成七年度。

平成十五年度。

見送りという文字が、スクリーンに並ぶ。

「予算要求は繰り返されました。しかし、必要な改修の多くは先送りされ、応急処置だけが重ねられました。その間に利用者も減り、建物の劣化はさらに進みました」

委員たちは、黙って資料を見ていた。

教育委員会の課長も、前回とは違い、声を上げなかった。

長谷は一度、息を整えた。

「過去の判断を責めたいのではありません」

長谷は続けた。

「行政にも議会にも、市民にも、その時々の事情がありました。別の事業を優先しなければならない年もあった。施設を利用しなくなった人にも、それぞれの理由があった」

スクリーンに、現在の劣化写真を映す。

「ですが、先送りを続けた結果、この建物を現在の形のまま維持することは、非常に難しくなっています」

会議室に、静かな緊張が広がる。

「だからこそ、ただ取り壊して終わりにしたくありません」

長谷はマトリクスを再び映した。

「この表は、廃止施設を機械的に決めるためのものではありません。今ある役割を、どのような形で未来へ引き継ぐのか。その議論を始めるためのものです」

しばらく沈黙が続いた。

教育委員会の課長が、静かに尋ねた。

「……次の形とは、具体的に何を考えているんですか」

「公民館の機能を、周辺の別施設へ移す方法を検討します」

長谷は答えた。

「集会室や活動場所を確保し、利用団体が活動を続けられるようにする。地域の居場所として必要な機能も残す。そのうえで、建物そのものを維持するかどうかを判断したいんです」

「建物をなくしても、機能は残すと」

「はい」

長谷は頷いた。

「施設を取り壊すことと、市民を切り捨てることは違います」

傍聴席で、倉持議員が腕を組んだまま低く言った。

「……少しは、わかってきたじゃないか」

委員会終了後。

千々岩が、資料を片づける長谷に近づいた。

「今回は、前より届いた」

「ありがとうございます」

「ただし、対話の入口ができただけだ」

千々岩は声を落とした。

「次回までに、具体的な移転先と、必要な改修費、利用団体への影響を示せ。代わりがないまま建物だけなくす提案では、また反発される」

「わかりました」

「まだ決着はついていない。そこを間違えるな」

千々岩は会議室を出ていった。

廊下で、石末が長谷に追いついた。

「前回とは違ったな」

「古い記録を見て、考え方が変わりました」

長谷は資料の間から、手書きのメモを取り出した。

「この建物を守ろうとした人が、二十年以上前からいたんです。俺が廃墟を巡ってきた理由と、少し似ていると思いました」

「どういうことだ」

「廃墟には、そこで生きた人の時間が残っています。建物を残せなくても、その時間まで無かったことにはしたくないんです」

石末が鼻で息を吐いた。

「廃墟マニアが、役に立つこともあるんだな」

「石末さんに言われたくありません」

長谷はメモの印を指した。

「ところで、この名前に見覚えはありますか。諫山という印です。昔、修繕要求を出していた職員だと思います」

石末が足を止めた。

メモを受け取り、印を凝視する。

「諫山……」

声が低くなった。

「俺の元上司だ」

「どんな人だったんですか」

「化け物みたいな人だった。建物を見れば、図面がなくても構造と傷み方を言い当てた。技術も知識も、俺とは比べものにならない」

「今は、どこに?」

石末はメモを長谷へ返した。

「わからない」

「退職したんですか」

「課長だった頃、突然役所を辞めた」

石末は、ひと呼吸置いた。

「懲戒処分を受けたという噂もあった」

「何をしたんですか」

「知らない。庁内でも詳しいことは伏せられていた」

長谷は、メモに押された小さな印を見た。

「会えませんか」

「居場所もわからん」

石末は歩き出した。

「それに、今のお前が会いに行っても、相手にされないだろう」

長谷もその後を追った。

手の中のメモには、二十年以上前の修繕要求と、一人の技術者の名前が残されていた。

――諫山。

その名前が、長谷の頭から離れなかった。

この話のFM豆知識

(豆知識は準備中)

つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら