ep108

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第1巻 第8話

勘と経験を疑う

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市長秘書室。

地元の有力議員、倉持幸三(60代)が、千々岩の机の前に立っている。大柄な身体を前へ乗り出し、低い声で詰め寄っている。

長谷も、白書と個別施設計画の担当者として同席させられていた。

「千々岩。聞いたぞ。管財課が、個別施設計画とやらを作っているそうじゃないか」

「策定作業を始めています」

「うちの地元の青葉市民ホールが、統廃合の候補に入っているという話も聞いた」

「まだ評価対象の一つです。統廃合が決まったわけではありません」

「候補に挙がったというだけで、地元は騒ぐんだ」

倉持は机を指で叩いた。

「あのホールは、長年住民に愛されてきた地域の象徴だ。私も三十年間、あの地域を見てきた。まだ十分に使える。数字に表れない住民の声を見落とすな」

長谷は資料を開いた。

「倉持議員。利用状況のデータでは——」

「若造が口を挟むな」

倉持が長谷を睨んだ。

「お前は、この地域を何年見てきた」

「……二年です」

「私は三十年だ」

倉持は言い切った。

「数字を否定するつもりはない。だが、数字だけで住民を説得できると思うな。最後に問われるのは、市民へ説明できるかどうかだ」

倉持は千々岩へ視線を戻した。

「正しいかどうかは、最終的には市民が選挙で判断する。住民の声を軽く扱うな。わかったな」

倉持が部屋を出ていった。

扉が閉まると、千々岩は深く息を吐いた。

「長谷くん。これが地方政治の現実だ」

「でも、数字を無視して判断すれば——」

「数字が正しくても、人と組織を動かせなければ政策にはならない」

千々岩は倉持が出ていった扉を見た。

「三十年の実績を持つ議員の勘と経験には、それだけの政治的な重みがある。正面から数字をぶつけるだけでは勝てない」

長谷は資料を抱え、秘書室を出た。

廊下では、響矢が待っていた。

「倉持議員の声、ここまで聞こえていました」

「かなり大きかったですからね」

「『地域の象徴』と言ったときだけ、声の出し方が違っていました」

長谷は足を止めた。

「倉持議員には、あのホールを守りたい特別な理由がある、ということですか」

「私にわかるのは、音が違ったということだけです」

響矢はそれ以上言わず、財政課へ戻っていった。

青葉市民ホールの利用率は低い。

データは、そう示している。

だが長谷の頭には、倉持が口にした「地域の象徴」という言葉が残った。

長谷は、青葉市民ホールへ向かった。

昭和四十一年竣工。

設計は地元の建築事務所。当時の市の年間予算の一五パーセントに当たる建設費を投じて造られた、市を代表する建物だった。

長谷が訪れたとき、ホールでは地域の太鼓保存会が練習していた。

腹に響く音が、古い建物の中を震わせている。

休憩スペースでは、小さな子どもを連れた親たちが話をしていた。子どもたちは椅子の周りを走り回っている。

利用者は多くない。

だが、誰も使っていないわけではなかった。

長谷は台帳を片手に、屋上から順に建物を確認した。

複雑な屋根形状。

立ち上がり部分の劣化。

窓まわりの漏水跡。

天井や床には、過去に水が溜まった形跡が残っている。

早急な修繕が必要な状態だった。

技術的に見れば、直すべきだ。

だが、利用者の少ない施設に多額の予算を投じることが、将来世代に対して正しいのか。

千々岩からは、人がいない場所に建物だけを残すなと言われている。

一方で、この施設がなくなれば、太鼓保存会はどこで練習するのか。

子どもを連れた親たちは、どこで休むのか。

低い利用率という数字の向こうに、確かに人がいる。

建物の劣化だけを見れば、修繕すべきだと判断できる。

しかし、その建物を残すべきかどうかは、技術だけでは決められない。

正しく判断するための、別の物差しが必要だった。

深夜。

長谷の自宅。

長谷は掲示板に書き込んだ。

「政治的な声や抽象的な価値観だけに流されず、データに基づいて判断する方法はあるか。数字を示しても、勘と経験で押し返される」

しばらくして、中性化からレスが付いた。

「これから必要になるのは、EBPM(Evidence-Based Policy Making、エビデンスに基づく政策立案)だ。エビデンスに基づいて政策を考える。勘や声の大きさだけでなく、客観的なデータを判断材料にする方法だ。参考資料を送る」

続けて、もう一つ書き込まれた。

「ただし、勘違いするな。データは、反対する議員や住民を殴り倒すための棍棒じゃない。データも一つの根拠にすぎない。

お前が青葉市民ホールで見たものを忘れるな。利用者が少ないという数字と、そこで必要としている人がいるという事実は、両方とも本当だ」

データは、判断のための武器になる。

だが、それだけでは足りない。

では、何を組み合わせればいいのか。

長谷は画面を見つめたまま考え続けた。

翌朝。

長谷は石末に相談した。

「石末さん。EBPMを進めるなら、元になるデータの信頼性が必要ですよね。役所の利用統計は、実態と合っているんでしょうか」

「全部が合っているとは限らない」

石末は即答した。

「紙の受付簿と自己申告が中心だ。人数の数え方も施設ごとに違う。盛ろうと思えば盛れるし、少なく出ることもある」

「利用実態を示すデータが間違っていたら、評価全体が歪みます」

「そういうことだ。数字を使うなら、まず数字の作られ方を疑え」

響矢が近づいてきた。

「長谷さん。教育委員会の田村係長が、今日の午後なら時間を取れるそうです」

「会ってくれるんですか」

「現場には危機感があります。上層部が動いていないだけです」

午後。

教育委員会の小会議室。

長谷は、施設担当の田村啓介係長と向かい合った。三十代。目の下には疲労の跡があった。

田村は扉が閉まったことを確認してから、口を開いた。

「正直に言います。学校施設の中には、本当に危険な状態のものがあります」

「教育委員会内では、共有されているんですか」

「上には、十分に上げられていません」

「なぜですか」

「老朽化を強く訴えれば、統廃合の候補にされる可能性があるからです」

田村は机の上で手を組んだ。

「候補だという噂が出るだけで、地域への説明が必要になります。教育委員会としては波風を立てたくない。でも現場の教頭たちは、毎日綱渡りです」

「石末さんが外壁の全面調査を求めた学校もあります」

「知っています」

田村は視線を落とした。

「課長も報告は受けています。ただ、今すぐ予算を要求すれば、学校の存廃と結びつけて議論される。それを避けたいんです」

長谷は少し身を乗り出した。

「田村さん。具体的な状況を教えてください。管財課と教育委員会で、動きを合わせたいんです」

田村はしばらく考えていた。

「……わかりました。ただし、一つ条件があります」

「何でしょう」

「最初は、有志の勉強会という形にしてください。組織として正式に動くには、課長の判断が必要です」

田村は長谷を見た。

「事前検討のための情報として提供します。ただ、公表したり他部局へ説明したりする前に、私から上司へ報告する時間をください」

「もちろんです。田村さんの立場を飛び越えて使うことはしません」

「お願いします」

組織の内側に、危機感を持つ職員がいた。

響矢の言ったとおりだった。

管財課へ戻ると、長谷は机に積まれた資料を見つめた。

全施設の状況を、推進委員会へ示さなければならない。

データは集まりつつある。

だが、数字を表に並べるだけでは、誰にも全体像は伝わらない。

どう見せるか。

それが次の問題だった。

響矢が通りかかり、資料の山を一瞥して足を止めた。

「そのデータで、何を作るんですか」

「全施設の状況を整理して、推進委員会に提示するつもりです」

「このままでは無理です」

「やっぱり、そう思いますか」

「数字が並んでいるだけの資料は、三秒で読むのをやめます」

響矢は資料の一枚を手に取った。

「委員会の幹部は、自分の所管施設だけを探します。自分たちに有利な数字は使い、不利な数字は見なかったことにするでしょう」

「では、どうすればいいんですか」

「一目で、全体の構造が見えるようにします」

「可視化ですか」

「データは、見える形にして初めて判断材料になります」

「施設の状態を、どう可視化すればいいんでしょう」

「方法までは知りません」

響矢は資料を机へ戻した。

「でも、長谷さんが夜に相談している人なら、知っているのではありませんか」

深夜。

長谷の自宅。

長谷は掲示板に書き込んだ。

「大量の施設データを、一目で全体像がわかる形にする方法はあるか。数字を並べただけでは、誰も読まない」

中性化からレスが付いた。

「マトリクスを作れ。縦軸に建物の健全度、横軸に利用状況や必要性を置く」

長谷は画面に向かったまま聞き返した。

「必要性は、利用人数で見ればいいですか」

「馬鹿を言うな」

返信は速かった。

「避難所や福祉拠点は、人数だけじゃ測れん。それも必要性に入れろ」

「利用統計は、そのまま信じていいですか」

「信じるな。数字がどう作られたか確認しろ。完全なデータがなくても、限界を明示した上で使え」

長谷は、画面に向かって頷いた。誰にも見えないのに。

長谷は返信した。

「ありがとう、アニキ」

すぐに返事が来た。

「俺に弟はいない」

長谷は笑いながら、作業を始めた。

まず縦軸。

石末が集めた現場の劣化データと、長谷が図面や台帳から整理した修繕履歴を組み合わせる。

構造部材。

屋根と防水。

外壁。

設備。

安全性。

項目ごとに評価し、施設の健全度を数値化していく。

「石末さんのデータがある。縦軸は何とかなる」

問題は横軸だった。

各施設の利用統計を並べる。

利用者数。

稼働日数。

部屋ごとの利用率。

だが、数字の集計方法は施設ごとに違っていた。

予約件数を利用回数としている施設。

一つの団体を一人と数えている施設。

推計人数を記入している施設。

自己申告に任せている施設。

数字はある。

しかし、同じ物差しで比べられるとは限らない。

「不完全なデータで進むか。正確な調査ができるまで止まるか……」

新たな実態調査を行う予算も、人手もなかった。

長谷は地下資料室を訪ねた。

「萬代さん。施設の利用実態を示すデータが足りません。利用申請の数字だけで判断することに、不安があります」

萬代は珈琲カップをソーサーに置いた。

しばらく考えたあと、棚の奥へ歩いていく。

「昔、知人が情報公開請求で入手した資料があったはずじゃ」

積み重なった箱の中から、一冊のファイルを取り出した。

「十年前に市が実施した、市民アンケートの集計結果じゃ。個人は特定できんが、施設ごとの利用経験や利用頻度が残っておる」

「十年前のデータですか」

「古い。今の実態をそのまま示すものではない」

萬代はファイルを長谷へ渡した。

「それでも、今ある利用申請の記録とは違う角度から施設を見られる。使うなら、調査時点と限界を最初から説明しなさい」

長谷は頷いた。

「ないことを隠すのではなく、不完全だと示した上で使う……」

「完全な数字が空から降ってくるまで、建物が待ってくれるわけではないからな」

長谷は、現在の利用申請データと、十年前のアンケート結果を照合した。

さらに、施設が担う機能も整理する。

避難所指定。

代替施設までの距離。

福祉サービスの有無。

地域団体の活動拠点。

利用人数だけでは表せない必要性も、評価項目として加えた。

すべての施設を、マトリクス上へ配置していく。

最後の施設名を入力した。

「できた……」

画面に、四つの領域が広がっていた。

石末が背後から画面を覗き込んだ。

しばらく黙って見ていたが、右下の一角を指さした。

「ここが一番やばいってことか。傷んでて、誰も使ってない」

「はい。中央地区公民館も、ここに入っています」

「左上は?」

「状態は良いのに、利用も必要性も低い施設です」

「もったいない箱、ってことだな」

石末はそれだけ言うと、画面から離れた。

全体像は、見えるようになった。

しかし、横軸の根拠は完全ではない。

十年前のアンケート。

集計方法が統一されていない利用記録。

評価者の判断を含む、施設機能の点数。

問われれば、弱点はいくつもある。

翌日。

響矢は、長谷が作ったマトリクスをしばらく眺めた。

「横軸のデータについては、説明の最初に限界を示した方がいいです」

「最初にですか」

「はい」

「弱点を先に話せば、資料全体の信頼性を疑われませんか」

「後から指摘されれば、都合の悪いことを隠していたと思われます」

響矢は横軸の注記を指した。

「調査時点が古いこと。施設ごとに集計方法が異なること。必要性の評価に一定の判断が含まれること。最初から説明してください」

「そのうえで、判断材料として使う……」

「そうです。不完全だから使わないのではなく、不完全さを共有した上で、次に何を調べるかまで示します」

推進委員会の前日。

長谷は一人で、説明資料を机に並べた。

データは不完全だ。

それでも、完全なデータが揃うまで待つ間にも、建物は老いていく。

萬代が、過去のアンケートを見つけてくれた。

石末が、建物の状態を見える数字にしてくれた。

響矢が、弱点を隠さず示す方法を教えてくれた。

田村が、教育委員会の内側から情報を渡してくれた。

一人では、ここまで来られなかった。

携帯電話に、石末から短いメッセージが届いた。

「明日、後ろで見ていてやる」

長谷は資料を鞄へ入れた。

最後に、机の端に置いていた黒い冊子を手に取る。

ページに並ぶ数字が、わずかに変化していた。

改善したとも、悪化したとも断定できない、微妙な動きだった。

長谷は冊子を閉じ、資料とともに鞄へ入れた。

「仕方ない。不完全でも、前へ進むしかない」

この話のFM豆知識

FMの教訓:経験から出た意見を数字と照らし合わせ、判断した理由を説明する。

◆ 何を改善し、その結果をどう確かめるか

例えば、窓口の混雑を減らすなら、現在の待ち時間、変更する業務、変更後の待ち時間を確認します。目的を決め、対策が役立つ理由を調べ、実施後の結果も確かめます。このように根拠を確かめて政策を考える方法が、EBPM(証拠に基づく政策立案)です。

◆ 経験から分かることを、資料でも確かめる

長年担当した人は、記録にない事情を知っている場合があります。その話を聞き、利用記録や費用などと照らし合わせます。「以前からこうしている」で終えず、今も同じ条件なのかを確認すると、後任にも判断理由を説明できます。

◆ 物語の場面

長谷は、勘と経験を重視するベテラン議員の反論を受けます。数字を示すだけでは議論が進みません。数字で分かる範囲を説明し、経験から出た意見も確かめながら、提案の理由を伝える必要に迫られます。

■ 担当者が行うこと

何を改善したいか、今はどうなっているか、何を変えるか、どんな結果を見込むかを順に書きます。資料の作成元、調査日、分からない点を示してください。経験に基づく意見は確認事項として記録し、実施後に誰が、いつ、結果を調べるかも決めます。
つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら