勘と経験を疑う
市長秘書室。
地元の有力議員、倉持幸三(60代)が、千々岩の机の前に立っている。大柄な身体を前へ乗り出し、低い声で詰め寄っている。
長谷も、白書と個別施設計画の担当者として同席させられていた。
「千々岩。聞いたぞ。管財課が、個別施設計画とやらを作っているそうじゃないか」
「策定作業を始めています」
「うちの地元の青葉市民ホールが、統廃合の候補に入っているという話も聞いた」
「まだ評価対象の一つです。統廃合が決まったわけではありません」
「候補に挙がったというだけで、地元は騒ぐんだ」
倉持は机を指で叩いた。
「あのホールは、長年住民に愛されてきた地域の象徴だ。私も三十年間、あの地域を見てきた。まだ十分に使える。数字に表れない住民の声を見落とすな」
長谷は資料を開いた。
「倉持議員。利用状況のデータでは——」
「若造が口を挟むな」
倉持が長谷を睨んだ。
「お前は、この地域を何年見てきた」
「……二年です」
「私は三十年だ」
倉持は言い切った。
「数字を否定するつもりはない。だが、数字だけで住民を説得できると思うな。最後に問われるのは、市民へ説明できるかどうかだ」
倉持は千々岩へ視線を戻した。
「正しいかどうかは、最終的には市民が選挙で判断する。住民の声を軽く扱うな。わかったな」
倉持が部屋を出ていった。
扉が閉まると、千々岩は深く息を吐いた。
「長谷くん。これが地方政治の現実だ」
「でも、数字を無視して判断すれば——」
「数字が正しくても、人と組織を動かせなければ政策にはならない」
千々岩は倉持が出ていった扉を見た。
「三十年の実績を持つ議員の勘と経験には、それだけの政治的な重みがある。正面から数字をぶつけるだけでは勝てない」
長谷は資料を抱え、秘書室を出た。
廊下では、響矢が待っていた。
「倉持議員の声、ここまで聞こえていました」
「かなり大きかったですからね」
「『地域の象徴』と言ったときだけ、声の出し方が違っていました」
長谷は足を止めた。
「倉持議員には、あのホールを守りたい特別な理由がある、ということですか」
「私にわかるのは、音が違ったということだけです」
響矢はそれ以上言わず、財政課へ戻っていった。
青葉市民ホールの利用率は低い。
データは、そう示している。
だが長谷の頭には、倉持が口にした「地域の象徴」という言葉が残った。
長谷は、青葉市民ホールへ向かった。
昭和四十一年竣工。
設計は地元の建築事務所。当時の市の年間予算の一五パーセントに当たる建設費を投じて造られた、市を代表する建物だった。
長谷が訪れたとき、ホールでは地域の太鼓保存会が練習していた。
腹に響く音が、古い建物の中を震わせている。
休憩スペースでは、小さな子どもを連れた親たちが話をしていた。子どもたちは椅子の周りを走り回っている。
利用者は多くない。
だが、誰も使っていないわけではなかった。
長谷は台帳を片手に、屋上から順に建物を確認した。
複雑な屋根形状。
立ち上がり部分の劣化。
窓まわりの漏水跡。
天井や床には、過去に水が溜まった形跡が残っている。
早急な修繕が必要な状態だった。
技術的に見れば、直すべきだ。
だが、利用者の少ない施設に多額の予算を投じることが、将来世代に対して正しいのか。
千々岩からは、人がいない場所に建物だけを残すなと言われている。
一方で、この施設がなくなれば、太鼓保存会はどこで練習するのか。
子どもを連れた親たちは、どこで休むのか。
低い利用率という数字の向こうに、確かに人がいる。
建物の劣化だけを見れば、修繕すべきだと判断できる。
しかし、その建物を残すべきかどうかは、技術だけでは決められない。
正しく判断するための、別の物差しが必要だった。
深夜。
長谷の自宅。
長谷は掲示板に書き込んだ。
「政治的な声や抽象的な価値観だけに流されず、データに基づいて判断する方法はあるか。数字を示しても、勘と経験で押し返される」
しばらくして、中性化からレスが付いた。
「これから必要になるのは、EBPM(Evidence-Based Policy Making、エビデンスに基づく政策立案)だ。エビデンスに基づいて政策を考える。勘や声の大きさだけでなく、客観的なデータを判断材料にする方法だ。参考資料を送る」
続けて、もう一つ書き込まれた。
「ただし、勘違いするな。データは、反対する議員や住民を殴り倒すための棍棒じゃない。データも一つの根拠にすぎない。
お前が青葉市民ホールで見たものを忘れるな。利用者が少ないという数字と、そこで必要としている人がいるという事実は、両方とも本当だ」
データは、判断のための武器になる。
だが、それだけでは足りない。
では、何を組み合わせればいいのか。
長谷は画面を見つめたまま考え続けた。
翌朝。
長谷は石末に相談した。
「石末さん。EBPMを進めるなら、元になるデータの信頼性が必要ですよね。役所の利用統計は、実態と合っているんでしょうか」
「全部が合っているとは限らない」
石末は即答した。
「紙の受付簿と自己申告が中心だ。人数の数え方も施設ごとに違う。盛ろうと思えば盛れるし、少なく出ることもある」
「利用実態を示すデータが間違っていたら、評価全体が歪みます」
「そういうことだ。数字を使うなら、まず数字の作られ方を疑え」
響矢が近づいてきた。
「長谷さん。教育委員会の田村係長が、今日の午後なら時間を取れるそうです」
「会ってくれるんですか」
「現場には危機感があります。上層部が動いていないだけです」
午後。
教育委員会の小会議室。
長谷は、施設担当の田村啓介係長と向かい合った。三十代。目の下には疲労の跡があった。
田村は扉が閉まったことを確認してから、口を開いた。
「正直に言います。学校施設の中には、本当に危険な状態のものがあります」
「教育委員会内では、共有されているんですか」
「上には、十分に上げられていません」
「なぜですか」
「老朽化を強く訴えれば、統廃合の候補にされる可能性があるからです」
田村は机の上で手を組んだ。
「候補だという噂が出るだけで、地域への説明が必要になります。教育委員会としては波風を立てたくない。でも現場の教頭たちは、毎日綱渡りです」
「石末さんが外壁の全面調査を求めた学校もあります」
「知っています」
田村は視線を落とした。
「課長も報告は受けています。ただ、今すぐ予算を要求すれば、学校の存廃と結びつけて議論される。それを避けたいんです」
長谷は少し身を乗り出した。
「田村さん。具体的な状況を教えてください。管財課と教育委員会で、動きを合わせたいんです」
田村はしばらく考えていた。
「……わかりました。ただし、一つ条件があります」
「何でしょう」
「最初は、有志の勉強会という形にしてください。組織として正式に動くには、課長の判断が必要です」
田村は長谷を見た。
「事前検討のための情報として提供します。ただ、公表したり他部局へ説明したりする前に、私から上司へ報告する時間をください」
「もちろんです。田村さんの立場を飛び越えて使うことはしません」
「お願いします」
組織の内側に、危機感を持つ職員がいた。
響矢の言ったとおりだった。
管財課へ戻ると、長谷は机に積まれた資料を見つめた。
全施設の状況を、推進委員会へ示さなければならない。
データは集まりつつある。
だが、数字を表に並べるだけでは、誰にも全体像は伝わらない。
どう見せるか。
それが次の問題だった。
響矢が通りかかり、資料の山を一瞥して足を止めた。
「そのデータで、何を作るんですか」
「全施設の状況を整理して、推進委員会に提示するつもりです」
「このままでは無理です」
「やっぱり、そう思いますか」
「数字が並んでいるだけの資料は、三秒で読むのをやめます」
響矢は資料の一枚を手に取った。
「委員会の幹部は、自分の所管施設だけを探します。自分たちに有利な数字は使い、不利な数字は見なかったことにするでしょう」
「では、どうすればいいんですか」
「一目で、全体の構造が見えるようにします」
「可視化ですか」
「データは、見える形にして初めて判断材料になります」
「施設の状態を、どう可視化すればいいんでしょう」
「方法までは知りません」
響矢は資料を机へ戻した。
「でも、長谷さんが夜に相談している人なら、知っているのではありませんか」
深夜。
長谷の自宅。
長谷は掲示板に書き込んだ。
「大量の施設データを、一目で全体像がわかる形にする方法はあるか。数字を並べただけでは、誰も読まない」
中性化からレスが付いた。
「マトリクスを作れ。縦軸に建物の健全度、横軸に利用状況や必要性を置く」
長谷は画面に向かったまま聞き返した。
「必要性は、利用人数で見ればいいですか」
「馬鹿を言うな」
返信は速かった。
「避難所や福祉拠点は、人数だけじゃ測れん。それも必要性に入れろ」
「利用統計は、そのまま信じていいですか」
「信じるな。数字がどう作られたか確認しろ。完全なデータがなくても、限界を明示した上で使え」
長谷は、画面に向かって頷いた。誰にも見えないのに。
長谷は返信した。
「ありがとう、アニキ」
すぐに返事が来た。
「俺に弟はいない」
長谷は笑いながら、作業を始めた。
まず縦軸。
石末が集めた現場の劣化データと、長谷が図面や台帳から整理した修繕履歴を組み合わせる。
構造部材。
屋根と防水。
外壁。
設備。
安全性。
項目ごとに評価し、施設の健全度を数値化していく。
「石末さんのデータがある。縦軸は何とかなる」
問題は横軸だった。
各施設の利用統計を並べる。
利用者数。
稼働日数。
部屋ごとの利用率。
だが、数字の集計方法は施設ごとに違っていた。
予約件数を利用回数としている施設。
一つの団体を一人と数えている施設。
推計人数を記入している施設。
自己申告に任せている施設。
数字はある。
しかし、同じ物差しで比べられるとは限らない。
「不完全なデータで進むか。正確な調査ができるまで止まるか……」
新たな実態調査を行う予算も、人手もなかった。
長谷は地下資料室を訪ねた。
「萬代さん。施設の利用実態を示すデータが足りません。利用申請の数字だけで判断することに、不安があります」
萬代は珈琲カップをソーサーに置いた。
しばらく考えたあと、棚の奥へ歩いていく。
「昔、知人が情報公開請求で入手した資料があったはずじゃ」
積み重なった箱の中から、一冊のファイルを取り出した。
「十年前に市が実施した、市民アンケートの集計結果じゃ。個人は特定できんが、施設ごとの利用経験や利用頻度が残っておる」
「十年前のデータですか」
「古い。今の実態をそのまま示すものではない」
萬代はファイルを長谷へ渡した。
「それでも、今ある利用申請の記録とは違う角度から施設を見られる。使うなら、調査時点と限界を最初から説明しなさい」
長谷は頷いた。
「ないことを隠すのではなく、不完全だと示した上で使う……」
「完全な数字が空から降ってくるまで、建物が待ってくれるわけではないからな」
長谷は、現在の利用申請データと、十年前のアンケート結果を照合した。
さらに、施設が担う機能も整理する。
避難所指定。
代替施設までの距離。
福祉サービスの有無。
地域団体の活動拠点。
利用人数だけでは表せない必要性も、評価項目として加えた。
すべての施設を、マトリクス上へ配置していく。
最後の施設名を入力した。
「できた……」
画面に、四つの領域が広がっていた。
石末が背後から画面を覗き込んだ。
しばらく黙って見ていたが、右下の一角を指さした。
「ここが一番やばいってことか。傷んでて、誰も使ってない」
「はい。中央地区公民館も、ここに入っています」
「左上は?」
「状態は良いのに、利用も必要性も低い施設です」
「もったいない箱、ってことだな」
石末はそれだけ言うと、画面から離れた。
全体像は、見えるようになった。
しかし、横軸の根拠は完全ではない。
十年前のアンケート。
集計方法が統一されていない利用記録。
評価者の判断を含む、施設機能の点数。
問われれば、弱点はいくつもある。
翌日。
響矢は、長谷が作ったマトリクスをしばらく眺めた。
「横軸のデータについては、説明の最初に限界を示した方がいいです」
「最初にですか」
「はい」
「弱点を先に話せば、資料全体の信頼性を疑われませんか」
「後から指摘されれば、都合の悪いことを隠していたと思われます」
響矢は横軸の注記を指した。
「調査時点が古いこと。施設ごとに集計方法が異なること。必要性の評価に一定の判断が含まれること。最初から説明してください」
「そのうえで、判断材料として使う……」
「そうです。不完全だから使わないのではなく、不完全さを共有した上で、次に何を調べるかまで示します」
推進委員会の前日。
長谷は一人で、説明資料を机に並べた。
データは不完全だ。
それでも、完全なデータが揃うまで待つ間にも、建物は老いていく。
萬代が、過去のアンケートを見つけてくれた。
石末が、建物の状態を見える数字にしてくれた。
響矢が、弱点を隠さず示す方法を教えてくれた。
田村が、教育委員会の内側から情報を渡してくれた。
一人では、ここまで来られなかった。
携帯電話に、石末から短いメッセージが届いた。
「明日、後ろで見ていてやる」
長谷は資料を鞄へ入れた。
最後に、机の端に置いていた黒い冊子を手に取る。
ページに並ぶ数字が、わずかに変化していた。
改善したとも、悪化したとも断定できない、微妙な動きだった。
長谷は冊子を閉じ、資料とともに鞄へ入れた。
「仕方ない。不完全でも、前へ進むしかない」
この話のFM豆知識
FMの教訓:経験から出た意見を数字と照らし合わせ、判断した理由を説明する。
◆ 何を改善し、その結果をどう確かめるか
例えば、窓口の混雑を減らすなら、現在の待ち時間、変更する業務、変更後の待ち時間を確認します。目的を決め、対策が役立つ理由を調べ、実施後の結果も確かめます。このように根拠を確かめて政策を考える方法が、EBPM(証拠に基づく政策立案)です。
◆ 経験から分かることを、資料でも確かめる
長年担当した人は、記録にない事情を知っている場合があります。その話を聞き、利用記録や費用などと照らし合わせます。「以前からこうしている」で終えず、今も同じ条件なのかを確認すると、後任にも判断理由を説明できます。
◆ 物語の場面
長谷は、勘と経験を重視するベテラン議員の反論を受けます。数字を示すだけでは議論が進みません。数字で分かる範囲を説明し、経験から出た意見も確かめながら、提案の理由を伝える必要に迫られます。
■ 担当者が行うこと
何を改善したいか、今はどうなっているか、何を変えるか、どんな結果を見込むかを順に書きます。資料の作成元、調査日、分からない点を示してください。経験に基づく意見は確認事項として記録し、実施後に誰が、いつ、結果を調べるかも決めます。
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら
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