161の施設
市長室。
全庁推進委員会を翌日に控え、向井正道市長(62歳)は窓の外を眺めている。
温厚な顔には疲労が滲み、机の脇には杖が立てかけられている。夕暮れの光が、室内へ斜めに差し込んでいた。
千々岩は、市長の背後に立って報告した。
「市長。明日の第一回全庁推進委員会について、ご報告します。公共施設等総合管理計画の策定に向け、全庁的な取組を正式に立ち上げます」
市長は窓の外を見たまま尋ねた。
「この市が、いくつの施設を抱えているか知っているか。千々岩くん」
「百六十一施設です」
「私が子どもの頃は、人が増え、街に活気があった」
市長は静かに言葉を続けた。
「今は人が減り、街から元気が失われているように感じる。このままでは、施設が残っていても、使う市民がいなくなる。それが怖い」
ゆっくりと千々岩へ向き直る。
「施設マネジメントは、建物だけの話ではない。市民に必要なサービスを、将来も維持するための仕事だ」
市長は杖の柄に手を置いた。
「学校にも、公民館にも、図書館にも、児童館にも、市民の思い出がある。だからこそ、限られた財源をどこへ使い、何を残し、何の役割を変えるのか、判断しなければならない」
一拍置いた。
「負担を、次の世代へ先送りしないためにな」
千々岩は黙って聞いていた。
「すべてを残せないのなら、何を諦めるかではなく、何を未来に残すかを考えたい」
市長が千々岩を見据える。
「この取組の責任者は、誰だと思う」
「……市長です」
「そうだ」
向井は小さく頷いた。
「各部局に任せておけばいい話ではない。だから推進委員会を立ち上げる。政治的な責任は、私が持つ」
市長は杖を手に取った。
「実務の舵取りは、千々岩くん。君に任せる」
千々岩が支えようと手を伸ばすと、市長は小さく首を振った。
自ら立ち上がり、ゆっくりと部屋を出ていく。
千々岩は何も言わず、その背中を見送った。
――君に任せる。
市長から直接そう言われたのは、初めてだった。
千々岩はしばらく、閉じた扉を見つめていた。
翌日。
本庁大会議室。
正面には、「青葉市公共施設等総合管理推進委員会 第一回」と書かれた看板が掲げられていた。
各部局の幹部が、長机を囲んでいる。
長谷が資料を配り終えると、上座の千々岩が開会を告げた。
「ただいまから、第一回青葉市公共施設等総合管理推進委員会を開催します」
千々岩は出席者を見渡した。
「本日は、本市の公共施設を全庁的に管理するための基本方針を確認します。まず、管財課から現状を説明してください」
「はい」
長谷は立ち上がり、施設白書を開いた。
「本市が保有する公共施設は、百六十一施設です。そのうち、築三十年以上の施設が全体の約六割を占めています」
ページを進める。
将来必要となる修繕費。
建て替えに必要な費用。
現在の予算水準との差。
今の施設量を維持した場合の、二十年後の見通し。
説明が進むにつれ、会議室から物音が消えていった。
長谷は説明を終えた。
しばらく沈黙が続いた。
最初に口を開いたのは、教育委員会の課長だった。
「市全体の施設を、計画的に管理するという基本方針には賛成です」
財政課長が続いた。
「財政課としても、全庁的な管理には賛成します」
資料に視線を落とす。
「ただ、今後の財政状況を考えれば、すべての施設を現在のまま維持することは不可能です。老朽化し、利用率の低い施設については、統廃合も検討しなければなりません」
その瞬間、福祉部長が机に手をついた。
「高齢者施設を削減対象にすることは認められません。利用率だけでは測れない役割があります。必要なのは削減ではなく、維持するための予算です」
教育長も口を開いた。
「全庁的な取組には賛成した。しかし、学校施設の削減を一律に議論されては困る。学校は地域の拠点でもある。財源が不足するなら、市全体の事業を見直すべきだ」
建設部長が身を乗り出した。
「施設の予算を確保するために、道路や橋梁の予算を削られては困ります。インフラも既に限界です。公共施設だけを特別扱いする計画なら、賛成できません」
会議室が一気にざわついた。
長谷は説明席から、その光景を見ていた。
財政課は、施設を減らすべきだと言う。
施設を所管する部局は、それぞれの施設を残すために予算を求める。
全員が総論には賛成している。
だが、自分たちの施設や予算が具体的に俎上へ載った瞬間、立場は変わった。
――これが組織なのか。
誰かに悪意があるわけではない。
それぞれに、守るべき市民と仕事がある。
だからこそ、全体としてまとまらない。
千々岩が静かに手を上げた。
ざわめきが止まる。
「皆さんの懸念は理解しました」
千々岩は感情を見せずに言った。
「本日は、全庁的な管理を進めるという方針の確認までとします。施設ごとの具体的な取扱いについては、客観的な評価方法と手続を整理したうえで、次回以降に議論します」
会議は閉会した。
幹部たちが次々と部屋を出ていく。
長谷が一人で資料を片づけていると、千々岩が近づいてきた。
「長谷くん。今日の会議を見て、どう思った」
長谷は手を止めた。
「……全員に言い分があると思いました」
千々岩は黙って続きを待った。
「財政課は、施設を減らせと言います。施設を持つ部局は、予算を増やせと言う。管財課は、どちらの味方をすればいいんでしょうか」
「どちらの味方でもない」
千々岩は即答した。
「悪者はいない。それぞれに立場があるだけだ」
「では、何を目指せばいいんですか」
「施設を適正に管理できるなら、予算を増やすことも、施設を減らすことも、どちらも選択肢になる」
千々岩は、机に残された白書を手に取った。
「管財課の仕事は、どちらが正しいかを最初から決めることではない。各部局が判断でき、実行できる道筋を作ることだ」
「判断の基準は、何ですか」
「市長の言葉を伝える」
千々岩は白書を閉じた。
「市長は、施設だけが残り、使う人が減っていくことが一番怖いと仰っていた」
「利用者が減ること……」
「予算を増やすことも、施設を減らすことも、それ自体は手段にすぎない」
千々岩が長谷を見た。
「見るべきなのは、提供する行政サービスと、それを支える施設量のバランスだ。利用する人がいない場所に、建物だけを残すな」
「行政サービスと、施設量のバランス……」
「そうだ。その均衡が崩れたとき、負債を背負うのは、今ここにいる人間ではない。次の世代だ」
長谷は頷いた。
「わかりました」
「まだ、わかってはいない」
千々岩は淡々と言った。
「具体的な時間軸を示さなければ、総論は永遠に総論のままだ」
「時間軸?」
「各施設を、いつまで使うのか。いつ改修し、いつ建て替え、いつ役割を見直すのか。それを施設ごとに示せ」
「個別施設計画……」
「今すぐ作り始めろ」
それだけ言うと、千々岩は会議室を出ていった。
管財課。
石末が腕を組み、長谷を待っていた。
「どうだった」
「総論賛成、各論反対でした」
「そんなものだ。驚くな」
響矢が資料を手に近づいてきた。
「教育委員会の課長が、会議室を出たときの様子に気づきましたか」
「様子?」
「会議前は警戒していました。会議後は安堵していました」
「そこまでは、わかりませんでした」
「今回は総論だけで終わり、自分の施設について結論を出さずに済んだ。そう思っているのでしょう」
響矢は資料を長谷へ差し出した。
「各部局の上層部を正面から説得しても、簡単には動きません」
「では、どうすれば」
「各部局の中にいる、『このままではまずい』と思っている人を探します」
「内部の職員を?」
「必ずいるはずです」
響矢は平然と答えた。
「表向きの組織の立場と、実務担当者の問題意識は一致するとは限りません」
長谷は思い出した。
施設白書の作成前、類似の取組がないか起案簿を調べたことがある。
教育委員会でも、学校施設の老朽化対策について起案が出されていた。
しかし、決裁は長期間止まったままだった。
長谷は起案者を確認した。
――教育委員会施設担当、田村係長。
教育委員会の課長は、表向きには総論へ賛成し、具体論を先送りした。
だが、その内部には既に危機感を持ち、動こうとした職員がいる。
組織には、組織ごとの言い分がある。
外から正面突破しようとしても、簡単には動かない。
ならば――。
内側にいる職員とつながる。
深夜。
長谷の自宅。
昼間の会議室の光景が、まだ頭に残っていた。
長谷は、以前の中性化の書き込みに返信した。
「総合管理計画の推進委員会が正式に設置されました。首長主導の組織にしたことで、全庁・全部局が参加しました。アドバイスどおりでした。
ただ、総論には賛成でも、施設ごとの話になると反対が噴出しました。今後は個別施設計画を作ることになりました」
しばらくして、中性化から返信が来た。
「各論で反対されるのは当然だ。まだ委員会という箱ができただけにすぎない。個別施設計画の参考資料を送る。まず読め」
その下に、URLが貼られていた。
長谷は思わず笑い、返信を打った。
「いつも助かります。これからは、アニキと呼ばせてください」
すぐに返事が来た。
「アニキと呼ぶな。俺に弟はいない」
それを最後に、返信は途絶えた。
この話のFM豆知識
(豆知識は準備中)
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら
一般財団法人 建築保全センター