ep107

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第1巻 第7話

161の施設

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市長室。

全庁推進委員会を翌日に控え、向井正道市長(62歳)は窓の外を眺めている。

温厚な顔には疲労が滲み、机の脇には杖が立てかけられている。夕暮れの光が、室内へ斜めに差し込んでいた。

千々岩は、市長の背後に立って報告した。

「市長。明日の第一回全庁推進委員会について、ご報告します。公共施設等総合管理計画の策定に向け、全庁的な取組を正式に立ち上げます」

市長は窓の外を見たまま尋ねた。

「この市が、いくつの施設を抱えているか知っているか。千々岩くん」

「百六十一施設です」

「私が子どもの頃は、人が増え、街に活気があった」

市長は静かに言葉を続けた。

「今は人が減り、街から元気が失われているように感じる。このままでは、施設が残っていても、使う市民がいなくなる。それが怖い」

ゆっくりと千々岩へ向き直る。

「施設マネジメントは、建物だけの話ではない。市民に必要なサービスを、将来も維持するための仕事だ」

市長は杖の柄に手を置いた。

「学校にも、公民館にも、図書館にも、児童館にも、市民の思い出がある。だからこそ、限られた財源をどこへ使い、何を残し、何の役割を変えるのか、判断しなければならない」

一拍置いた。

「負担を、次の世代へ先送りしないためにな」

千々岩は黙って聞いていた。

「すべてを残せないのなら、何を諦めるかではなく、何を未来に残すかを考えたい」

市長が千々岩を見据える。

「この取組の責任者は、誰だと思う」

「……市長です」

「そうだ」

向井は小さく頷いた。

「各部局に任せておけばいい話ではない。だから推進委員会を立ち上げる。政治的な責任は、私が持つ」

市長は杖を手に取った。

「実務の舵取りは、千々岩くん。君に任せる」

千々岩が支えようと手を伸ばすと、市長は小さく首を振った。

自ら立ち上がり、ゆっくりと部屋を出ていく。

千々岩は何も言わず、その背中を見送った。

――君に任せる。

市長から直接そう言われたのは、初めてだった。

千々岩はしばらく、閉じた扉を見つめていた。

翌日。

本庁大会議室。

正面には、「青葉市公共施設等総合管理推進委員会 第一回」と書かれた看板が掲げられていた。

各部局の幹部が、長机を囲んでいる。

長谷が資料を配り終えると、上座の千々岩が開会を告げた。

「ただいまから、第一回青葉市公共施設等総合管理推進委員会を開催します」

千々岩は出席者を見渡した。

「本日は、本市の公共施設を全庁的に管理するための基本方針を確認します。まず、管財課から現状を説明してください」

「はい」

長谷は立ち上がり、施設白書を開いた。

「本市が保有する公共施設は、百六十一施設です。そのうち、築三十年以上の施設が全体の約六割を占めています」

ページを進める。

将来必要となる修繕費。

建て替えに必要な費用。

現在の予算水準との差。

今の施設量を維持した場合の、二十年後の見通し。

説明が進むにつれ、会議室から物音が消えていった。

長谷は説明を終えた。

しばらく沈黙が続いた。

最初に口を開いたのは、教育委員会の課長だった。

「市全体の施設を、計画的に管理するという基本方針には賛成です」

財政課長が続いた。

「財政課としても、全庁的な管理には賛成します」

資料に視線を落とす。

「ただ、今後の財政状況を考えれば、すべての施設を現在のまま維持することは不可能です。老朽化し、利用率の低い施設については、統廃合も検討しなければなりません」

その瞬間、福祉部長が机に手をついた。

「高齢者施設を削減対象にすることは認められません。利用率だけでは測れない役割があります。必要なのは削減ではなく、維持するための予算です」

教育長も口を開いた。

「全庁的な取組には賛成した。しかし、学校施設の削減を一律に議論されては困る。学校は地域の拠点でもある。財源が不足するなら、市全体の事業を見直すべきだ」

建設部長が身を乗り出した。

「施設の予算を確保するために、道路や橋梁の予算を削られては困ります。インフラも既に限界です。公共施設だけを特別扱いする計画なら、賛成できません」

会議室が一気にざわついた。

長谷は説明席から、その光景を見ていた。

財政課は、施設を減らすべきだと言う。

施設を所管する部局は、それぞれの施設を残すために予算を求める。

全員が総論には賛成している。

だが、自分たちの施設や予算が具体的に俎上へ載った瞬間、立場は変わった。

――これが組織なのか。

誰かに悪意があるわけではない。

それぞれに、守るべき市民と仕事がある。

だからこそ、全体としてまとまらない。

千々岩が静かに手を上げた。

ざわめきが止まる。

「皆さんの懸念は理解しました」

千々岩は感情を見せずに言った。

「本日は、全庁的な管理を進めるという方針の確認までとします。施設ごとの具体的な取扱いについては、客観的な評価方法と手続を整理したうえで、次回以降に議論します」

会議は閉会した。

幹部たちが次々と部屋を出ていく。

長谷が一人で資料を片づけていると、千々岩が近づいてきた。

「長谷くん。今日の会議を見て、どう思った」

長谷は手を止めた。

「……全員に言い分があると思いました」

千々岩は黙って続きを待った。

「財政課は、施設を減らせと言います。施設を持つ部局は、予算を増やせと言う。管財課は、どちらの味方をすればいいんでしょうか」

「どちらの味方でもない」

千々岩は即答した。

「悪者はいない。それぞれに立場があるだけだ」

「では、何を目指せばいいんですか」

「施設を適正に管理できるなら、予算を増やすことも、施設を減らすことも、どちらも選択肢になる」

千々岩は、机に残された白書を手に取った。

「管財課の仕事は、どちらが正しいかを最初から決めることではない。各部局が判断でき、実行できる道筋を作ることだ」

「判断の基準は、何ですか」

「市長の言葉を伝える」

千々岩は白書を閉じた。

「市長は、施設だけが残り、使う人が減っていくことが一番怖いと仰っていた」

「利用者が減ること……」

「予算を増やすことも、施設を減らすことも、それ自体は手段にすぎない」

千々岩が長谷を見た。

「見るべきなのは、提供する行政サービスと、それを支える施設量のバランスだ。利用する人がいない場所に、建物だけを残すな」

「行政サービスと、施設量のバランス……」

「そうだ。その均衡が崩れたとき、負債を背負うのは、今ここにいる人間ではない。次の世代だ」

長谷は頷いた。

「わかりました」

「まだ、わかってはいない」

千々岩は淡々と言った。

「具体的な時間軸を示さなければ、総論は永遠に総論のままだ」

「時間軸?」

「各施設を、いつまで使うのか。いつ改修し、いつ建て替え、いつ役割を見直すのか。それを施設ごとに示せ」

「個別施設計画……」

「今すぐ作り始めろ」

それだけ言うと、千々岩は会議室を出ていった。

管財課。

石末が腕を組み、長谷を待っていた。

「どうだった」

「総論賛成、各論反対でした」

「そんなものだ。驚くな」

響矢が資料を手に近づいてきた。

「教育委員会の課長が、会議室を出たときの様子に気づきましたか」

「様子?」

「会議前は警戒していました。会議後は安堵していました」

「そこまでは、わかりませんでした」

「今回は総論だけで終わり、自分の施設について結論を出さずに済んだ。そう思っているのでしょう」

響矢は資料を長谷へ差し出した。

「各部局の上層部を正面から説得しても、簡単には動きません」

「では、どうすれば」

「各部局の中にいる、『このままではまずい』と思っている人を探します」

「内部の職員を?」

「必ずいるはずです」

響矢は平然と答えた。

「表向きの組織の立場と、実務担当者の問題意識は一致するとは限りません」

長谷は思い出した。

施設白書の作成前、類似の取組がないか起案簿を調べたことがある。

教育委員会でも、学校施設の老朽化対策について起案が出されていた。

しかし、決裁は長期間止まったままだった。

長谷は起案者を確認した。

――教育委員会施設担当、田村係長。

教育委員会の課長は、表向きには総論へ賛成し、具体論を先送りした。

だが、その内部には既に危機感を持ち、動こうとした職員がいる。

組織には、組織ごとの言い分がある。

外から正面突破しようとしても、簡単には動かない。

ならば――。

内側にいる職員とつながる。

深夜。

長谷の自宅。

昼間の会議室の光景が、まだ頭に残っていた。

長谷は、以前の中性化の書き込みに返信した。

「総合管理計画の推進委員会が正式に設置されました。首長主導の組織にしたことで、全庁・全部局が参加しました。アドバイスどおりでした。

ただ、総論には賛成でも、施設ごとの話になると反対が噴出しました。今後は個別施設計画を作ることになりました」

しばらくして、中性化から返信が来た。

「各論で反対されるのは当然だ。まだ委員会という箱ができただけにすぎない。個別施設計画の参考資料を送る。まず読め」

その下に、URLが貼られていた。

長谷は思わず笑い、返信を打った。

「いつも助かります。これからは、アニキと呼ばせてください」

すぐに返事が来た。

「アニキと呼ぶな。俺に弟はいない」

それを最後に、返信は途絶えた。

この話のFM豆知識

(豆知識は準備中)

つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら