ep106

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第1巻 第6話

白書、完成と限界

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管財課。

長谷の机に、製本された白書が積まれていた。

表紙には、「青葉市公共施設白書 第一版」。

市が保有する全施設の延床面積、築年数、維持コストが、初めて一つの資料にまとめられている。

完成まで、三か月かかった。

各部局から集めた施設台帳。営繕課が蓄積していた現場の記録。財政課から提供を受けた維持管理経費。さらに四十施設については、施設管理者に確認し、建物単位の支出まで整理した。

まだ空欄は多い。

それでも、骨格には確かな肉がついていた。

これまで部局ごとに分断されていた建物の姿が、初めて一つの数字として現れた。

管財課長は、白書を受け取ると、黙ってページをめくった。

最後まで読み終え、顔を上げる。

「よくここまで作ったな、長谷くん」

「ありがとうございます」

長谷は机の上の白書に手を置いた。

「これで、今後の修繕や更新に、どれだけ予算が不足するのか示せます。この数字を持って、財政課へ予算の増額を求めたいと思います」

課長の表情が曇った。

「……長谷くん。気持ちはわかる。だが、これを全部局に配るとなると、話が変わってくる」

「なぜですか。予算を確保するための資料です。各部局にとっても、悪い話ではないはずです」

「確かに、役に立つ数字だ」

課長は白書を閉じた。

「だが、数字には二つの読み方がある」

「二つ?」

「君は、この数字を『保有している施設に対して、予算が足りない』と読む。だが財政課は、『使える予算に対して、施設が多すぎる』と読むかもしれない」

長谷は黙った。

「同じ表を見ても、導かれる結論は逆になる。この白書が庁内の共通資料になれば、財政課や管財課が、施設の存廃や優先順位に関与する根拠にもなる」

「各課の裁量を奪うために作ったものではありません」

「今の君には、そのつもりはないだろう」

課長は静かに答えた。

「だが、資料はいったん外に出れば、作った人間の意図を離れる。どう使われるかまで、君には決められない」

「それでも、現状を共有しなければ予算は取れません」

「だからこそ、配る前に根回しが要る」

「どれくらいかかりますか」

課長は、すぐには答えなかった。

「……わからない」

課長の指摘は間違っていなかった。

それが一番厄介だった。

翌日。

長谷は、白書を持って各部局を回り始めた。

最初は、教育委員会だった。

教育委員会の課長は白書を受け取り、学校施設のページを開いた。

「学校ごとの維持費だけでなく、将来の不足額まで載るんですね」

「はい。この数字があれば、財政課に予算の必要性を説明できます」

「必要性を説明する材料になることはわかります」

課長はページから顔を上げた。

「ただ、この資料を管理するのは、管財課と財政課ですね」

「全庁で共有する資料にしたいと考えています」

「共有という言葉は便利です」

声は穏やかだったが、表情は硬い。

「これまでは、学校の状況を見ながら、教育委員会が改修の優先順位を決めてきました。この白書が全庁共通の物差しになれば、その判断に管財課や財政課が入ってくる」

「教育委員会の判断を否定するつもりはありません」

「長谷さんにそのつもりがなくても、制度は人より長く残ります」

課長は白書を閉じた。

「学校は、建物の劣化だけで優先順位を決められるものではありません。教育上の必要性もあります。それを数字だけで判断されては困ります」

次は、福祉部だった。

福祉部長は、老人福祉センターのページを開いたまま、腕を組んでいた。

「この維持費が、財政課にも共有されるということですね」

「予算が不足していることを理解してもらうためです」

「理解されるでしょうか」

部長は、施設名の横に記された数字を指した。

「利用者一人当たりのコストが高い、と読まれる可能性もある。財政課から見れば、削減の対象にしやすい数字です」

「しかし、施設が担っている福祉上の役割も――」

「白書には、その役割までは載っていません」

長谷は言葉を失った。

「現場を一番知っているのは、所管する部局です。建物の数字だけを切り離し、優先順位を全庁で決めると言われれば、簡単には賛成できません」

教育委員会の主張も、福祉部の主張も、筋が通っていた。

各部局は、それぞれの政策目的と権限に基づいて施設を運営している。

だから、自らの判断権を守ろうとする。

それ自体は、間違いではない。

だが、すべての部局が自らの施設だけを守ろうとすれば、市全体として必要な予算を示すことはできない。

白書は完成した。

しかし、それを使う組織がなかった。

夕方。

長谷は市長秘書室を訪ねた。

千々岩収(42歳・秘書室長)は、机上の書類を整えていた。端正な顔立ちに、無駄のない動作。庁内では切れ者として知られている。

千々岩は長谷を見ると、先に口を開いた。

「管財課の長谷くんだったな。白書の話だろう。噂は聞いている」

「はい。全部局への配布について、ご相談したくて――」

「今の進め方で各部局を刺激するつもりなら、話すことはない」

「ですが、現状を共有しなければ――」

「正しいことと、理解されることは別だ」

千々岩は長谷を見た。

「君は、自分の示した数字が正しければ、相手も同じ結論にたどり着くと思っている。だが、各部局には各部局の守るべきものがある」

「だからといって、白書を止めれば何も変わりません」

「止めろとは言っていない。今のままでは通らないと言っている」

千々岩は書類に視線を戻した。

話は終わりだという態度だった。

正しいことと、理解されることは別。

長谷は廊下を歩きながら、その言葉を繰り返した。

反論できなかった。

白書の数字は正しい。

だが、その数字によって何を失うのかを、長谷は各部局に示していなかった。

足は、自然に地下へ向かっていた。

地下資料室。

萬代は、いつものソファで珈琲を飲んでいた。

「萬代さん。白書を配ろうとしたら、全部局から反発されました。千々岩さんにも、このままでは通らないと言われました」

「そうじゃろうな」

「どうすればいいんでしょう」

萬代はカップを置いた。

しばらく長谷を見たあと、ゆっくりと立ち上がり、電話を取る。

「収。少し下へ来なさい」

ほどなくして、千々岩が資料室に姿を見せた。

長谷に気づき、わずかに眉を動かす。

萬代は座ったまま、千々岩を見上げた。

「相変わらず、見える範囲が狭いな、収」

「白書をそのまま配れば、各部局が反発する。当然の話をしただけだ」

「反発を恐れて白書を眠らせても、施設の劣化は止まらん」

「簡単には通せないことくらい、叔父さんもわかっているはずだ」

叔父。

長谷は、萬代と千々岩を交互に見た。

二人が親族だとは知らなかった。

「簡単だとは言っておらん」

萬代は静かに答えた。

「難しいから、お前にやれと言っている」

千々岩は小さく息を吐き、長谷に視線を向けた。

「長谷くん」

「はい」

「各部局の反発を押さえ込むのではなく、参加する理由を用意しろ」

「参加する理由……」

「白書だけを先に出せば、管財課が権限を奪いに来たと思われる。そうではなく、市全体として何を守り、何を見直すのか。その上位方針を先に示す必要がある」

「全庁的な計画を作る、ということですか」

「既存の計画を使えるなら改訂する。使えないなら、推進体制から組み直す」

千々岩は白書を手に取った。

「白書を、各部局を査定する資料ではなく、全庁で判断するための共通資料に位置づける。それができなければ、これはお蔵入りだ」

長谷は頷いた。

「やります」

千々岩は、その返事を聞いてから萬代に向き直った。

「……推進委員会設置の上申は、俺が動く。市長と各部局には、こちらから話をする」

萬代が満足そうに目を細めた。

「最初から、そう言えばよい」

「叔父さんに言われたからではない」

「そういうことにしておこう」

深夜。

長谷の自宅。

千々岩が求めた、全庁を巻き込むための上位方針。

短期間で、その骨格を作らなければならない。

長谷は掲示板に書き込んだ。

「全部局を巻き込むために使える行政上の枠組みはあるか。データを作っても、それを使う組織がなければ意味がない」

中性化からレスが付いた。

「縦割りを越える入口なら、国が用意している。総務省が自治体に策定を求めてきた『公共施設等総合管理計画』だ。

既に計画があるなら、白書の数字を使って改訂しろ。形だけの計画なら、実行体制を作り直せ。首長の方針として位置づければ、全部局を参加させる根拠になる。

ただし、勘違いするな。計画は看板にすぎない。看板を掲げただけでは、誰も動かない。組織を動かすのは、お前だ。指針を読め。URLを送る」

長谷は送られてきた資料を開いた。

総務省の指針。

青葉市が過去に策定した計画。

他自治体の推進体制。

ページを繰るうちに、必要なものの輪郭が見えてきた。

白書を配るだけでは足りない。

数字を、全庁の判断へつなげる仕組みが必要だ。

――これだ。

長谷は机の端に置かれた黒い冊子へ目を向けた。

ただし。

この仕組みを、本当に動かせるのか。

この話のFM豆知識

(豆知識は準備中)

つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら