みどり児童館
管財課。
長谷は施設白書(仮)の「みどり児童館」のページを開いた。
築四十年。平屋建てで延床面積は小さく、建築基準法第十二条に基づく定期報告の対象外。屋上防水の修繕記録は十五年前を最後に途絶え、外壁補修の記録もない。
日常点検チェックシートを試す最初の施設として、条件は揃っていた。
問題は――館長が受け入れてくれるかどうかだ。
長谷は石末と並んで現地へ向かった。
住宅街の中に建つ、小ぶりな平屋の建物だった。近づくと、塗装は色褪せ、外壁に何本ものひび割れが見えた。予想していたより幅が広く、数も多い。
「外壁、思ったより状態が悪いですね」
「築四十年で、大規模修繕の記録がない。この程度なら、まだましな方だ。評価は中を見てからだ」
児童館の入口では、館長の遠藤佳子が二人を待っていた。五十代の小柄な女性で、事前に連絡はしていたものの、表情は硬かった。
「管財課の方ですね。連絡はいただきましたが……正直、困っています」
「どういうことでしょうか」
「私たちの仕事は、子どもたちの命を預かることです。人手が足りず、職員は限界まで働いています。本庁の都合で、これ以上仕事を増やさないでください」
「日常点検は、施設の異常を早く見つけるためのもので――」
「それが余計な仕事だと言っているんです」
館長が長谷の言葉を遮った。
長谷は説明を止めた。
職員がぎりぎりの人数で現場を回している。そのうえ新しい点検業務まで求められれば、反発するのは当然だった。
「施設の確認がご用件でしたね。ご案内します。ついてきてください」
館長に促され、二人は施設内を回った。
玄関ホール、廊下、トイレ。
長谷は、室内に現れている小さな異変を一つずつ拾っていった。
プレイルームに入ったところで、足を止める。
「館長。このドアは、いつ頃から閉まりにくくなりましたか」
「さあ……。古い建物ですから、建て付けが悪くなっただけでしょう」
「あの天井の隅の染みは、いつ頃からですか」
「毎年出ています。結露だと思います」
長谷は天井を見上げた。
染みは大きい。施設台帳に添付された古い写真と比べても、明らかに範囲が広がっている。
石末が黙って踏み台に上がり、天井の石膏ボードを指先で押した。
表面から、水がじわりと染み出した。
「館長。このボードは、かなり水を吸っている。結露じゃない。天井裏に水が入っている」
「水が?」
「このまま浸水が続けば、仕上げ材が落ちるおそれがある。原因がわかるまでは、この部屋を使わない方がいい」
館長が怪訝そうに石末を見た。
「ここは、子どもたちが毎日遊ぶ場所です。他にこれほど広い部屋はありません」
「だからこそ――」
「点検をさせるために、大げさに言っているんじゃないんですか」
石末が長谷を一瞥した。
長谷は頷いた。
これ以上説明を重ねても、今は聞いてもらえない。
「わかりました。今日はここまでにします」
長谷は頭を下げた。
「また、確認に来てもいいでしょうか」
「……それは構いません」
帰り道。
夕暮れの住宅街を、長谷と石末は並んで歩いた。
「どう見た」
「天井裏に浸水経路があるのは間違いないと思います。ドアが閉まりにくいのも、漏水で枠まわりが膨らんだか、変形した可能性があります。原因は屋上じゃないでしょうか」
「俺も同じ見立てだ。かなり危ない。ただ、屋上を調べないと確証は持てない」
「戻って、もう一度協力を頼みましょう」
「急くな」
石末は前を向いたまま言った。
「館長の言うことも間違っていない。どこの現場も、自分たちの仕事だけで精一杯だ」
深夜。
長谷の自宅。
児童館で見た館長の表情が、頭から離れなかった。
長谷は掲示板を開いた。
「天井の染みや建具の異常が、どの程度危険なのか確証を示せない。施設管理者に理解してもらいたいが、どう話せばいい」
しばらくして、中性化からレスが付いた。
「見逃してはいけない兆候だ。水を含んだ天井材は重くなる。浸水が続けば、ある日突然落下することもある。事故が起きれば、施設管理者は、それまで何に気づき、どう対応したのか説明を求められる。
その施設は、定期報告の対象外だろう。専門家が定期的に見る仕組みがない施設ほど、日常の異変を拾う仕組みが必要になる。
理解を求めるなら、数字や理屈を並べる前に、その人が何を守ろうとしているのか考えろ」
その人が守ろうとしているもの。
長谷は、館長の言葉を思い返した。
――私たちは、子どもの命を預かっているんです。
館長は最初から、自分が大切にしているものを口にしていた。
翌朝。
長谷は一人で、みどり児童館を訪れた。石末には別の現場が入っていた。
「昨日は、申し訳ありませんでした。こちらの考えを押しつけてしまいました」
「……いえ」
長谷は頭を上げて、館長を正面から見た。
「館長。この児童館で、一番大切にしていることを聞かせてください」
館長が少し驚いた表情を見せた。
「……子どもたちが、安心して遊べることです」
「俺たちも、それを守りたいんです」
長谷は、点検シートを机の上に置いた。
「日常点検は、建物のためだけにするものではありません。子どもたちと、館長や職員の皆さんを守るためのものです」
館長は黙って聞いていた。
「事故が起きれば、傷つくのは子どもたちです。そして、施設の管理について説明を求められるのは、現場を預かっている館長です」
館長の表情がわずかに硬くなる。
「でも、これまで点検をしてこなかったことを責めたいわけではありません。何を見ればいいのか、誰も伝えてこなかった。だから、俺たちと一緒に始めてほしいんです」
長い沈黙があった。
「……子どもたちを守るため、ということですか」
「はい」
館長は点検シートに目を落とした。
「わかりました。やってみます。ただ、負担が大きすぎたら、その時は言わせてください」
「もちろんです。実際に使ってもらって、続けられる形に直します」
そのとき、窓の外が急に暗くなった。
館長が空を見上げる。
「……降りそうですね」
遠くで雷鳴が響いた。
次の瞬間、激しい雨が屋根と窓を叩き始めた。
職員たちが窓を閉め、外にいた子どもたちを建物の中へ呼び戻す。
やがて、プレイルームの天井から水滴が落ち始めた。
一滴、二滴。
長谷は顔を上げた。
水滴の間隔が、急速に短くなっていく。
「館長、子どもたちをプレイルームから出してください」
「え?」
天井の奥で、低いきしみ音がした。
長谷は大声を上げた。
「今すぐです!」
館長が職員に指示を出した。
「みんな、廊下に移動して! 走らないで!」
子どもたちが次々と部屋を出ていく。
そのとき、入口のドアが開き、石末が飛び込んできた。
「全員出せ! 天井が落ちるぞ!」
最後の子どもが廊下へ出た直後だった。
水を含んだ石膏ボードが裂け、大きな音を立てて床へ崩れ落ちた。
粉塵が舞い上がる。
子どもたちの泣き声が響いた。
館長が一人ずつ名前を呼び、職員たちが人数を確認する。
全員、無事だった。
崩れた天井を見上げた。
開口部から、まだ水が流れ込んでいる。
「石末さん、屋上を確認します」
「一人で行くな。俺も行く」
二人は雨具を着け、屋上へ上がった。
屋上には、深い水たまりができていた。雨水が排水されず、防水層の上に溜まり続けている。
石末が排水口の位置を指した。
「長谷、そっちだ」
長谷は手袋をはめ、濁った水の中を探った。
排水口には、落ち葉と泥が固く詰まっていた。
「ありました。完全に塞がっています」
「取り除け。俺は反対側を見る」
長谷は詰まりを少しずつ掻き出した。
石末も別の排水口に溜まった泥を除いていく。
やがて、水が音を立てて流れ始めた。
屋上に溜まっていた水位が、少しずつ下がっていく。
「これで、これ以上の浸水は抑えられる」
石末が排水の状態を確認した。
二人は室内へ戻った。
廊下では、職員たちが濡れた子どもたちをタオルで拭いていた。
「排水はできました」
長谷は館長に伝えた。
プレイルームの床には、崩れた石膏ボードが散乱している。
館長は、天井に開いた大きな穴を見上げたまま立ち尽くしていた。
石末が静かに言った。
「館長。天井の染みに気づいた段階で連絡があれば、屋上を確認できた。排水口の詰まりを早く除けていれば、今日の落下は防げた可能性が高い」
館長は何も答えなかった。
「屋上に上がる必要はない。専門的な判断も要らない。何か変だと思ったときに、俺たちへ知らせてくれればいい」
館長の目に涙が浮かんだ。
「私は毎日ここにいました。天井の染みも、ドアの閉まりにくさも、全部気づいていたんです。でも、古い建物だから仕方がないと思っていました」
長谷は答えた。
「気づいていたことが大切なんです」
館長が長谷を見る。
「その違和感が、建物からの合図です。次からは、気になったことを記録して、知らせてください。それだけで変えられます」
館長は、机の上の日常点検シートに目を落とした。
「……わかりました」
ゆっくりと、シートを手に取る。
「私たちが、この建物の変化を見ます。それが子どもたちを守ることにつながるなら」
帰り道。
雨は上がっていた。
夕暮れの住宅街を、長谷と石末は濡れたまま歩いた。
「石末さんが来てくれなかったら、危ないところでした。どうして来たんですか」
「昨日の天井を見て、雨が降れば危ないと思っていた。近くの現場にいたから寄った。それだけだ」
石末は少し間を置いた。
「だが、館長を動かしたのはお前だ。俺には、ああいう話はできない」
長谷は少し照れたように笑った。
「中性化さんに言われたんです。その人が大切にしているものを考えろ、と」
「……中性化の野郎。たまには、まともなことを言う」
翌朝。
管財課。
長谷は、みどり児童館の記録を施設台帳に入力していた。
天井材の落下。
屋上排水口の閉塞。
応急対応の内容。
屋上防水改修の予算要求。
館長に渡した日常点検シート。
最後に、今後の対応欄へ入力する。
――施設管理者による日常点検を開始。
市内には、定期報告の対象になっていない施設が百二十七棟ある。
そのうち一棟に、今日から新しい目が加わった。
長谷は画面を見つめ、小さく呟いた。
「建物を守る入り口が、見えてきた」
この話のFM豆知識
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