黒瀬方式
十月の庁議で、資産経営課の中間報告が出た。
年度上半期で、施設一件廃止、一件の統廃合方針決定、改修一件実施。削減額は三百万円。回避した使用制限が一件。
榛葉宗一郎が、資料を眺めながら言った。
「去年の倍だな」
「黒瀬の実績です」
副市長がそう答えた。
「これが黒瀬方式ってやつか」
榛葉が言うと、会議室に小さな笑いが起きた。
黒瀬は表情を変えなかった。
その呼び方が庁内で使われ始めていることは、知っていた。
早く決め、早く実行する。数字で説明し、期限を切る。
誰も、それを止めようとしなかった。
黒瀬方式には、実務上の利点があった。
案件を黒瀬に回せば、判断が返ってくる。二日か、三日で返ってくる。
他の課は、それを前提に予定を組むようになった。
福祉課が保育所の改修時期を相談に来た。営繕が長寿命化の優先順位を聞きに来た。教育委員会が学校施設の照会を持ってきた。
黒瀬は全部に答えた。
十月の第三週、教育委員会の職員が来たときのことだった。
「北部の給食調理場なんですが、来年度に更新するか、あと三年持たせるかで、意見が割れてまして」
「図面と、直近の点検記録は」
職員が持ってきた書類を、黒瀬はその場で開いた。
三分ほど見ていた。
「厨房機器は三年持つ。ただ、給排水が先に来る。来年度は配管だけやれ。機器の更新は三年後でいい。分けた方が、単年度の負担が平準化する」
「分けられるものなんですか」
「工期は分かれる。設計は一本でいい」
職員は、それをその場で書き取った。
「助かりました。財政に相談したら、資産経営に聞けと言われたので」
黒瀬はうなずいて、書類を返した。
十五分もかからなかった。
三崎は、隣の席でそのやり取りを聞いていた。
同じ質問を自分が受けたら、答えるまでに一週間はかかる。図面を確認し、点検記録を遡り、財政の枠を調べ、営繕に技術的な確認を取る必要がある。
黒瀬は、それを全部、頭の中に持っていた。
答えられたのは、施設と財政と利用状況を横断して把握しているのが、この庁舎で黒瀬しかいなかったからだ。
三崎には、その答えがどこまで正しいのかを、その場で確かめる術がなかった。
塩谷は、財政課でその流れを見ていた。
上半期の間、黒瀬の案に表立った反論をしなかった。
反論の材料がなかったわけではない。ただ、反論すれば、代案を出す責任が生じる。財政課に、施設ごとの代案を作る人員はなかった。
ある日、塩谷は課の若手に言われた。
「資産経営に聞けば早いですよ」
それが、この庁舎の共通認識になりつつあった。
塩谷はうなずいて、それ以上は言わなかった。自分もこの半年、同じことをしていた。
十月の下旬、黒瀬が三崎に言った。
「次は檜倉の保健センターだ。詳細点検の準備をしろ」
「分かりました」
「樫村は、今回は外していい」
三崎は顔を上げた。
「え……大滝野も桔梗台も、現地は樫村がやってます」
「若い職員に、こういう案件ばかり背負わせるのも良くない」
黒瀬はそう言って、話を終わらせた。
三崎は、それ以上聞かなかった。
翌週、檜倉の起案が回ってきた。担当者欄に、樫村の名前はなかった。
樫村は、その週から窓口業務の応援に入った。
不満は言わなかった。
異動でも処分でもない。課内の応援は、繁忙期にはよくあることだった。黒瀬も、そう説明していた。
ただ、応援は年度末まで続くことになっていた。
樫村は、大滝野と桔梗台で撮った写真と、行事の記録を、自分の端末に残したままにした。
三崎が一度、聞いたことがある。
「あの資料、どうしてる」
「持ってます」
「共有フォルダには」
「入れてません」
樫村は、それだけ答えた。
「入れても、誰も見ないので」
三崎は、その言い方が引っかかった。
責めている口調ではなかった。事実として言っているだけの声だった。
十一月の初め、三崎は上半期の資料を整理していた。
大滝野の廃止資料。桔梗台児童館の統廃合資料。庁議への報告。
並べて読むと、あることに気づいた。
反対意見の欄が、どれも短い。
大滝野の説明会では、久遠田が利用手続きについて発言していた。会議録には「利用手続きに関する意見あり」とだけある。
桔梗台の説明会では、久遠田が見守りと異年齢交流について、かなりの時間を使って話した。会議録には「代替施設への機能移転に関する意見あり」とある。
嘘は書かれていない。
ただ、何が議論になったのかは、この記録からは分からない。
三崎は、自分がその会議録を書いたことを思い出した。
「黒瀬さん」
三崎は、執務室で切り出した。
「一度、外の意見を聞いてみませんか」
「外の意見」
「青葉市に、意見照会をかけてみるとか」
黒瀬は台帳から顔を上げた。
「なぜ今、それを」
「うちのやり方が正しいなら、外から見ても、そう見えるはずです」
黒瀬は、しばらく黙っていた。
反対する理由を探して、見つからなかったという顔だった。
「好きにしろ」
黒瀬は、外部の意見を恐れていなかった。
自分の方法が合理的だと信じていたからだ。
三崎は、その日のうちに青葉市に電話をかけた。
窓口の担当は、資産経営部長の長谷という職員に取り次ぐと言った。
「意見照会という形でよろしいですか」
「はい。高峯市の施設再編について、外部からご意見をいただきたいんです」
日程は、十二月の第二週に決まった。
電話を切ってから、三崎はしばらく受話器に手を置いていた。
自分が何を頼んだのか、まだ整理できていなかった。
黒瀬のやり方を否定したいわけではない。
上半期の結果は、実際に出ている。守られたサービスもある。
ただ、記録に何が残っていないのかを、誰かに見てもらいたかった。
机の上には、樫村の名前が消えた起案が置かれていた。
この話のFM豆知識
FMの教訓:実績のある担当者の案でも、別の職員が資料と判断理由を確認する。
◆ この話で扱う仕事
関係するFMの仕事:統括マネジメントの組織体制・規程・人材
市全体の施設を扱う担当には、複数の課と調整し、必要な情報を集める役割があります。その担当に仕事を任せる場合も、資料を作る人、専門の確認をする人、決裁する人を決めます。仕事が一人に集中している場合は、他の職員も資料を読み、判断の理由を確認できるようにします。
◆ 実績があっても、確認を省かない
早く答えを出し、成果を上げる担当者には、周囲が判断を任せやすくなります。その結果、根拠の資料を読まずに案が通ることがあります。経験のある人でも、費用を取り違えたり、利用者への影響を見落としたりします。担当者への信頼と、提出された案を確認する仕事を分けて考えます。
◆ 「あの人のやり方」を、他の職員も使える手順にする
うまくいった方法は、集める資料、比べる項目、相談する部署、判断理由の書き方に分けて残します。反対意見をどこに記し、誰が確認するかも決めます。担当者が替わったとき、後任が手順を読んで作業できるかを確かめ、分からない箇所を補います。
◆ 物語の場面
庁議で黒瀬の実績が認められると、他の課も黒瀬の即答に頼るようになります。檜倉の案件では、疑問を持っていた樫村が担当を外れ、窓口の応援に回りました。起案にも樫村の名前がなくなります。配置が変わった理由を本文だけで決め付けることはできませんが、疑問を知る職員が、案を確認する場から離れたことは読み取れます。
■ 担当者が行うこと
案件ごとに、資料を作る人、内容を確認する人、決裁する人を記してください。人が少ない場合も、案件に応じて関係課に確認を頼みます。担当が替わるときは、引き継ぐ資料と未確認の事項を明記し、元の担当者が挙げた疑問への回答が残っているかを確かめます。
確認する法令・計画・庁内のルールなど
- 各自治体の決裁規程・職務権限規程:起案、審査、決裁を誰が担当するかと、関係課への確認が必要な範囲を調べます。
- 各自治体の文書管理規程:起案した人、検討の経緯、判断の根拠を、担当者が替わっても確認できるように残します。
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら
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