ずっと分かっていた
四月一日、長谷巡は五年ぶりに本庁舎の六階へ戻った。
出先を二か所回って、今度は管財課の係長である。内示が出たとき、周囲の反応は決まっていた。
「大変なところに行くな」
誰も、何が大変なのかまでは言わなかった。
管財課長の桜井肇が、机の上に段ボール箱を三つ積んで待っていた。
「引き継ぎ。これで全部だ」
長谷は上から順に中身を確かめた。庁舎の維持管理。光熱水費の契約。公用車の更新計画。庁内の什器。どれも、目を通せば分かるものだった。
三つ目の箱の底に、色の褪せた綴りが一冊だけ入っていた。他の資料と、紙の色が違う。
背表紙には「本庁舎 耐震」とだけ書いてあった。
長谷が持ち上げると、桜井が一度だけそちらを見た。
「そのうち見ておいて」
それだけ言って、自分の席へ戻った。
長谷は綴りを机の端に置いた。四月は、異動の処理と契約の更新で埋まった。綴りを開いたのは、連休が明けてからだった。
五月。長谷は綴りの表紙をめくった。
最初にあったのは、平成十年度の耐震診断報告書だった。二十年以上前の日付である。紙は黄ばんでいたが、活字はまだ明瞭だった。
一階を中心に、耐震性能が不足していること。特に建物の長い方向で、数値が基準を大きく下回っていること。
結論には、こうあった。
早急な耐震補強又は建替えの検討が望まれる。
長谷は、その先を探した。工法の提案はない。概算の事業費もない。いつまでに、という時期もない。
「検討が望まれる」。そこで、報告書は終わっていた。
次に綴じられていたのは、四年後の資料だった。平成十四年、耐震補強の概算。金額の欄まで埋まっている。決裁欄は空白だった。
さらにめくる。平成十八年、建替えの検討資料。平成二十二年、移転先候補地の一覧。平成二十五年、仮庁舎の確保に関するメモ。
どれも、途中で止まっていた。
長谷は綴りを閉じ、そのまま地下一階の文書庫へ降りた。
簿冊の背を順に追っていくと、綴りに入っていなかった資料が出てきた。庁内検討会の記録。議会での質問と答弁。他市の改修事例を集めたファイル。当時の担当者が作ったらしい比較表。
分量があった。
長谷は、そのことに驚いた。何もされていなかったのなら、まだ分かる。
違った。
誰かが調べている。数字を出している。比較している。四年か五年に一度、同じことが繰り返され、そのたびに止まっていた。
長谷は資料を抱えて六階へ戻り、桜井の席の前に立った。
「桜井さん。本庁舎の耐震、これ、いつから分かってたんですか」
桜井は書類から顔を上げなかった。
「ずっとだよ」
その日の夕方。課員が帰ったあとで、桜井は湯呑みを持って長谷の席まで来た。
「診断をやったとき、俺は三十代の担当だった。今のお前と、そんなに変わらん」
報告書を読んだとき、桜井も思ったという。早く手を打たなければならない、と。
「上には出した。庁内でも回した。誰も無視はしなかった」
ただ、決まらなかった。
補強だけでも、大きな事業費になる。建替えなら、さらに膨らむ。その頃、市には他にもやることがあった。学校の耐震化が途中だった。公民館も、体育館も残っていた。
「子どもが入る建物が先だ。それは、誰も反対できん」
長谷は黙って聞いた。
「そのうち、庁舎の話は誰も口にしなくなった」
桜井は湯呑みに目を落とした。
「役所の建物を先に直すと言い出すのは、勇気が要る。俺にはなかった」
少し置いてから、続けた。
「決める立場でもなかった。ただ、決まらんのは、ずっと見てきた」
長谷には、確かめておきたいことがあった。
「防災棟は、どうなんですか」
平成二十五年に建った別棟である。長谷は、それで本庁舎の問題は一つ片付いたのだと思っていた。災害対策本部がある。危機管理部門が入っている。少なくとも、大きな災害のときに市役所そのものが止まる危険は減った。そう理解していた。
桜井は首を振った。
「あれは、本庁舎を諦めた結果だ」
震災の後、本庁舎をどうするかという議論が、また始まった。しかし、本庁舎そのものは動かせなかった。費用。工事中の職員の置き場。市民サービス。どれも決まらなかった。
「それで、災害のときにどうしても要るものだけ、外に出した。本庁舎は、そのままだ」
長谷の中で、防災棟の意味が裏返った。
解決した建物ではない。決められないまま、いちばん止められない機能だけを先に逃がした建物だった。
問題は、逃がした先ではない。残った方にある。
翌日、長谷は資料を最初から並べ直した。
今度は、なぜ決まらなかったか。それだけを見る。
補強案。工事の間、この人数をどこへ置くかが解けずに止まっていた。庁舎を空けなければ工事ができない。空ければ、市民サービスが止まる。
建替え。財源が立たなかった。学校と公民館の耐震化が続いていた時期だった。
移転。用地とアクセスで割れていた。候補地の一覧には、五つの地区名が並んでいた。どの地区も、自分のところへ来ることを望み、他所へ行くことには反対していた。
仮庁舎。必要な規模の受け皿が、市内に見当たらなかった。
長谷は、それぞれの資料を作った担当者の名前を見た。
誰も、間違ったことはしていない。
補強の概算を出した人間は、必要な数字を出している。移転を検討した人間は、候補地を比較している。財源を試算した人間は、使える金を計算している。
それぞれの仕事は、終わっていた。
なのに、案件は終わっていない。
長谷は、そこで手を止めた。
構造の専門家に持ち込めば、補強の方法は出る。だが、その人は工事中の市民サービスまでは決めない。
財政課に持ち込めば、出せる金額は見える。だが、その金額で必要な安全性を確保できるかは、財政課の仕事ではない。
総務に聞けば、窓口を止められない条件が分かる。営繕に聞けば、工事の条件が分かる。議会事務局に聞けば、動かせない日程が分かる。
全部、答えは出る。一つずつなら。
長谷は、二十数年分の資料を見渡した。
この綴りに足りなかったのは、耐震の技術ではない。危機感でもない。誰か一人の能力でもない。
補強。財源。業務継続。市民サービス。議会。それらを、同時に成立させること。
一つずつなら、もう答えは出ていた。全部を一つの仕事にした人間が、いなかった。
長谷は、そこで初めて、自分が何をしなければならないのかを考えた。
自分が全部の答えを出す必要はない。出せる人間に出してもらえばいい。
問題は、その答えをどうつなぐかだった。
長谷は資料をまとめ、桜井の席へ行った。
「桜井さん。今年度、着手していいですか」
桜井はすぐには答えなかった。しばらく手元の書類を見てから、顔を上げた。
「言っておくが、これは俺の代で終わる仕事じゃない」
「はい」
「途中で止まったら、次のやつがまた同じ箱を開ける」
「分かっています」
「それでも始めるか」
「始めます」
桜井は長谷を見た。
「何からやる」
長谷は少し考えた。以前なら、調べます、と答えたかもしれない。
「人を集めます」
桜井の眉が、わずかに動いた。
「構造は構造の人に聞きます。工事は営繕。金は財政。窓口は総務。俺が全部調べても、また同じになる」
長谷は机の上の綴りを見た。
「一つずつ出てくる答えを、今度は途中で終わらせません」
桜井はしばらく黙っていた。それから頷いた。
「やってみろ」
長谷は自分の席へ戻り、綴りの背表紙を見た。
「本庁舎 耐震」。その下に、歴代の担当者の名前が小さく並んでいる。平成十年から、二十年以上。八つの名前。
一番上に、桜井肇とあった。
長谷は、その字をしばらく見ていた。二十数年前、この綴りを作ったのは桜井だった。そして今日まで、表紙は替わっていない。
長谷はペンを取り、一番下に自分の名前を書き足した。
九つ目。長谷巡。
綴りを閉じた。
この話のFM豆知識
FMの教訓:構造、予算、窓口業務の条件をそろえ、誰が調整し、誰が決めるかを明らかにする。
◆ この話で扱う仕事
関係するFMの仕事:統括マネジメント/プロジェクト管理
市全体で施設を管理するには、担当部署、予算の配分、データの管理方法、決裁の手順を決める必要があります。これが統括マネジメントの仕事です。個々の改修では、必要な性能、予算、工事の日程を決め、予定どおり進むかを確かめます。長谷は関係課の調整を担いますが、技術や予算の判断をすべて一人で行うわけではありません。
◆ 技術を確かめる人、調整する人、決裁する人を決める
例えば、構造の専門家が補強案を出したら、財政担当に費用を確保できるか、窓口担当に工事中も業務を続けられるかを聞きます。回答が食い違えば、何を変える必要があるかを関係者で確かめます。調整担当はその話合いを進め、技術上の確認や予算の承認は、それぞれの権限を持つ人に求めます。
◆ 過去の検討が、どこで止まったかを調べる
長く決まらない案件でも、補強方法や費用は既に調べてあることがあります。過去の資料を読み、誰が何を調べ、どの条件が残ったために止まったのかを確認します。見積りの時期や建物の状態が変わっていれば、その部分を調べ直します。使える調査結果を確かめてから、次に必要な作業を決めます。
◆ 物語の場面
本庁舎では、二十年以上にわたって補強、建替え、移転、仮庁舎が検討されていました。各担当者は、自分の担当について調べていました。それでも、費用や窓口業務、議会の日程まで合わせて進める案は決まりませんでした。長谷は、関係者の答えを集めて一緒に検討する人が必要だと気付き、「人を集めます」と答えます。
■ 担当者が行うこと
過去の資料から、補強方法、費用、仮移転先、窓口業務、議会対応について、分かっていることと未確認のことを書き出してください。項目ごとに確認する人と回答日を決めます。全体を調整する人、決裁する人、次に判断する日も決めます。担当者同士で解決できない場合は、誰に判断を求めるかを上司と確かめておきます。
確認する法令・計画・庁内のルールなど
- 総務省「公共施設等総合管理計画の策定等に関する指針」:本庁舎の改修を、市全体の施設の使い方や更新費用の計画と合わせて考える際に確認します。
- 各自治体の庁内推進体制・意思決定に関する規程:どの課が調整し、どの会議で検討し、誰が決裁するかを確認します。
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら
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