受け継いだ人
秋の昼下がりだった。
市立図書館は三階建てで、かつて廃止候補に挙げられた施設だった。
正面の自動ドアを、高校生が通り抜けていく。窓際の椅子では、老人が新聞をゆっくりとめくっている。絵本コーナーから幼い子どもの笑い声が漏れ、司書が静かに声をかけていた。
特別な光景ではない。
ただの午後だった。
窓際のテーブルで、管財課の若手職員が、タブレットに表示した個別施設計画を確認していた。
「課長、この建物って……もともとは児童センターで、廃止候補だったんですよね」
若手職員が、隣に立つ上司を見上げた。
長谷巡、三十六歳。管財課長。
最近は、作業着よりもスーツを着る機会の方が増えていた。
長谷は少し意外そうな顔をしたが、すぐにいつもの表情へ戻った。
「……ああ。古い計画書で見たのか」
「はい。児童センターは利用率が低下していて、元の図書館は老朽化していた。どちらも、廃止検討の対象に入っていました」
長谷は答えず、窓の外を見た。
自転車で来た高校生が、入口を通っていく。杖をついた老人が、ゆっくりと帰っていく。
若手職員が、画面を見ながら続けた。
「元の図書館は解体された。でも、この建物は残して、図書館機能を移し、複合施設にしたと書かれています」
少し間を置いて、尋ねた。
「……なぜ、残したんですか」
長谷は、窓の外から視線を戻さないまま答えた。
「残したんじゃない」
それから、言葉を続けた。
「残されたんだ」
「誰に、ですか」
「俺が会った人たちと、会ったことのない人たちに」
若手職員は、分かったような、分からないような顔をした。
それでいい、と長谷は思った。
分かるのは、もっと先のことだ。
長谷は、今度は若手職員に尋ねた。
「お前は、この場所をどう見た」
「どう、というのは」
「計画書の数字じゃない。今、ここに立って、自分の目で見て、どう思った」
若手職員は、もう一度、館内を見渡した。
高校生。
新聞を読む老人。
絵本コーナーから聞こえる笑い声。
しばらく考えてから答えた。
「……残ってほしい、と思いました。数字とは別に」
長谷は頷いた。
「その感覚を、大事にしろ」
それ以上は言わなかった。
二人は図書館を出た。
館内には、変わらず穏やかな時間が流れていた。
日が落ちた後、長谷は庁舎の廊下を一人で歩いていた。
十年前より、建物は少なくなった。
計画に沿って統廃合が進み、役割を終えて更地になった場所もある。職員の数も減った。
それでも、街は続いている。
営繕課の部屋に、まだ灯りがついていた。
若い技術職員が一人、机に図面を広げ、赤いペンで書き込みをしている。
石末が定年を迎えた頃、長谷は自分の変化に気づいた。
技術職の若手に向かって、
「現場から逃げるな」
と言っている自分がいた。
その時は、自分でも驚いた。
石末の口調が、いつの間にか移っていた。
そう言えと教わった覚えはない。
隣で、長い間、石末の仕事を見ていただけだった。
それでも、気づけば、同じ言葉が自分の口から出ていた。
長谷は営繕課の扉を軽くノックした。
若手職員が顔を上げた。
「課長、こんな時間にどうしたんですか」
「帰れよ。それ、明日でもいいだろう」
「もう少しだけです」
長谷は、少し笑った。
その返し方にも、覚えがある。
かつて、自分も同じことを言っていた。
「無理はするな」
長谷は言った。
「でも、途中で投げ出すなよ」
若手職員が頷いた。
長谷は扉を閉めた。
副市長室の窓には、まだ灯りがあった。
財政課の電気は、すでに消えている。
地下へ続く階段の前まで来た。
降りるつもりはなかった。
今日は、いい。
ただ、その入口を見ただけで、足が止まった。
萬代のいた資料室。
珈琲の匂い。
答えではなく、問いだけを渡された場所。
長谷は、しばらく階段の暗がりを見つめてから、歩き出した。
庁舎を出ると、夜の街が広がっていた。
空は低く、風は冷たかった。
長谷は、玄関の前で立ち止まった。
市役所の窓には、まだいくつか灯りが残っている。
今夜も、誰かが働いている。
その中には、先ほどの若い技術職員もいる。
図書館の方角から、子どもの声が聞こえた。
閉館前なのだろう。
長谷は、昼間の若手職員の顔を思い出した。
「残ってほしい、と思いました」
その感覚を、若手はまだ、理由として説明できていなかった。
それでいい、と長谷は思った。
理由は、後から育つことがある。
見たもの。
聞いた言葉。
誰かの仕事の仕方。
その時には意味が分からなかったものが、何年も経ってから、自分の判断を支えることがある。
自分が、そうだった。
諫山の残した問い。
萬代から渡された言葉。
石末の現場を見る目。
響矢が数字へ向けた厳しさ。
千々岩が教えた、通すための考え方。
誰か一人から受け取ったわけではない。
会った人からも、会ったことのない人からも、少しずつ渡された。
長谷は、ようやく気づいた。
自分は、見送る側になったのだ。
誰かを送り出す側。
問いを渡す側。
かつて受け取ったものを、今度は次の人間へ渡す番になった。
寂しさはなかった。
ただ、少しだけ背筋が伸びるような感覚があった。
昼間の若手は、まだ分かっていない。
営繕課の若者も、今は目の前の図面しか見えていないかもしれない。
それでいい。
いつか必要になった時に、自分の言葉として思い出せればいい。
長谷は歩き出した。
背後には、市役所の灯りが残っていた。
前方には、図書館の窓から漏れる光が見えた。
残った建物。
残らなかった建物。
その間で受け継がれてきたもの。
夜の街は、まだ続いていた。
この話のFM豆知識
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※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら
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