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第4巻 エピローグ

橋を架ける人

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年度末、桂沢市総務課の書庫整理を担当したのは、蒲田大輝だった。

古いファイルを一冊ずつ確認し、保存期間の切れた文書を廃棄リストに載せる。それだけの作業だった。

三列目の棚の中段に、立派な装丁のファイルが一冊あった。

背表紙には、外部コンサルティング会社のロゴが入っている。

蒲田が表紙を開くと、施設データも提言も、見事に整理されていた。作成日は五年前。施設ごとの優先順位まで、明確に示されている。

しかし、なぜこの順位になったのかは、どこにも書かれていなかった。

「これ、何ですか」

近くにいた先輩職員が、ファイルを見て答えた。

「ああ、それ。前の前の担当者が委託して作ったやつだよ。何年か前に、大学の人が調査に来て、いろいろ聞いていったらしいけど……その後どうなったかは知らないな」

蒲田は今、老朽化した施設の去就を判断しなければならなかった。

この計画書が使えれば、話は早い。

だが、何度読んでも、判断には使えなかった。

読めば分かるはずの資料なのに、何を根拠に、どう考えればよいのかが分からない。

ファイルを閉じようとした時、表紙の裏に、紙クリップで何かが留められていることに気づいた。

古い名刺だった。

紙は、少し変色している。

緑丘大学大学院 公共政策研究科

皆川 茜

裏には、手書きで短く書かれていた。

何かあれば。

蒲田は、その名刺をしばらく見つめていた。

大学の代表番号は、名刺に印刷されていた。

蒲田は迷った末に、電話をかけた。

事務担当の女性が応対した。

「皆川という者は……すでに修了しております。少々お待ちください」

保留音が続いた。

数分後、別の女性の声に替わった。

「お電話、代わりました。田丸です」

「あの、桂沢市総務課の者ですが。古い資料の中から、皆川さんの名刺が出てきまして」

「皆川先輩の名刺が」

電話の向こうで、声がわずかに変わった。

「以前、こちらに調査で来られたことがあるようで。資料のことで、少しお聞きしたいことがあるんです」

「……覚えています」

田丸は、それだけ答えた。

「皆川先輩は、今、RFSCにいます。私から連絡を取りますので、そちらのお電話番号を伺ってもよろしいですか」

蒲田が番号を伝えている間、田丸はもう一度言った。

「間違いなく伝えます。桂沢市から、と言えば、分かってもらえると思います」

電話が切れた。

蒲田には、まだ何も分からなかった。

ただ、自分が連絡すべき場所に連絡したことだけは、間違っていないように思えた。

数週間後、皆川茜は桂沢市を訪れた。

蒲田が用意した会議室のテーブルには、あの計画書が広げられていた。

皆川は、表紙を見た。

それから、ページを一枚ずつめくった。

「この計画書、見覚えがあります」

「そうなんですか」

「以前、少しだけ、ご縁がありました」

それ以上、皆川は説明しなかった。

蒲田が、計画書を自分の方へ引き寄せた。

「読んでも、優先順位の根拠が分からないんです。今、施設の今後を決めなければならないんですが、これをどう使えばいいのか分からなくて」

「そうだと思います」

皆川は、静かに答えた。

資料は、以前見た時のままだった。

データの整理も、分析も、提言も見事だった。

だが、なぜこの数値を使ったのか。なぜこの順位にしたのか。どの案を捨て、何を優先したのか。

判断の過程は、どこにも残っていない。

「読んで内容を理解することと、それを使って判断できることは、別なんです」

「では、この計画書は使えないということですか」

「使えないわけではありません」

皆川は首を振った。

「ただ、これだけでは足りません」

二人は、計画書のどこで思考が途切れているのかを、一つずつ確認した。

優先順位を決めた根拠。

計画が使われなくなった理由。

計画策定時の想定と、現在の施設状況とのずれ。

当時のデータが一部残っていたことが幸いだった。完全ではないが、判断の経緯をたどり直すことはできた。

作業を終える頃、蒲田が尋ねた。

「今度は、根付くんでしょうか」

皆川は黙ったままだった。

青葉市から始まり、湊原市、早瀬市、渚町、そして十の自治体で見てきた事例が、頭の中を通り過ぎた。

「分かりません」

蒲田が、少し戸惑った顔をした。

皆川は続けた。

「条件が揃えば、根付く可能性はあります。でも、本当に根付いたかどうかは、何年か経たないと分かりません」

「何年か」

「はい」

皆川は、計画書に手を置いた。

「ただ、今回は、置いていきません」

「今後も来られるんですか」

「はい」

皆川は、今度は迷わず答えた。

「何年でも」

蒲田には、その言葉に込められた意味までは分からなかった。

ただ、これまで何度も聞いてきた「検討します」とは、違う響きがあることだけは分かった。

帰り際、皆川は、一冊の薄いファイルを蒲田に渡した。

立派な装丁ではない。

表紙には、手書きで書かれていた。

桂沢市・引継ぎ資料

蒲田は受け取ると、思わず聞いた。

「これだけですか」

あの分厚い計画書と比べれば、拍子抜けするほど薄かった。

「これだけで十分だと思います」

皆川が答えた。

「『読めば分かる』という作りにはしませんでした」

「では」

「困った時に開けば、何を確認すべきかが分かる作りにしました」

皆川は、ページを開いた。

「なぜ前の計画が動かなかったのか。次に判断する時、何を確認しなければならないのか。それだけを書いています」

蒲田は、ページをめくった。

簡潔な記述が、数枚続いている。

最後のページには、見出しだけがあり、その下は空白だった。

次の担当者へ

「ここは、何も書かないんですか」

「はい」

皆川は答えた。

「蒲田さんが、いつか書くところです」

蒲田には、まだ何を書けばよいのか分からなかった。

それでも、いつか書く日が来るのだろうと、なんとなく思った。

数週間後、皆川は緑丘大学のゼミ室を訪れた。

かつて自分が使っていた席には、今では田丸が主のように座っている。

机の上には論文の束と、自治体事例の比較表が広げられていた。

皆川が調査していた頃より、資料はさらに厚くなっている。

ただし以前とは違い、自治体の事例は、条件の近いもの同士で組にして整理されていた。

「先輩、桂沢市、どうでしたか」

「まだ、分かりません」

田丸が笑った。

「その口癖、まだ現役なんですね」

「治らないみたい」

皆川も笑った。

田丸が、比較表を皆川の方へ向けた。

「桂沢市のその後を、十一番目の事例として論文に入れてもいいですか」

皆川は、しばらく考えた。

「いいよ。ただ、まだ結果は出ていない。それも含めて書いて」

「分かりました」

田丸は頷いた。

それから、少し改まった声で言った。

「先輩。一つ、聞いてもいいですか」

「何」

「桂沢市に何年でも通うって、蒲田さんに言ったんですよね」

「うん」

「先輩がいなくなったら、どうなるんですか」

皆川は、すぐには答えられなかった。

「……終わるかもしれない」

「ですよね」

田丸の声に、責める響きはなかった。

「私、ずっと考えていたんです」

田丸は、比較表の大瀧市の欄を指した。

「先輩がやろうとしていることは、必要だと思います。現場を置いていかずに、定期的に通って支える。それ自体は、すごく大切です」

一度、言葉を切った。

「でも、先輩が現場に張りついて支え続ける形は、大瀧市の担当者と、同じ構造なんじゃないかと思ったんです」

皆川は、田丸を見た。

痛いところを、まっすぐに突かれていた。

「外から来た人が、何度も通う。それは、組織の中に継ぐ人がいないことの裏返しでもあります」

「外部支援は、仕組みが動き始めるまでの橋です。でも、橋を渡り終えられないまま、橋そのものを使い続けたら、また別の属人化になる」

「……厳しいことを言うね」

「先輩が教えてくれたことです」

田丸は少し笑った。

すぐに真顔に戻った。

「緑川町の久保田さんが強かったのは、久保田さん自身が優秀だったからだけではありません」

「自分が考えた理由を記録に残して、人が代わっても回る形にしたからです」

田丸は、比較表の欄外に置いていたノートを開いた。

「私は、そこを研究したいんです」

「人に頼らずに継いでいく仕組みを、どう作ればいいのか」

皆川は、黙って聞いていた。

田丸は続けた。

「青葉市に、判断記録制度を作った人たちがいましたよね。折原さんと宮野さん」

「試行で三十一件の記録が作られて、そのうち、実際に次の担当者から参照されたのは七件だった」

「うん。七件だけだった」

「でも、ゼロではありませんでした」

田丸の声が、少し強くなった。

「七件は、前の担当者が現場に張りついていなくても、記録を使って次の人が判断できたんです」

「私は、あの制度をもっと調べたい」

「どうすれば、ただ保存されるだけではなく、実際に参照される記録になるのか」

「どうすれば、外部の人が通い続けなくても、組織の中で回るようになるのか」

田丸は、皆川を見た。

「それが分かれば、先輩のように、一人で支え続けなければならない人も減ると思うんです」

皆川は、しばらく何も言えなかった。

前職で見なかった「その後」を、今度こそ見届けたい。

その思いから、皆川はRFSCに入った。

根付かなかった自治体のそばに残り、外から支える側に回る。

それは、今でも必要な仕事だと思っている。

だが、それは橋を架け続ける仕事だった。

現場が、自分たちで歩き始められるまでを支える仕事だ。

田丸が問うているのは、その橋をいつか外せる仕組みだった。

外から支える人がいなくても、組織の中で判断が継がれていく状態。

橋を渡り終えた後の話だった。

「……田丸さん」

「はい」

「それは、私が何年も言葉にできなかったことだ」

田丸が、きょとんとした顔をした。

「私は、根付かなかった現場を見て、なら自分が通えばいいと思った」

「でも、それは、私がいる間だけの解決だった」

皆川は、自分の言葉を確かめるように続けた。

「あなたが言っているのは、私がいなくても続く解決だ」

「ずっと、それが本当の解決だと分かっていたはずなのに、私は現場へ戻ることで、その先を考えるのを止めていたのかもしれない」

「先輩がRFSCに行ったことが間違いだと言っているわけじゃないんです」

田丸が慌てて言った。

「外からの支援は、絶対に必要です。仕組みが動き出すまでには、誰かが支えないといけない」

「ただ、それと同時に、中で回る仕組みも作らないと、支援する人が疲弊して終わってしまう」

田丸は、比較表を見た。

「両方、必要なんだと思います」

「外から支える人と、中で仕組みを作る人」

皆川が言い換えた。

「翻訳する人と、それを仕組みに変える人」

「はい」

皆川は、ゆっくりと頷いた。

かつて自分の調査に同行し、隣でノートを取っていた後輩が、今では、自分がたどり着けなかった問いの先を見ている。

教える側と教わる側が、いつ入れ替わったのかは分からなかった。

もしかすると、最初から固定されたものではなかったのかもしれない。

「先輩は、現場で『その後』を集めてください」

田丸が言った。

「私は、その事例を、人に頼らずに継げる仕組みに変える方法を研究します」

「先輩が集めた現場が、私の研究の土台になります」

「……役割分担ということ?」

「はい」

田丸は笑った。

「役割は、今、決めました」

皆川も、少し笑った。

「決めるのが早いね」

「先送りすると、次回が来ないかもしれないので」

皆川は、田丸を見つめた。

自分は、これからも橋を架ける。

ただし、橋を架け続けることを目的にはしない。

その土地の人が自分たちで歩き始め、いつか橋を必要としなくなるまで支える。

それが、RFSCでの自分の役割なのだろう。

田丸は、比較表の欄外に一行を書き加えた。

結論の欄ではない。

次の問いと書かれた欄だった。

人に頼らずに継ぐ仕組みは、どうすれば作れるか。

窓の外には、まだ午後の光が残っていた。

同じことが、どこかで起きている。

しかし、起きた理由は、一つずつ違っている。

だから、まだ分からないことの方が、はるかに多い。

それでも、問いは一人から二人へ、確かに手渡されていた。

今度は、誰かがいなくなっても、消えない形で。

この話のFM豆知識

(豆知識は準備中)

つづく

※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら