ついて行っていいですか
皆川は、十の事例を並べた比較表を、蓑輪の個室へ持っていった。
青葉市、湊原市、早瀬市、渚町。緑川町、舟見市、大瀧市、柚木村、桂沢市、美原市。
比較表では、十の自治体を、条件の近い事例同士で並べていた。同じような制約の下で、担当者が何を選んだのか。その選択の違いが、結果にどう表れたのかを比較できるようにしてある。
蓑輪は、表を一通り眺めてから言った。
「点数にはしなかったんですね」
「はい」
皆川は頷いた。
「無理に数値化するのをやめました。同じような条件に置かれた人が、違う選択をして、違う結果になった。それを、そのまま並べた方が伝わると思ったんです」
田丸が立ち上がり、ホワイトボードに四つの対比を書き出した。
「一つ目は、『抱え込むか、手放すか』です」
田丸は、舟見市と緑川町の名前を並べた。
「舟見市の係長さんと、緑川町の久保田さん。二人とも真面目で、誠実で、施設管理の仕事を大切にしていました」
田丸は、舟見市の側を指した。
「でも、舟見市では、本来業務と公共施設マネジメントの両方を、一人で抱え込みました。その結果、本来業務が忙しくなった時に、続けられなくなった」
次に、緑川町を指した。
「久保田さんは、自分が判断してきた理由を記録に残して、後輩に仕事の半分を渡しました」
田丸は、二つの自治体名を見比べた。
「同じ誠実さが、正反対の結果になったんです」
蓑輪が確認した。
「つまり、本人の誠実さや意欲の差ではない、と考えたわけですね」
「はい」
皆川が引き取った。
「舟見市の係長さんを追い詰めたのは、本人の弱さではありません。所掌外の仕事を、一人に背負わせた組織の構造でした」
「緑川町には、仕事を手放すための受け皿があった。判断理由の記録があったから、後輩に渡すことができたんです」
皆川は、比較表に目を落とした。
「差があったのは、個人の資質ではなく、選ぶことのできる選択肢の方でした」
田丸が、二つ目の組を書いた。
「二つ目は、ベテランの引き際です。大瀧市と緑川町です」
「どちらも、長く担当を続けて、現在の運用を見事に回していました。でも、大瀧市の担当者は、自分と地域との信頼関係を中心にして運用を続けています。後継者は、まだ育っていません」
「今は機能している。でも、本人が抜けた後に続くかどうかは分からない」
一方の緑川町について、田丸は続けた。
「久保田さんは、自分の頭の中にあった判断理由を外に出して、後輩に仕事を渡しました」
「能力の差ではなく、『手放す』という選択をしたかどうかの差です」
「今、機能していることと、将来も続くことは違う、ということですね」
蓑輪の言葉に、皆川は頷いた。
「はい。現在の成功だけを見ても、定着したとは言えません」
田丸は、三つ目の組を書いた。
「三つ目は、『後輩に何を残すか』です。美原市と柚木村です」
「同じように後輩を思って残したものが、逆の結果になりました」
蓑輪が続きを促すように、田丸を見た。
「美原市の前任者は、若手が苦労しないように、作業手順を完璧に近いところまで作り込みました」
「でも、『なぜその作業をするのか』は書きませんでした」
田丸は、美原市で見た引継書を思い出しながら続けた。
「良かれと思って、後任が悩む工程を全部取り除いた。その結果、後任は、考える機会まで失っていました。手順どおりに数字を入力しても、それが何の判断につながるのか分からなかった」
「柚木村では、作業の形式だけでなく、『なぜ書くのか』まで備考欄に残されていました」
「だから、兼任という厳しい条件でも、理由ごと引き継がれて、今も続いています」
田丸は、二つの事例の間に線を引いた。
「残すべきなのは、手順だけではありません。次の人が自分で考えるための理由も必要だったんです」
四つ目は、皆川が書いた。
「四つ目は、『どこまで背負うか』です。舟見市と渚町です」
「舟見市では、正式な担当でもない一人の職員が、組織全体の仕組みづくりまで背負おうとして、消耗しました」
「渚町の日野さんは、青葉市の取組を、個人的な読み物として読み続けるところに留めた。組織化はできなかったけれど、無理をしなかったから、ノートは今も続いています」
皆川は、少し間を置いた。
「背負いすぎることが、いつも正しいわけではないという対比です」
蓑輪は、ホワイトボードに並んだ四組を、しばらく黙って見ていた。
「精神論を、一つも使っていませんね」
「はい」
皆川が答えた。
「本気度とか、やる気とか、そういう言葉を使うと、結局は『続けられなかった人が悪い』という話になります」
「でも、そうではありませんでした」
皆川は、これまで会ってきた人たちの顔を思い浮かべた。
「みんな、それぞれの制約の中で、誠実に仕事をしていました。その人たちの選択を追い詰めていたのは、多くの場合、組織の側に仕組みがなかったことです」
蓑輪が言った。
「その見方は、読む人を責めません」
ホワイトボードを見ながら、静かに続けた。
「自分が今、どの選択の入口に立っているのか。それに気づかせるだけです」
「良い研究の作法だと思います」
田丸が、小さく付け加えた。
「私、この表を見ていて思ったんです」
「舟見市の係長さんと同じルートに入りかけている人が読んだら、『手放してもいい』って気づけるかもしれない、って」
蓑輪は、その言葉も含めて比較表を最後まで読み終えた。
「結論は、出たんでしょうか」
皆川は、すぐには答えなかった。
青葉市から始まった面談を、一つずつ頭の中に並べ直した。更新を続ける長谷。理由を残す折原と宮野。数字を支える響矢。現場を見続ける石末。翻訳した津久見。枠を作り、見届ける来島。そして、その後に訪ねた自治体の人たち。
「仮説は、かなり絞り込めました」
皆川は、慎重に言葉を選んだ。
「担い手が安定した立場にいること。そして、判断した理由が記録として残されていること。この二つが揃うほど、取組は根付きやすい傾向がありました」
「翻訳する人と、その後を見続ける人が必要だ、とも言えます」
皆川は、そこで言葉を止めた。
「でも」
蓑輪が続きを待った。
「それだけでは、その人がいなくなったら終わる、という話に戻ってしまいます」
「緑川町の久保田さんが強かったのは、久保田さん自身が優秀だったからだけではありません。自分が考えてきた理由を記録に残して、人が代わっても回る形にしたからです」
皆川は、比較表の上に置いた指を動かした。
「人に頼って続けることと、仕組みに残して続けることは、似ているようで、方向が逆なんです」
「人が支えることは必要です。でも、最後まで人だけに頼っていたら、定着とは言えない」
皆川は、蓑輪を見た。
「まだ、断言はできませんが」
「断言できない理由は」
「この仕組みが本当に続くかどうかは、何年か経ってみないと分からないからです」
「現在、機能していることは確認できても、定着したことまでは確認できない。大瀧市で、それが分かりました」
蓑輪は、小さく頷いた。
否定の頷きではなかった。
「良い結論だと思います」
少し間を置いてから、続けた。
「きれいに、まとまり過ぎていません」
皆川は、その言葉を聞いて、初めて素直に笑った。
それから、これまで言わずにいたことを口にした。
「……この後のことを、まだ決めていないんです」
「進路のことですか」
「はい。研究を続けるべきなのか。それとも、現場に戻るべきなのか」
蓑輪は、どちらを選ぶべきかを示さなかった。
いつもと同じだった。
「それは、ご自身で決めることだと思います」
皆川が席を立とうとした時、蓑輪が一言だけ付け加えた。
「納得できるまでサンプルが集まったら、いつでも帰ってきてください」
蓑輪は、ゼミ室の方へ視線を向けた。
「皆川さんの席は、空けておきますから」
報告書を提出した日の夕方、皆川と田丸は、いつものゼミ室に二人で残っていた。
窓から差し込む光は薄くなり、大テーブルの上には、調査で使った資料とフィールドノートが積まれていた。
田丸が先に口を開いた。
「先輩、このまま大学に残ってください」
皆川は、田丸を見た。
「一緒に、研究を続けたいんです」
率直な願いだった。
憧れと不安が、半分ずつ混じった声だった。
皆川は、すぐに言葉を返せなかった。
「田丸さんは、もう、私と一緒じゃなくても大丈夫だと思う」
田丸の表情が変わった。
拒絶されたのではないかと、言葉の意味を確かめようとする顔だった。
皆川は、その表情を見てから続けた。
「響矢さんへのヒアリング、一人で行きたいって、自分から言ったよね」
「来島さんを観察する方法も、誰かに教わったわけじゃなくて、自分で見つけた」
皆川は、一つずつ数えるように話した。
「早瀬市で、私が立ち止まりそうになった時、『まだ全部見たわけじゃない』って言ってくれたのも、田丸さんだった」
「柚木村で、形式があることと、理由が伝わることは別じゃないかって、自分で問いを立てたのも」
田丸は、何も言わずに聞いていた。
「もう、私の後ろを歩いているだけじゃない」
皆川は、静かに告げた。
「私は、現場に戻る」
「RFSCに行こうと思ってる」
田丸の表情が固まった。
「……どうしてですか」
声が、わずかに掠れていた。
「せっかく、ここまで研究してきたのに」
皆川は、田丸が落ち着くのを待ってから答えた。
「桂沢市を訪ねた時に、気づいたの」
「あの時の私と、計画が根付かなかった自治体。その両方に向き合わない限り、私は、ずっと同じ場所に立ち止まったままだと思った」
それ以上は説明しなかった。
説明する必要がないのではなく、言葉だけでは説明しきれないことだと、皆川自身が分かっていた。
前職では見なかった、納品した後の時間。
計画を受け取った人が、どこで迷い、どこで止まり、何を必要としたのか。
今度は、その後を、自分の目で見続けたい。
皆川が現場に戻る理由は、それだけだった。
田丸は、しばらく黙っていた。
ゼミ室の時計の音が、二人の間を埋めた。
やがて、田丸が顔を上げた。
「……分かりました」
言葉を選ぶように、一度息を吸った。
「私は、ここで続けます」
「先輩が気づかせてくれました。もう、これは、私の研究テーマです」
その「続ける」は、これまで田丸が口にしてきたどの言葉とも違っていた。
憧れから出た言葉でも、勢いから出た言葉でもない。
田丸自身が選び、自分の責任で口にした言葉だった。
数か月後。
ゼミ室では、田丸が一人、次の調査に向けて、過去の報告書を整理していた。
皆川が使っていた席は、今も空いている。
扉が、控えめに開いた。
「あの、先輩」
見覚えのない四年生が、リュックを抱えて立っていた。
田丸が顔を上げる。
「どうしたの」
学生は少しためらった後、言った。
「今度の調査、私も、ついて行っていいですか」
田丸は、すぐには答えられなかった。
その短い沈黙の間に、これまでの調査で見てきた光景が、次々と思い出された。
響矢が画面を田丸の方へ向けたこと。
来島が、枠の中身を決めるのは住民だと話したこと。
早瀬市からの帰り道で、立ち止まった皆川に声を掛けたこと。
柚木村で、自分から問いを立てたこと。
そして、このゼミ室で、皆川が現場へ戻ると告げた日のこと。
ひと呼吸置いて、田丸は小さく笑った。
「分かった」
椅子を一つ引き、学生の方へ向けた。
「じゃあ、一緒に行きましょう」
青葉市から始まった問いは、まだ、最終的な答えを持っていない。
どれだけ調べても、定着したかどうかは、次の時間を待たなければ分からない。
それでも、問いを引き継ぐ人はいる。
現場へ戻った人がいる。
大学に残った人がいる。
その後ろから、新しく歩き始める人がいる。
答えは、まだ残っていない。
だが、問いは途切れていなかった。
この話のFM豆知識
(豆知識は準備中)
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら
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