最後の診療所
津久見は、もともと自治体職員だった。
一つの自治体で得た経験を磨き、自治体の枠を越えて横断的に活用すれば、同じ問題に苦しむ多くの自治体を救えるかもしれない。
そう考えて、地域施設支援機構――RFSCへ転職した。
湊原市の状況は、想定していたよりも深刻だった。
再編計画を策定して終わる案件ではない。計画が現場で成立するかを確かめるため、先行して検証する事案を選ぶ必要がある。
さらに、港ノ浦で見たような「行政の枠の外」にある問題を、どう扱うか。
具体策は、まだない。
だからまずは、自分がこれまでやってきた通り、法と数字を当てはめるところから始めるしかなかった。
津久見は、五十七棟の再編方針の中で、最初に検証すべき事案として、港ノ浦診療所を選んだ。
「医療施設は、数の上では多くありません」
市役所での打ち合わせで、津久見はそう説明した。
窓の外には、明るさはあるが暖かさの足りない、冬の朝の光が残っていた。
「数が多くないなら、後回しでもいいんじゃないですか」
梶原が尋ねると、津久見は資料をめくる手を止めた。
「数が少ないからこそです」
「どういうことですか」
「診療所は、判断を間違えれば住民の命に直結します。再編方針にどの程度の精度が必要なのか、最初にここで確かめます」
港ノ浦診療所は、宮地商店から歩いて五分ほどの場所にあった。
地区の中心に近い、小さな平屋の建物だ。
入口には「内科・小児科」と書かれた看板が掛かっている。元の色が分からないほど褪せていたが、文字はまだ読めた。
待合室には椅子が六脚あり、そのうち四脚が埋まっていた。
「先生は、もう二年、後任を探しておられるんですけどね」
受付の女性が、カルテを整理しながら言った。名札には「事務員・坂下」とある。
「二年探して、見つからないんですか」
「希望者が一人もいないんです。求人を出しても、応募がありません」
待合室の壁には、長いひびが走っていた。
津久見は事前に読んだ調査報告書の数値を思い出した。
築三十八年。
耐震性能を示すIs値、〇・五二。
耐震改修を含めた改修費、八千二百万円。
津久見は声を落として、梶原に言った。
「梶原さん。これは、ガソリンスタンドの件より複雑になりそうです」
「どうしてですか」
「あちらは、民間事業者の経営判断でした。こちらは公立診療所です」
「公立だからですか」
「診療機能が必要かどうかを議論する余地は、ほとんどありません。必要です。問題は、この建物を維持する必要があるかどうかです」
梶原が診療所の壁を見た。
「建物は要らない、という結論もあり得るんですか」
「あり得ます」
津久見は一度、診察室の扉を見た。
「ただ、それを今、宇田川先生の前で言うつもりはありません」
以前の津久見なら、正しい結論は、誰の前でも同じように伝えるべきだと考えていただろう。
報告書に書く言葉と、目の前の人間に向ける言葉を、区別する必要性を感じてこなかった。
だが、港ノ浦で人の暮らしに触れるうちに、その考えは少しずつ変わり始めていた。
診療所の医師、宇田川仁は七十一歳だった。
週三日、非常勤で診療に来ている。本来なら、すでに引退していてもおかしくない年齢だ。
診察室の壁には、古びた表彰状や学会の記念写真が並んでいた。最も新しい写真でも、十年以上前のものだった。
机の上には、患者一人ひとりの記録が手書きのカルテとして残されている。電子化はされていなかった。
聞き取りが一通り終わった後、宇田川が静かに尋ねた。
「私がいなくなったら、ここはどうなるんでしょうね」
津久見は、問いで返した。
「終わらせたくない、ということですか」
「いや」
宇田川が、少し笑った。
「終わることは、もう分かってる。私がいつまでも続けられるわけじゃない」
「分かっているなら、何が気になるんですか」
「私がいなくなった後を、誰も考えていないことだ」
「市役所も、ですか」
「市役所だけじゃない」
宇田川は、机の上のカルテに目を落とした。
「私自身も、考えてこなかった」
その告白には、一つの場所を背負い続けてきた人間だけが持つ重さがあった。
続くと思っていた道が、途切れようとしている。
診療所も、地域も、宇田川自身も、その先を描けないまま、限界に近づいていた。
津久見には、その言葉の重さを正確に測る方法がなかった。
「先生は、ここへ来て何年になりますか」
梶原が尋ねた。
「三十年だ。最初は別の病院に勤めながら、週に一度だけ来ていた。それが、いつの間にか週三日になった」
「そこまで続けられたのは、なぜですか」
「ほかに来る医者がいなかったからだ」
宇田川は当然のことを話すように言った。
「誰かがやらなければ、ここの人たちは病院に通えなくなる。それだけだ」
市役所へ戻ると、津久見は梶原と林の前に選択肢を並べた。
「現在の建物を改修して維持する場合、概算で八千二百万円。これが一つ目の案です」
「無理でしょう」
林が言った。
「財政的に」
「無理というのは、いくらを超えると無理なのですか」
津久見が尋ねると、林は言葉に詰まった。
「いくらと言われても、今すぐには答えられません」
「では、金額の上限は別途確認します。次の問題に移ります」
津久見は資料を一枚めくった。
「仮に改修費を確保できても、後任の医師が来なければ診療所は閉鎖されます。公設民営も、運営する医療機関がなければ成立しません。これは、建物とは別の問題です」
梶原が資料に目を落としたまま尋ねた。
「何か方法はあるんですか」
「単独で完全な解決になる方法はありません。ただし、いくつかの手法を組み合わせることはできます」
津久見はホワイトボードに、三つの言葉を書いた。
巡回診療。
遠隔診療。
送迎支援。
「巡回診療は、近隣の医療機関から医師が週に数回来る方法です。同じ医師が継続して担当できるとは限りません」
次の言葉を指す。
「遠隔診療は、オンラインで医師の診察を受ける方法です。現地には看護職や補助者を置き、必要に応じて簡易な検査機器を使用します」
最後の言葉を指した。
「送迎支援は、診療が必要な住民を中心部の医療機関まで運ぶ仕組みです」
「どれも、完全な代わりにはならない」
林が言った。
「完全な代わりという場合、何を基準にしていますか」
「宇田川先生が、ここでやってきたことです」
「その基準を維持するなら、宇田川先生と同じように働く後任医師を探す以外に方法はありません」
津久見は、十年間の概算比較を示した。
「現在の建物を改修して診療所を維持する場合と、巡回診療、遠隔診療、送迎支援を組み合わせる場合では、財政負担に大きな差が出ます。ただし、まだ概算です」
梶原が数値を確認した。
「組み合わせる方が、かなり安い」
「そうです。ただし、これで解決したわけではありません」
津久見は別の欄を指した。
「巡回診療を依頼する医療機関、遠隔診療を支える人員、送迎を運営する主体。それぞれに費用が発生します。現在、それを継続的に負担する仕組みはありません」
三つの手段は、机上では組み合わせられる。
だが、担う人間も、財源も、まだ決まっていない。
「費用の問題を越えられたとしても、宇田川先生の代わりにはならないんですね」
梶原が尋ねた。
「なりません」
津久見は頷いた。
診療を継続する代替手段は示せる。
三つを適切に組み合わせれば、現在に近い医療水準を保てる可能性もある。
しかし宇田川が三十年かけて築いてきたものは、診療日数や患者数、費用だけでは表せなかった。
住民の病歴を知っていること。
家族関係を知っていること。
本人が言葉にしない変化に気づくこと。
この地域に医師がいるという安心。
それらを、津久見は数字に置き換えることができなかった。
そして、置き換えられないこと自体を、伝える必要があると思った。
「梶原さん」
「はい」
「この案件には、私には測れないものが含まれています」
梶原が困惑した顔をした。
「測れないと言われると、こちらも困るんですが」
「そうだと思います」
津久見は、言葉を濁さなかった。
「ただ、測れるものとして扱って結論を出すより、測れないものがあると認めた上で止まる方が、まだ正直です」
「止まって、どうするんですか」
梶原の問いに、津久見はすぐには答えなかった。
法と数字を当てはめれば、選択肢と費用は比較できる。
診療機能をどう残すかも、一定の範囲までは設計できる。
しかし、宇田川がこの土地で三十年かけて築いたものをどう引き継ぐかは、再編方針の表には書けない。
「測れないまま放置するつもりはありません」
津久見は答えた。
「何が測れないのかを明らかにします。その上で、それを判断にどう組み込むかを考えます」
五十七棟の再編方針に必要な精度を確かめるはずだった。
だが、港ノ浦診療所の検証で分かったのは、方針の精度だけではなかった。
数字にできないものがある。
だからといって、方針の外へ追い出すこともできない。
数値化できないことを明記したまま、それを判断材料から外さない方法が必要だった。
その方法を、津久見はまだ持っていなかった。
この話のFM豆知識
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※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら
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