ガソリンスタンド
先送りにしてきた問いへ、自分が一歩を踏み出すことになるとは、この朝の梶原誠一はまだ知らない。
軒先が落ちたのは、地区集会所だった。
その報告が届いたのは、月曜の朝だった。
湊原市役所、施設マネジメント担当課。窓の外には本庁舎の駐車場と、その向こうに連なる山並みが見える。
梶原誠一はコーヒーを一口飲んでから、添付ファイルを開いた。
沢田地区集会所。軒先を支える垂木が数本折損。腐朽した垂木が雪の重みに耐えられなかった。けが人なし。
報告は、それだけだった。
梶原は、すでに三度、同じ文面を読み返していた。
けが人が出なかったのは、結果に過ぎない。
大きな音が響いたのは、午前三時頃だった。たまたま誰もいない時間だったから、無事だった。それを、梶原は誰よりも分かっていた。
「課長がしていたことは、『様子を見ていた』とは言いません」
係長の林伸吾が、向かいの席から言った。
机の上には、同じ地区集会所の補修要望書が三年分、積まれている。一番下の要望書には、梶原自身の判子が押されていた。日付は三年前の春だ。
「じゃあ、何て言うんだい」
梶原には、林が何を言おうとしているのか、すぐには分からなかった。
「課長は様子を見ていたんじゃありません。決められなかったんです。『様子を見ましょう』は、その言い換えです」
怒っている口調ではなかった。ただ、林も口にせずにはいられなかったのだろう。
「様子を見ましょう」は、梶原の口癖だった。自分でも分かっている。
だが、それを面と向かって「決められなかった」と言い換えられたのは、初めてだった。
反論する言葉はなかった。
林の言う通りだった。
梶原は二十年、この役所で施設の判断を見てきた。前任者も、その前の担当者も、同じように様子を見ていた。その間、数え切れないほどの判断が先送りされてきた。
三年前、補修要望を受けた時に予算をつけていれば、今日の報告は届かなかったかもしれない。
しかし、その予算を別の施設から外せば、そちらで事故が起きていたかもしれない。
何を選べばよかったのか、梶原には分からなかった。
分からないから、様子を見る。
その繰り返しだった。
「分かってる」
それだけ答えると、会話は途絶えた。
市長室から内線が入ったのは、その十分後だった。
「梶原くん。RFSCに頼むことにした」
西條泰久市長の声は、いつもより明るかった。
「RFSCとは」
「地域施設支援機構だ。客観的なデータを出してもらう。そうすれば、住民への説明もしやすくなるだろう」
先週、桧原地区の祭りで顔を合わせた住民から、いつも通りの陳情を受けたと聞いている。
施設が古い。危ない。何とかしてほしい。
市長がどう答えたかは、想像がついた。
住民の声を大切にします。
だが、答えるだけでは施設は直らない。
「その説明は、誰がするんですか」
「もちろん、君だよ」
通話はそこで終わった。
外部機関が根拠を作ってくれるなら、自分が矢面に立たずに済むかもしれない。
話を聞いた瞬間、確かに安堵した。
その安堵は、住民への説明責任から逃れたいという気持ちと、一体のものだった。
梶原は自分への嫌悪を隠すように、静かに受話器を戻した。
地域施設支援機構の担当者が来庁したのは、二日後だった。
「津久見です。地域施設支援機構の」
梶原より十歳ほど若いだろうか。聞き取りやすい、明瞭な声だった。名刺を差し出す手つきにも無駄がない。場慣れしている、と梶原は思った。
市長の口ぶりから、もっと社交的な、あるいは同情的な人物が来ることを期待していた。
だが、資料に一通り目を通した津久見の第一声は、梶原の期待とはまるで違っていた。
「財政力指数、〇・一八。全国平均の三分の一以下ですね」
「ええ。そうです」
「課長は、この数字をどう受け止めていますか」
梶原は答えられなかった。
これまで「厳しい」とさえ言えば、誰もその先を聞かなかったからだ。
「正直に言うと、もう驚かなくなっています」
「驚かなくなった。その感覚は、危険な兆候だと思います」
津久見は資料をめくる手を止め、梶原の顔を見た。それから、再び資料へ視線を戻した。
「財政が厳しいこと自体は、湊原市だけの問題ではありません。同じことは、他の自治体でも間違いなく起きています」
自分たちだけが特別に追い詰められているわけではない。
それならば、と梶原は希望を込めて尋ねた。
「同じことが起きているなら、答えもどこかで見つかっていますよね」
津久見は頷かなかった。
安心を分け与えようという気配もなかった。
「残念ながら、見つかっているとは言えません。他の自治体の事例も、同じ間違いを繰り返さないための参考にしかならない」
梶原は、わずかな苛立ちを覚えた。
求めていたのは、もっと簡単な救いの言葉だった。
しかし津久見は、数字を指でなぞりながら続けた。
「今後十年間の施設更新費用は、約三十五億円。確保できる財源は約十二億円。不足額は約二十三億円です」
津久見が資料を閉じた。
「課長。まず、現場を見せていただけますか」
「どこから見ますか」
「一番、声が小さい場所から」
その言葉に、梶原は戸惑った。
これまでは、一番声の大きい場所、つまり要望の多い地区から手をつけてきたからだ。
「声が小さい場所とは、具体的にどこですか」
「資料を見ながら、これから決めます」
津久見は市内の地区別資料を並べた。
「湊原市は、中心部が一地区、沿岸部が三地区、山間部が四地区。合わせて八地区ですね。ほかに、平成の合併で編入された旧里浦町がありますが、現在は住民がほとんど残っていない」
梶原には聞き慣れた区分のはずだった。
しかし、人口や高齢化率、陳情件数と重ねて全体を見たことはなかった。
津久見は地区別人口の表を広げ、沿岸部と山間部の中から、陳情が最も少なく、高齢化率が最も高い地区に線を引いた。
「ここです」
「港ノ浦、ですか」
梶原は地区名を口にしながら、記憶を探った。
港ノ浦地区は、軒先が落ちた沢田地区のさらに奥にある。ここ数年、ほとんど陳情が上がっていなかった。
梶原は、それを問題がないからだと考えていた。
だが、津久見が選んだのは、その地区だった。
港ノ浦までは、車で四十六分かかった。
信号のない山道を進み、対向車が来るたびに梶原は車を路肩へ寄せた。
「声が小さい場所から」という津久見の言葉が、頭から離れなかった。
自分はこれまで、声の大きい地区を優先してきた。
声の小さい場所に、自分から目を向けたことがあっただろうか。
「この道一本ですか」
「ええ。冬は奥の方で通行止めになることもあります」
「通行止めになったら、地区の人はどうするんですか」
「除雪が終わるまで、待つしかありません」
道の両側には、葉を落とした木々が続いていた。
時折、廃屋のような家が見えた。表札は残っているが、暮らしの気配はない。
「この辺りも空き家ですか」
津久見が車窓の外を見ながら尋ねた。
「ええ。何軒かは。持ち主が市街地に出て、戻ってこないんです」
「戻ってこないというのは、もう住む予定がないということですか」
「分かりません。調べたことがないので」
事務的な答えしかできなかった。
この地区の状況を知ろうとせず、「様子を見ましょう」で済ませてきた結果だった。
ガソリンスタンドは、地区の入口近くにあった。
色褪せた看板には、「宮地商店」と書かれている。屋根の一部には錆が浮き、二基ある給油機の片方には「故障中」の紙が貼られていた。
「宮地さん、いるかい」
声をかけたのは、後ろからついてきた浜田一郎だった。
港ノ浦地区の自治会長を八年務めている。市役所の職員が調査に来ると聞き、同行を申し出た。役所の人間が地区に入るなら、誰かが立ち会わなければならない。浜田は、そういう気質の男だった。
「ああ、浜田さんか」
店の奥から出てきた宮地清は、七十五歳という年齢を感じさせない動きで、油に汚れた軍手を外した。背筋は伸び、声もしっかりしている。
「市役所の人が来るって聞いてな」
「地域施設支援機構の津久見です。少し、お話を聞かせてもらえますか」
「悪いが、もう決めたことだから」
宮地の答えは、そっけなかった。
「決めたこと、とは。廃業のことですか」
「ああ。後継者がいない。体力も落ちた。設備を更新する金もない」
「補助金が出れば、続けられますか」
宮地は自嘲気味に笑った。
「金だけの問題じゃない。続けたいのは山々だが、もう限界だ」
「続けてくれって、何度も言ったんだがな」
浜田が隣で、ぽつりと言った。
「俺たちは幼なじみだ。だが、限界だと言われたら、それ以上は言えない」
梶原は、そのやり取りを黙って聞いていた。
廃業を止められなかった。
浜田の言葉が胸に刺さった。
高齢化が進み、人口が減り、店も減った。梶原も、止められなかったものをいくつも見てきた。
店の中には、消防団のポスターや地区の祭りの案内が貼られていた。
ここは、燃料を売るだけの場所ではない。
地区の情報が集まる場所でもあるのだと分かった。
「ここがなくなったら、次に近い給油所までは」
梶原が尋ねると、浜田が答えた。
「車で三十二分だ。田舎じゃ普通だろう。だが、雪が積もれば、そこまで行けない」
津久見が尋ねた。
「ここが担っていた役割は、給油だけですか。ほかにもありませんか」
浜田は店内の椅子に座り、指を折りながら答えた。
「診療所への送迎も、うちの軽トラックでやっていた。買い物に行けない年寄りには、灯油も届けた。冬は、除雪機の燃料を運んだ家もある」
「燃料の配達までしていたんですか」
「正式な事業じゃない。宮地に頼まれて、やっていただけだ」
ガソリンスタンドが一つなくなる。
それは、公共施設台帳には載らない出来事だった。
しかし、この店は診療所への送迎や灯油の配達、除雪機への燃料供給といった、地域の暮らしを支える役割を担っていた。
津久見が梶原を呼んだ。
「梶原さん」
「はい」
「これは、ガソリンスタンド一軒の存廃だけの話ではないかもしれません」
「存廃の話でないなら、何の話なんですか」
津久見は色褪せた看板を見上げた。
「燃料が手に入らなくなる。送迎がなくなる。灯油が届かなくなる。一つずつ見れば、別々の問題です。しかし、この地区では、そのすべてが一つの店にぶら下がっていた」
「つまり」
「地域が存続するための、生存基盤の問題です」
津久見は、梶原に言葉が届いたか確かめるように、そこで止めた。
梶原は答えられなかった。
仕事の境界を越えている、と思った。
自分の役割は、公共施設を維持するか、廃止するかを判断することだ。
だが今、問われているのは、それよりもはるかに大きな問題だった。
宮地だけが軍手を握り直し、小さく笑った。
「大層な言い方をするもんだ」
「大層でしょうか」
津久見が聞き返すと、宮地は店の外へ目をやった。
「外れちゃいない。だが、うちも限界だ。期待されても困る」
帰りの車内に、会話はなかった。
梶原は、何かを考え込んでいる津久見をホテルまで送り、市役所へ戻った。
港ノ浦地区の状況を報告する必要がある。
対策は津久見が考えるだろう。
自分は、確認できた事実を淡々と報告すればいい。
そう考えながら、梶原は報告書を書き始めた。
翌日、市長から呼び出しを受けた。
梶原は津久見に連絡を取り、会議室へ向かった。
会議テーブルには、西條市長と奥田慎一副市長が並んでいた。梶原と津久見は、二人の向かい側に座った。
「ガソリンスタンドの件は、梶原から報告を受けました」
西條市長が資料に目を落としたまま言った。
「これから、どう進めるつもりですか」
「まずは現状把握です。昨日のように、一件ずつ現地を調査する方法もあります」
津久見が資料を開いた。
「ただ、事態は切迫しています。生存基盤が失われれば、地域そのものが維持できなくなります。すべてを調べ終えてから方針を考える時間はないと思います」
「時間がないということは、すでに存続の危機が起きている、と考えているのですか」
奥田副市長が初めて口を開いた。
総務省からの出向で、任期はあと一年。資料を読む速度は、この場の誰よりも速かった。
「おそらく、すでに起きています」
津久見が答えた。
「ただ、燃料、移動、買い物、医療といった問題が、別々の課題として扱われているため、地域の存続に関わる一つの問題として認識されていないのだと思います」
「では、どのように進めますか」
津久見は、市内の公共施設五十七棟をまとめた一覧を取り出した。
「五十七棟のうち、築三十年を超える施設が四十二棟。今後十年間の更新費用の不足額は、約二十三億円です」
「数字は把握しています。その上で、どうするのですか」
「個々の施設を一件ずつ調査してから判断するのではなく、市全体の再編方針を先に組み立てます。維持する施設、機能を転換する施設、廃止を検討する施設。まず、大きな枠組みを描きます」
「枠組みを作った後は」
「その中から、特に判断が難しい事案を選び、先行して検証します。港ノ浦のように、施設や事業の存廃が、地域の暮らしの基盤と直結している事案からです」
奥田が尋ねた。
「何を検証するのですか」
「机上で作った再編方針が、現場で本当に成立するかどうかです。どこまで調査すれば判断できるのか。どの条件が欠ければ方針が崩れるのか。実際の案件を通して、方針に必要な精度を確認します」
奥田副市長と津久見のやり取りが途切れると、会議室は静かになった。
梶原は、これまで一棟ずつ考えてきた。
一棟ごとに住民がいて、事情があった。
一棟でさえ、決められなかった。
五十七棟すべての方向を考える。
梶原には、気が遠くなるような話だった。
「全部を同時に、細かく検討するわけではありませんね」
自分にはできない。
その気持ちを隠し切れないまま、梶原は確認した。
「ええ」
津久見が答えた。
「先に大きな絵を描き、難しい事案から一つずつ確かめます。そこで分かったことを、全体方針へ戻します」
西條市長は目を閉じ、しばらく考えていた。
やがて資料へ視線を戻し、念を押すように尋ねた。
「住民の声を大切にするという前提は、変わりませんよね」
「変わりません」
津久見は市長の目を見て答えた。
「ただし、住民の声を聞く前に、行政側が何を聞くべきか、何を説明できるのかを整理しておく必要があります」
「整理できていないと、どうなるのですか」
「場当たり的に要望を聞くだけになります。施設の評価基準も、行政ができることの範囲も分からなければ、調整はできません。その状態で聞き取りを重ねても、方針が成立するかどうかは検証できない。調査を繰り返すだけになります」
市長は小さく頷いた。
津久見が、さらに一枚の資料を市長の前に置いた。
梶原も見たことのない資料だった。昨夜、ホテルで作ったのだろう。
「もう一点、申し上げておきます」
「何でしょう」
「検証を進める中で、行政の枠内では答えを出せない事案が出てくる可能性があります」
「具体的には」
「条例や既存予算、行政組織の所掌だけでは、解決の形を作れない事案です。港ノ浦の問題も、公共施設の再編だけでは解決できません。民間事業者、地域住民、交通、福祉、エネルギーを組み合わせた設計が必要になる可能性があります」
「その場合は、どうするのですか」
「行政以外の主体に役割を委ねる方法を検討します。その設計には、別の専門性を借りることになります」
奥田副市長が尋ねた。
「別の専門性ということは、津久見さんとは別の専門家ですか」
津久見が頷いた。
「私の専門は、法と数字です。しかし、法と数字も万能ではありません」
専門家としての矜持なのか。
それとも、不測の事態に備えた予防線なのか。
梶原には判断できなかった。
ただ、津久見は迷いなく言い切った。
市長も、その意味を測りかねているようだった。それでも、検討を否定はしなかった。
「分かりました。その段階になったら、改めて説明してください」
会議は終わった。
まだ何も始まっていない。
それなのに梶原は、すでに激しい疲れを感じていた。
この話のFM豆知識
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※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら
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