美原市・桂沢市
美原市は、人口約九万人の中規模市だった。
田丸が応対を受けたのは、入庁三年目の若手職員だった。机の上には、付箋の貼られた分厚い引継書が開かれている。
「前任者が、昨年、定年退職されまして。これが、その時に残された引継書です」
田丸は、差し出された引継書を開いた。
作業の時期、データの入力方法、関係課への照会手順、決裁までの流れ。驚くほど細かく、丁寧に書かれている。初めて担当する人間でも迷わないように、一つひとつの作業が順番どおりに整理されていた。
ただし、なぜその作業を行うのかは、どこにも書かれていなかった。
「とても丁寧な引継書ですね。実際に、書かれているとおりに進めてみて、どうですか」
若手職員は、困り切った表情を見せた。
「やってはいるんですけど……何のためにやっているのか、分からなくなる時があります」
「何のために、というと」
「手順どおりに数字を入力しても、その数字が、施設の優先順位にどうつながるのかが見えないんです」
若手職員は、引継書の一ページを開いた。
「ここに『利用率を入力する』とあります。でも、利用率が低ければ廃止を検討するのか、それとも、利用を増やす対策を考えるのか。そこは書いてありません」
「前任者に確認することはできないんですか」
「連絡先が分かりません。引継書を読むしかないんですが……読んでも、判断の仕方までは分からないんです」
田丸は、もう一度、引継書をめくった。
手順は親切だった。
若手が迷わないように、考える余地がないほど細かく書かれている。
「前任者は、あなたが困らないように、この引継書を作ったんでしょうね」
「そう聞いています。すごく面倒見のいい人だったそうです」
だからこそなのだ、と田丸は思った。
前任者は、後任が苦労しないように、自分が経験した迷いや試行錯誤を、手順に置き換えたのだろう。どの資料を見ればいいか。誰に照会すればいいか。どの順番で入力すればいいか。
悩む工程を、できるだけ取り除こうとした。
しかし、その結果、後任者が「なぜそうするのか」を考え、自分なりに納得する機会まで失われていた。
親切が、わずかに向きを違えたことで、手順だけを再現する運用に変わっていた。
田丸は、引継書の最初のページから、もう一度見直した。
手順は、ほとんど完璧だった。
だが、その手順が何を確かめるためのものなのか。どのような判断につなげるための作業なのか。
その一文だけが、どこにもなかった。
フィールドノート(美原市・田丸担当)
翻訳型(青葉市から)。
条件:前任者は定年退職し、連絡不可。後任者は入庁三年目。
選択:前任者は作業手順を詳細に残したが、判断理由を書かなかった。
結果:後任者は手順を忠実に実行しているが、数字の意味や判断とのつながりを理解できず、制度が実質的に機能していない。
手順は残ったが、「なぜそうするのか」が抜けていた。
折原氏の「判断を残す」、宮野氏の「資料を作った理由を残す」が欠けた形。
書類が残っていることと、知識が継承されていることは同じではない。
同じ日、皆川は一人で桂沢市を訪ねていた。
市の担当者である早川悟に案内されたのは、立派な装丁の計画書だった。
厚い表紙には、市名と計画名に並んで、外部コンサルティング会社のロゴが入っている。
「これは、何年前に作られたものですか」
「五年前です。当時の市長が力を入れて、外部に委託して作りました」
皆川は、計画書を開いた。
施設ごとの劣化状況、利用率、維持管理費、将来更新費用。データは細かく整理されている。統廃合の方針も、実施時期も、住民説明の進め方まで書かれていた。
提言としても、報告書としても、見事な出来だった。
皆川はページをめくりながら、強い既視感を覚えていた。
かつて自分が納品した報告書と、同じ種類の美しさだった。
「この計画は、現在も活用されていますか」
「正直に言うと、棚に入ったままの部分が多いです」
「なぜでしょう」
「委託先の方は、納品して終わりでした。その後、市の職員だけで動かすことになったんですが、この計画を理解して、実際の業務に落とし込める人が育たなかったんです」
「計画書を読めば、進め方は分かるのではありませんか」
「当時は、そう考えていました」
早川は計画書のページを開いた。
「でも、読んで内容を理解することと、それを現場で運用することは、別なんです」
「別、というのは」
「計画には、『関係課と調整する』『住民との合意形成を進める』『優先順位を毎年度見直す』と書いてあります」
早川は、一つずつ指で示した。
「書いてあることは正しい。でも、実際に誰に声を掛け、どの順番で話をし、反対が出た時にどう対応するのかまでは、計画書を読んでも分かりません」
「それをできる人がいなかった」
「はい。計画を理解できる人と、組織を動かせる人は違います。両方できる人は、なかなかいません。今になって、それが分かりました」
皆川は、少し迷った後、尋ねた。
「計画を作ったコンサルタントの方々を、恨んではいないんですか」
早川は首を振った。
「恨んでいません」
即答だった。
「当時の市長も、コンサルの方も、本気でした。このままでは、市の財政が持たない。できる限り良い計画を作って、将来を守ろうとしていた」
早川は、計画書の表紙を軽く撫でた。
「計画そのものは、本当に見事なんです。誰も手を抜いていません」
「ただ、日常業務と並行して動かす人手がなかった」
「そうです」
早川が静かに頷いた。
「向こうは、良い計画を渡せば、私たちが動かせると信じてくれた。私たちも、良い計画があれば、何とかなると思っていた」
少し間を置いた。
「でも、私たちは日々の業務で手一杯でした。計画に書かれた理想に応えられなかった」
「誰も悪くなかった」
「誰も悪くないのに、噛み合いませんでした」
皆川は、その言葉を静かに聞いていた。
相手を信じて、優れた計画を渡す。
それで、自分の仕事は終わったと考える。
かつての自分だった。
きれいな報告書を納品し、その後は現場が進めてくれると信じた。計画がどのように読まれ、誰が動かし、どこで止まったのかを、確かめようとしなかった。
目の前の担当者の誠実な言葉が、過去の自分を静かに打ちのめしていた。
皆川は、早川の言葉をフィールドノートに書き留めた。
後から読み返すと、自分の字が、いつもより乱れていることに気づいた。
フィールドノート(桂沢市)
外部翻訳型(コンサルティング会社への委託)。
条件:外部委託により作成された、高品質で詳細な計画書が存在。
選択:委託側は「読めば理解し、現場で動かせる」と自治体を信じ、納品をもって業務を完結させた。自治体側は、日常業務と計画の運用を両立できなかった。
結果:計画書は残ったが、運用する人材が育たず、棚に入ったままになった。
「読めば分かる」と「実際に動かせる」の間には、大きな距離がある。
誰も手を抜いていない。誰も不誠実ではない。それでも、根付かなかった。
これは、前職の自分が行っていたことと同じ構造だった。
きれいな報告書を作り、納品し、その後を見なかった。
夜、田丸と合流した皆川は、いつもより静かな声で桂沢市のことを話した。
高品質な計画書が残っていたこと。
誰も手を抜いていなかったこと。
それでも、動かす人が育たず、計画が棚に入ったこと。
そして、それが前職の自分と同じ構造だったこと。
皆川の声は、言葉を一つずつ絞り出しているようだった。
田丸は、途中で口を挟まず、最後まで黙って聞いた。
「先輩……大丈夫ですか」
「うん。大丈夫」
皆川は答えた。
「ただ、あの時、ちゃんと見ておけばよかったと思った」
「納品した後を、ですか」
「うん。計画が使われているか。誰が困っているか。どこで止まったか」
皆川は、手元のノートを見た。
「私は、きれいな一瞬だけを見て、終わったと思ってた」
田丸は、それ以上、何も尋ねなかった。
代わりに、美原市の引継書について話し始めた。
詳細な手順が残されていたこと。
後任の若手職員が、そのとおりに作業していること。
それでも、なぜ作業をするのかが分からず、判断につなげられていなかったこと。
皆川は話を聞きながら、フィールドノートに二つの事例を並べて書いた。
美原市には、手順が残っていた。
桂沢市には、計画が残っていた。
どちらにも、立派な書類があった。
だが、美原市では、手順から判断の理由が抜けていた。
桂沢市では、計画から運用する人間が抜けていた。
書類は残った。
しかし、根付いてはいなかった。
皆川は、二つの記録の下に、一行を書き加えた。
残すべきなのは、完成した書類ではない。次の人が考え、動き、修正できる状態である。
この話のFM豆知識
(豆知識は準備中)
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら
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