緑川町・舟見市
緑川町は、人口三万人弱。財政力はやや弱いものの、近年は大きな混乱もなく、行政運営を続けている町だった。
皆川は、町役場の小さな会議室で、施設管理係長の久保田誠を待っていた。
「お待たせしました。久保田です」
現れた久保田は六十代前半。短く整えた白髪と、実直そうな顔立ちの男性だった。
椅子に座るより先に、分厚いファイルを一冊、皆川の前に置いた。
「これが、うちの施設台帳です。十五年前に、私が一人で作りました」
「十五年間、ずっとお一人で更新されてきたんですか」
「途中から、後輩にも手伝ってもらっています。ただ、骨格は最初から変わっていません」
久保田はファイルを開いた。
施設ごとの基本情報、修繕履歴、維持管理費、劣化状況。その欄外に、小さな手書きの文字が何年分も並んでいた。
「この注記は」
「なぜこの項目を作ったのか、なぜ評価方法を変えたのか。毎年、理由を一行だけ書くようにしています」
「最初から、その運用だったんですか」
「いえ。後輩が来てからです」
久保田は少し笑った。
「自分には分かっているから、説明しなくても大丈夫だと思っていたんです。でも、後輩から『なぜこの数字を見るんですか』と聞かれて、答えが台帳のどこにも書かれていないことに気づきました」
皆川は、欄外の記述を一つずつ確認した。
評価項目を追加した理由。
修繕履歴の書き方を変更した理由。
利用率だけでなく、代替施設までの距離を記録するようにした理由。
どの注記も短い。しかし、次に読む人が判断の背景をたどれる程度の情報は残っていた。
「お一人で続けるのは、大変ではありませんでしたか」
久保田が苦笑した。
「冷たくされたわけじゃないんです。みんな、『久保田さんに任せておけば安心だ』と言ってくれました。信頼されるのは、ありがたいことでした」
そこで一度、言葉を切った。
「ただ、気づいたら、私にしか分からないことが増えすぎていました」
「それで、理由を残すようにした」
「そうです」
久保田は、開いたファイルに視線を落とした。
「恨みではないんです。次にここに座る人が、私と同じ思いをしなくて済むようにしたかった。それだけです」
「同じ思い、というのは」
「膨大なデータを、一人で読み解く時間です」
久保田は淡々と答えた。
「前の人が何を考えて、この項目を作ったのか。それを全部、自分で推測するところから始める。あの時間を、後輩には渡したくなかった」
「後継者の方は、もう育っていらっしゃるんですか」
「育っています」
久保田は、今度は迷わず答えた。
「三年前から、半分は任せています。私が辞めても、多分、止まらないと思います」
皆川は、これまでの面談の中でも、最も確信に満ちた答えを聞いた気がした。
フィールドノート 緑川町
独自開発型。外部事例の翻訳ではなく、久保田氏が十五年前に施設台帳を作成した。
条件:施設管理係に十五年間在籍。実質的な専従状態。
選択:判断理由を欄外に記録し、三年前から後輩へ業務の半分を委ねた。
結果:久保田氏が退職しても、運用は止まらない見込み。
重要なのは、創造者か翻訳者かではないのかもしれない。
久保田氏は、自分だけが理解している状態を解消するために「理由を残す」ことを選び、自分がいなくても続くように「手放す」ことを選んだ。
記録と継承の両方が、意識的に行われている。
同じ日、田丸は舟見市の市民協働課を訪ねていた。
舟見市は人口約十二万人の中規模市で、かつて青葉市の取組を参考に、施設白書の作成を試みたと聞いていた。
応対したのは、係長級の男性だった。
面談が始まる前から、どこか疲れた様子があった。机の上には、処理を待つ書類が山のように積まれている。
「青葉市の白書を、頑張って真似してみたんです」
男性は、最初から過去形で話した。
「でも、結局、続きませんでした」
「続かなかった理由は、何だったんでしょうか」
「業務の上乗せだったからです」
男性は、田丸ではなく、机の書類を見ながら答えた。
「本来の仕事が忙しくなれば、そちらを優先します。施設白書の方は、少しずつ後回しになりました」
「施設白書の作成は、係長さんの正式な担当業務ではなかったんですか」
「違います」
男性が首を振った。
「当時、若手で、やる気があると思われていたんです。それで、上から『やってみないか』と振られました」
「断れなかった」
「断る理由もありませんでした。面白そうだとも思いました」
男性は、少し自嘲するように笑った。
「今になって思えば、それが良くなかったのかもしれません」
「他の部署から、データを出してもらうことはできなかったんですか」
男性は再び首を振った。
「協力しなかったわけではありません。みんな、それどころではなかったんです」
福祉。
子育て。
防災。
税務。
それぞれの課が、その日の市民対応と締切に追われていた。
「将来の施設のことより、目の前の仕事を優先する。それは正しいんです」
男性は続けた。
「だから、無理にデータを出してくれとも言えませんでした」
「それで、ご自身で集めたんですね」
「集められるものは、自分で集めました」
男性の声には、当時の自負よりも、疲労の記憶が残っていた。
「でも、一人でできる範囲には限界があります。誰も悪くないんです。みんな、市民のために働いていました」
そこで男性は、初めて田丸の方を見た。
「ただ、庁内を横につなぐ仕組みがなかった」
少し間を置いた。
「そういう組織では、やる気のある人間から先に潰れていきます」
田丸は、その言葉を書き留めながら、胸の奥が重くなるのを感じた。
その隙間を、一人の担当者が埋め続け、消耗した。
田丸は、それ以上深く踏み込まなかった。
丁寧に礼を述べ、面談を終えた。
フィールドノート 舟見市・田丸担当
青葉市からの翻訳型。
条件:所掌外。正式な担当業務ではなく、「やる気のある若手」という理由で付加された仕事。
選択:本来業務と施設白書作成を、一人で抱え込んだ。
結果:本来業務が繁忙化した時点で、施設白書が後回しとなり、運用が停止した。
専従でも兼任でもない。「所掌外」という最も不安定な立場だった。
庁内の各課は非協力的だったのではない。それぞれが目の前の業務に誠実だった。
しかし、課を横断して情報を集める仕組みがなかったため、個人の努力がその空白を埋めた。
制度上の空白を「抱え込む」という選択で補った結果、担当者が消耗した。
「やる気のある人間から先に潰れていく」という言葉を、そのまま記録する。
夜、宿泊先で合流した二人は、それぞれの一日を報告し合った。
皆川が先に話した。
「緑川町は、続いていました。理由を記録する習慣と、仕事を手放す準備が、両方ありました」
「久保田さんが、後継者に渡したんですね」
「三年前から半分を任せてる。自分が辞めても止まらない、と迷わず言ってた」
田丸は、舟見市で聞いたことを伝えた。
「舟見市は、止まっていました。正式な担当じゃないまま、一人で全部抱え込んでいたことが、一番大きかった気がします」
「周りが協力しなかったから?」
「違います」
田丸は、すぐに否定した。
「みんな自分の仕事で手一杯だったんです。誰も悪くない。でも、横につなぐ仕組みがなかった」
皆川は、しばらく考えてから頷いた。
「創造者か翻訳者かは、あまり関係ないのかもしれない」
「私も、そう思いました」
「立場が安定しているか。業務として位置づけられているか。後継者に渡せるか。その方が、影響が大きい」
田丸は、ノートに小さく書き加えた。
緑川町――記録して、手放した。
舟見市――記録する前に、抱え込んだ。
二つの正反対の事例が、同じ軸の両端に並んだ。
仮説を壊すために始めた調査で、初めて、比較できる形の差が見えた一日だった。
この話のFM豆知識
(豆知識は準備中)
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら
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