数えられないもの
渚町役場を出たあと、皆川は、しばらく何も言えずにいた。
日野のノートと、白井が作ろうとした提案書を、頭の中で何度も並べ直していた。
「先輩、これも当てはまってしまいますね」
田丸が、隣を歩きながら言った。
「翻訳しようとした人はいた。でも、完成する前に異動した」
その声には、発見の興奮よりも戸惑いの方が強かった。
皆川も、同じ戸惑いを感じていた。
「うん。湊原市も、早瀬市も、渚町も、全部、同じ仮説で説明できてしまう」
「良いことじゃないんですか。仮説が当たっている、ということですよね」
「……それが、少し怖い」
皆川は、ようやくそれだけを口にした。
三つの事例を、自分で選んで見てきた。
だからこそ、自分に都合のよい説明へ、事例の方を寄せてしまっているのではないか。その不安が消えなかった。
白井が、少し間を置いて言った。
「調べる側の都合で、なかったことにされているものは、きっと他にもあると思うよ」
普段の白井は、簡単に評価や断定をしない。
その白井が、珍しく踏み込んだ言い方をした。
それは、制度にはならなかった日野のノートを擁護する言葉であると同時に、皆川の仮説へ向けられた警告でもあった。
駅へ向かう途中、皆川は立ち止まり、フィールドノートを開いた。
これまでとは、少し違う書き方になった。
フィールドノート 渚町・転換点
「翻訳者」と「担い続ける人」の両方が必要である、という仮説は、湊原市、早瀬市、渚町の三事例すべてに当てはまる。
しかし、三事例に当てはまるからといって、それを法則と呼ぶことはできない。
自分が見たいものに合わせて、事例を読んでいないか。
仮説に当てはまらない事例を、まだ見ていないだけではないか。
もう一つ、この仮説は、時間が経過してからでなければ検証できない。
現時点で翻訳者と担い手が揃っていても、その仕組みが本当に根付くかどうかは、数年後まで分からない。
前職で、私が見られなかったものと同じである。
計画が完成した直後の姿だけでは、定着を判断できない。
田丸が、ノートを覗き込まずに言った。
「もっと見ないと、ですね」
「うん」
皆川はノートを閉じた。
「でも、一つ一つ全部を、自分の足で回るのは無理だと思う」
それは研究計画上の課題ではなかった。
自分の限界を、自分の言葉で初めて認めた瞬間だった。
大学に戻った皆川は、蓑輪の個室で、早瀬市と渚町の調査結果を報告した。
早瀬市では、沖田が地域に合わせて仕組みを作り直した。しかし後継者が決まらないまま異動し、運用は止まった。
渚町では、日野が青葉市の取組を読み続けていた。白井がそれを公式な提案へ翻訳しようとしたが、完成前に町を離れ、提案は立ち消えになった。
蓑輪は、最後まで聞いてから確認した。
「三つの事例が、すべて同じ仮説で説明できてしまう、ということですね」
「はい」
皆川は頷いた。
「だから、怖いんです。都合が良すぎる気がします」
蓑輪は、すぐには答えなかった。
しばらくして、小さく頷いた。
「では、もっと多くの事例を見ましょう」
「仮説を確かめるために、ですか」
「いいえ」
蓑輪は、穏やかな声で言った。
「仮説を壊すためにです」
皆川は、その言葉を繰り返した。
「壊すために」
「当てはまる事例だけを集めれば、どんな仮説でも正しく見えます。必要なのは、当てはまらない事例を探すことです」
皆川は頷いた。
これまでは、青葉市で見つけたものが、他の自治体にも存在するかを確かめようとしていた。
これからは違う。
存在しない場所を見る。
翻訳者がいなくても根付いた事例。
担い手が交代しても続いた事例。
二つが揃っていても失敗した事例。
そうした反例を探さなければならない。
新しい調査が、そこから始まった。
調査対象を広げるにあたり、皆川と田丸は、事例を記録するための共通様式を作った。
自治体名や制度名だけでは、比較できない。
そこで、どの事例でも同じ事実を確認できるよう、項目を揃えた。
担当者の立場。専従か、兼任か、所掌外の自主的な取組か。
担当者の在籍年数。
外部の知見を、その自治体に合わせて作り直した人物の有無。
運用を継続的に担った人物や組織の有無。
判断理由や変更経緯の記録の有無。
異動時の後継者の有無。
首長交代や組織改正の影響。
予算と人員の変化。
点数はつけなかった。
定着度も、成功度も評価しなかった。
同じ項目で、確認できた事実だけを集める。
仮説に沿って解釈するのは、事例が揃ってからにした。
田丸が、完成した様式を見ながら言った。
「答えを書く欄がないですね」
「うん。今は、なくていい」
「先輩、前より慎重になりましたね」
皆川は考えた。
「前は、早く答えを出したかったんだと思う」
「今は違うんですか」
「今は、間違った答えを出す方が怖い」
田丸は、それ以上何も言わなかった。
二人は、完成した様式を共有フォルダに保存した。
ファイル名は、「自治体FM知見伝播事例・共通調査票」。
空欄ばかりの表だった。
その空欄を埋めていくことが、次の調査になった。
この話のFM豆知識
(豆知識は準備中)
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・自治体等はすべて架空であり、実在するものとは関係ありません。作中の制度・法令に関する記述は一般的な説明であり、最新情報は関係省庁にご確認ください。詳しい注記はこちら
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